94. 小さな恋の報せ
寒さは日を追うごとに厳しさを増し、吐く息が白く凍る日々が続いていた。冬の終月の初め、今の時期が一年でもっとも寒い時期だ。
そんなある日――雪こそ降っていないものの、薄曇りで空が重たく感じられるある休日。私はメリッサやエンマをはじめとしたフィオルテ商会の皆と一緒に、旧市街の運河沿いにある遊興広場へと足を運んでいた。
この広場に隣接する水路は、調整のために人工的に作られた水深の浅い排水路で、冬の間はわずかな水を残して水門が閉ざされることになっていた。そして、その水面に厚く氷が張ると、それは「氷路」と呼ばれ、今の季節だけ市民の遊び場として開放されていた。
氷路の端には、スケート靴の貸し出し屋や薪の焚かれた休憩小屋が並び、冷えた足を温めながら一息つける場所もある。
上の広場には屋台が立ち並び、香ばしく焼けた菓子や温かい飲み物、果ては酒まで売られていた。露店では手袋やマフラーなどの防寒具をはじめ、日用品やアクセサリーなどの雑貨も並ぶ。
ベンチや木の長椅子のある焚き火の傍では、スケートをしない人々も団らんを楽しんでいて、この場の空気は賑やかで、どこか浮き立つような楽しさに満ちていた。
実は、ここに来るのは二度目だ。
私がお嬢様の付き添いでここを初めて訪れたのは、先々週のこと。ご友人であるデルネーリ商会のラウラ嬢からここの話を聞き、ぜひスケートを楽しみたいと仰ったのが始まりだ。
結局、お嬢様方の要望が叶って実現したのだけれど、あれはもう、ひやひやの連続だった。
転んで怪我でもしたら大変と、私やラウラ嬢お付きのメイドはてんやわんやで、心の中で何度叫び声を上げただろうか……。
そんな訳で、せっかく氷路を訪れたものの、私は滑るどころではなかった。
後日、商会で見習いをしている時にその話をメリッサにしたところ、「懐かしい〜」と妙に食いつかれてしまい、気づけば今回の商会の皆でのお出かけに話が発展したというわけだ。
ここは下流〜中流層向けの遊び場だけあって、人出は多い。主に遊んでいるのは子供たちだけれど、大人の姿もそれなりに見かけられた。きっと、今日が休日というのも、大人が多い理由なのだろう。
遊びや交流が目的だけでなく、出会いを求める人も少なくないのだと思う。
今日、ここに来たのは従業員同士の親睦のためというのが表向きの理由だけれど、もちろんそれだけではない。
商会の男性従業員にも声をかけて、一部の男性が参加しているのだけれど、それとなく意中の相手に距離を詰めている人もいるし、エンマをはじめとした女性陣の一部は、寒さ対策をしながらも、自分を一番よく見せる装いで来ている人もいた。
フィオルテ商会は化粧品を扱っているだけあって、皆の身なりは洗練されていて、自然と目を引いていた。このまま氷路に出れば、人の視線を集めることは間違いないだろう。
そんな彼ら彼女らがスケート靴を履き、意気揚々と氷の上へと滑り出していくのを、私はメリッサ、そして従業員見習いのイヴァンと共に、貸出屋の前で見送った。
靴を手にしたメリッサは、のんびりと腰を下ろしながら、ゆっくりと紐を結んでいる。その様子を見て、イヴァンが少し不思議そうに尋ねた。
「メリッサさん、行かなくていいんですか?」
「んー、私は付き合いで来ただけだから。軽く流すくらいでいいかな」
イヴァンの「出会いを探しに行かないの?」という遠回しの質問に、メリッサは気軽な様子で答える。けれど、その返しには、どこか歯切れの悪さがあった。
それもそのはず、実はメリッサには今、恋人がいる。正確に言うと、少し前にできたと言うべきだろうか。こっそりその話を聞いた時は本当に驚いたものだ。
エンマ達にはまだ秘密にしているらしいけれど、話を聞いた私としては、その理由もわかる気がする。絶対、エンマが「ずるい!」と言ってくるのが目に見えているからね。
そんなことを考えながら、私はメリッサから話を聞いた時のことを思い出していた。
「えっ! ガスパロ様とお付き合いすることになったの!?」
メリッサの一言に、思わず大きな声を上げてしまった。慌てて口を押さえて周囲を見回したけれど、幸いにも広場の片隅のベンチには他に人影はなく、大声を咎める視線もなかった。
先月の休みの日。久しぶりに二人で出かけようとメリッサに誘われて、一緒に街へ買い物に行った。店をいくつか見て回ったあと、昼時になって広場のベンチに腰かけて、屋台で買ったパンやおかずを取り出していたちょうどその時、メリッサからその話を切り出された。
『ねえ、アリーチェ。実は、今日はあなたに話したいことがあったの……』
そんな風に切り出された時点で、ただ事じゃないとは思ったけれど、まさか、それがガスパロ様とお付き合いすることになった話だったなんて、夢にも思わなかった。
「……いったい、どういう経緯でそういうことになったの?」
興奮した気持ちを何とか抑えつつ、私はパンを手にしたまま尋ねる。すると、メリッサは照れくさそうに笑いながら、少しずつ語ってくれた。
ドゥルチェッツァでルキス様たちと会ったあの日、ルキス様と私が二人きりで話をしていたけれど、実はあの時、ルキス様はあらかじめガスパロ様に席を外すよう頼んでいて、さらに、メリッサたちが過ごすための別室まで用意していたらしい。
前もって席を外す算段だったのだろうとは思っていたけれど、まさか別室まで用意していたとは……。
「お菓子を選ぶのに時間がかかったとは思ってたけど、そういう事情があったのね」
「ごめんなさいね。あの時アリーチェが大泣きしていたから、そのことを話す機会がなくなってしまって、その後もなかなか言えなくて……」
メリッサが申し訳ない顔をしているのは、私を一人にして、結果的に泣くような事態に陥らせたことを悔いているのだろう。
部屋に戻りたいと思っても、それだけ段取りを整えられていたら、貴族の手を押しのけて私の元に戻ることは、メリッサには難しかっただろう。
「何度も説明したけれど、メリッサが気に病むようなことはなかったから、大丈夫よ。今は、どういうわけか手紙の親交があるくらいだし」
私はメリッサを安心させるように、からりとした笑顔を浮かべた。メリッサは、私がルキス様と手紙のやり取りをしていることを知っている数少ない人間だ。
メリッサは表情を緩めると、その後のガスパロ様の話を続けた。
「別室では、ただの雑談をしていただけだったのだけれど、その後……ほら、アリーチェが“お詫び”として彼に誘われたでしょう?」
うんうん、と私は大きく頷く。
「その話を知ったガスパロ様がね、『あの時、友人が泣いていて酷く衝撃を受けただろう。それに、自分も同席していたわけだし、よければお詫びをさせてほしい』って言ってくれて……」
メリッサは、照れたように視線を落としながら語る。その様子が、妙に可愛らしくてつい見入ってしまう。
ガスパロ様は、ルキス様からの手紙を商会に届けに来てくれていたらしい。それで、その時にメリッサに声をかけ、“お詫び”として誘ってくれたのだという。せっかく誘ってくれたからと、メリッサは断ることなく、二人で菓子店へ出かけたらしい。
「それでね、その帰り道に……『今度はお詫びじゃなくて、普通に誘ってもいいか』って聞かれて」
そして、その次に出かけた時に、ついに告白されたのだという。
「お付き合いしてほしい、って言われたの。遊びじゃなくて、ちゃんと結婚を前提にって……」
そこまで語ったメリッサの頬は、ほんのり赤らんでいた。あのしっかり者のメリッサが、こんなふうに恥じらうなんて……私は嬉しさと驚きが入り混じったような気持ちで、思わず頬が緩んでしまう。
友人から本格的な恋の話を聞くのは、これが初めてだった。
(恋の話って、こんなに甘酸っぱくて、幸せな気持ちになるのね……)
「すごいね……メリッサ。おめでとう。私がきっかけになったなんて、とっても嬉しいわ」
私はそう言って、満面の笑顔をメリッサに向ける。彼女の頬がさらに少しだけ赤くなって、照れたようにうつむいた。
私は「でも……」と言葉を続け、少し言い淀みながら口元に手を添える。
「身分の差は大丈夫なの? それに……メリッサの夢もあったでしょう?」
ずっと前に聞いたメリッサの夢は、結婚しても働き続けたいというものだった。それに、貴族と平民では立場が違う。言葉にした不安が、胸の奥でひっそりと疼いていた。
メリッサは少しだけ視線を落とし、それから穏やかに微笑んだ。
「身分の差は、おそらく大丈夫だと思うわ。もともとガスパロ様は準男爵家の出身で土地を持たれていないから、貴族の中ではそれほど高い身分ではないの。それにね、お母様が商家の出身らしくて……だからお父様も、きっと強く反対はされないだろうと仰っていたの」
その言葉を聞いた時、私の胸の内に広がったのは安堵ではなく別の不安だった。
「魔力のこともあるけれど……ガスパロ様は、気にしないって仰ってくれているわ」
その言葉に、私は小さく息をのむ。
――そう、問題は“魔力”だ。
貴族と平民の恋を阻む最大の壁。平民は基本的に魔力を持たない。だから貴族と平民が結婚した場合、魔力の少ない子供が生まれる可能性が高いのだ。
貴族である以上、魔力は重要な資質であり、それを理由に結ばれた恋が「愛妾止まり」で終わる話を、私は耳にしていた。だからこそ、貴族と平民の恋物語は、物語の中だけの幻想のように語られることが多い。
ガスパロ様のお母様が平民であったなら、ガスパロ様自身も魔力が多い方ではないだろう。そのこともあるから、気にしないと仰ったのかもしれない。
「それにね、ガスパロ様と結婚したら商会は辞めなきゃいけないけれど、私が希望するなら、働くこと自体は止めないって、そう言われたの」
メリッサは、どこか誇らしげに笑った。
「でも……貴族のご夫人になったら、普通に働くなんてできないのではないかしら……?」
私は戸惑いながら問い返す。メリッサの夢は素敵だけれど、貴族という立場に縛られれば、そう簡単にいかないこともある。
けれど、メリッサは心配する私をよそに、明るく笑顔で答えた。
「その点は大丈夫。私は貴族の夫人として“働く”ことを考えているの」
その意味が分からず、私は思わず首を傾げる。けれど、その後の彼女の説明を聞いて、納得がいった。
貴族のご婦人方は、普段は侍女やメイドに化粧をしてもらうけれど、彼女たちは化粧の専門家というわけではない。そのため、ときおり“化粧師”を呼ぶことがあるのだという。
「今のところ、化粧師ってほとんどが平民なの。でも、私が“貴族の夫人”という立場になれば、それを強みにして、ご婦人方により近い目線で、講師や化粧師、髪結師として関われると思うの」
なるほど。確かにそれなら貴族の立場でも働けるし、貴族のご婦人方も平民の化粧師よりは受け入れやすいだろう。長年フィオルテ商会で培ってきた経験も無駄にはならないし、何より彼女らしい柔軟な発想だった。
「それは……とても素敵な夢ね! 私、全力で応援するわ!」
思わず私の声が弾んだ。メリッサの夢が形を変えながら、途切れることなく続いていくのだと思うと、胸の奥からじんわりと嬉しさが広がった。
メリッサもまた、嬉しそうにこちらへ視線を向ける。
「ガスパロ様との結婚なら、きっと私の父も反対しないわ。実家の商会の販路拡大にもつながると思うし……親にも、ちゃんと孝行ができると思うの」
その横顔は、どこまでも柔らかで穏やかで、これまで見た中で一番幸せそうに見えた。
近いうちに、ガスパロ様のご両親にもご挨拶に伺う予定なのだという。もしすべてが順調に進めば、一年ほどの婚約期間を経て結婚することになるのだそうだ。
そう教えてくれたメリッサの瞳は、まっすぐ未来を見据えて輝いていた。
「アリーチェは、今日がほぼ初めてですよね?」
不意にかけられたイヴァンの声に、私はふっと、記憶の奥から意識を引き戻される。
「ええ。前回、お嬢様の付き添いで氷路には降りたけれど……スケート靴を履いて滑るのは、確かに今日が初めてよ」
「あなたさえよければ、滑り方を教えましょうか?」
どこか照れくさそうな気配の混じったイヴァンの顔を、私はまじまじと見つめる。以前のイヴァンからは考えられない申し出だった。
最初に出会った時の彼は、明らかな敵意を隠そうともせず、私に対して棘のある態度ばかり取っていた。けれど、私が商会の見習いとして何度も顔を合わせるうちに、少しずつ態度が軟化し、今ではこうして普通に会話ができるようになっていた。
あの頃と比べたら、ずいぶん丸くなったものだなあ、と心の内で密かに思う。不器用な優しさにほっとした気持ちになりながら、私はイヴァンに笑顔を返した。
「ありがとう。せっかくだし、お願いしようかな」
私がそう答えると、イヴァンはそっぽを向きながらも、どこか嬉しそうに頷いた。
「分かりました。では、行きましょう」
メリッサの笑顔に見送られながら、私とイヴァンは貸出屋の前からゆっくりと移動した。
氷路の端のほうで、イヴァンの指導を受けながらスケートを練習することしばらく、イヴァンが困惑したような顔で私を見つめていた。
「あなた、本当に初めてですか……?」
「……私の故郷では、氷の上を滑るなんて遊びはなかったから、正真正銘初めてよ」
「それなら、なんでこんなに上達が早いんですか……」
イヴァンの言うように、教えてもらって少しすると、私は一人でも滑れるようになってしまっていた。イヴァンの手を借りなくても、もう危なげなく氷の上を進める。
「前回、滑りはしなかったけれど、氷路の上には立っていたから、氷の感覚に少し慣れていたのだと思う。それに……」
一瞬だけ言葉を探して、それから私は微笑んだ。
「私は、こういう身体を動かすことに関しては、上達が早い方なの。……あ、でもね、イヴァンの教え方がとても上手だったから、すぐに滑れるようになったのだと思うわ」
励ましのつもりで言ったけれど、イヴァンはなおも暗い顔のまま、どこか気まずそうに呟いた。
「……そうですか。それなら……よかった」
あまり慰めにならなかったようで、私は少しだけ申し訳ない気持ちになる。とはいえ、わざと滑れないふりをするのも、ちょっと違うと思うし……。
下手に転んで怪我をしたり、誰かに迷惑をかけるよりはマシだと自分に言い聞かせて、私は小さく息を吐いた。
「少し、自由に滑ってくるね」
そう伝えて、私は軽く手を振りながら氷の上を滑り出す。背後でイヴァンが「はい」とだけ返したのが聞こえた。
こういう光景は、何度も見てきた。
何かを始めるたびに、私はどんどん上達してしまい、相手の驚きの顔がやがて失意や苛立ちに変わるのだ。イヴァンがそうだったわけではないけれど、似たような表情を見るたびに、胸の奥に沈んだ記憶が疼いてしまう。
私はなるべく何も考えないようにして、氷の上をただひたすら滑り続けた。
冷たい風が頬をかすめていく。うすら曇った空の下、人々のスケートの跡が広がる氷路。周囲の喧騒も、笑い声も、今はどこか遠い世界の音のように感じる。
どれくらい滑っていただろう。ふと、何か引っかかるような感覚がして、私は滑る足を止めた。
(……視線?)
誰かに見られているような、そんな感覚。周囲をぐるりと見回してみるけれど、近くに知った顔は見当たらない。商会の皆とも、少し離れてしまったようだ。
(気のせいだったのかな……?)
そう思いながら、ふと視線を上に向けると、水路の両脇に設けられた歩道に立つ人々の一人に目が留まる。
それなりに距離があったけれど、その人とはっきり視線が合ったのが分かった。
(ルキス様……?)
「何故ここに?」という疑問と共に、驚きで胸の奥が跳ねる。
冬の空の下、ルキス様が静かに、けれど確かにそこに立っていた。
良いところを見せようと張り切ったイヴァンでしたが、残念ながらあっさり上達されてしまいました。




