92. 二度目の冬
冬の初月を迎えた。朝晩の外の空気は冷え込みを増し、吐いた息が白くなりはじめ、また一つ季節が進んだ。
その夜も、いつものように仕事終わりの女性メイドが厨房に集まって雑談していた。お風呂を済ませた人もいれば、順番を待っている人もいて、湯気と笑い声が入り混じる厨房は、なんとなく心まで温まるようだった。
そんな和やかな雰囲気の中、今日は休みを取っていたノエミが戻り、厨房に顔をのぞかせた。そして、ノエミの発した一言により、その場の空気が一変する。
「結婚が決まったわ」
「えっ、ノエミ、結婚するの!?」
厨房の空気が、一気に沸き立つ。皆がノエミの言葉に耳を傾ける。
「今日、母さんの紹介で相手と会ってきたんだけど、思ったより悪くなくてね。とんとん拍子に話が進んじゃってさ、春の初めに結婚することになったの」
「おめでとう、ノエミ!」
皆から口々にお祝いの言葉が飛ぶ。私も笑顔でノエミに祝いの言葉を贈った。
ノエミは頼りがいのある年上のキッチンメイドだ。何かと世話を焼いてくれる彼女の幸せな報告は、自分のことのように嬉しかった。
「気の強いノエミと釣り合うなんて、どんな相手なのよ」と誰かが冗談まじりに言うと、ノエミは「もう、うるさいねぇ」と笑いながら答えた。
「下町の大工職人だよ。ちょっと無骨で口数も少ないけど、私の話をちゃんと聞いてくれる人だったよ。独立も間近ってところで、私より少し年上だけど、ちょうどいい年回りさ」
照れたように話しながらも、どこか誇らしげなノエミの様子に、自然と温かな空気が広がる。
ノエミは、父親を早くに亡くし、母と四人の弟妹を養うために、若くして働き始めたのだと言っていた。下の子たちの世話を焼くのに忙しくて、自分のことは後回しにしてきたノエミ。
「裕福な恋人でもできたら、すぐにでも結婚するんだけどねぇ」と冗談めかして話していたっけ。
彼女にようやく訪れた幸せに、私は心からの祝福を送った。
「いい人を探しているって言ってたのに、最後は親の紹介で決めたのね」
「この街に来て一年足らずでいい人を見つけた子もいるから、焦っちゃうわよねぇ」
別のメイドが茶化し、さらに別のメイドが口を挟んで、私の方に視線が集まった。
(う……またその話。皆が冗談めかして言っているのは分かるけど、その話を振られるのも困る……)
すかさず、「それは、あんたの話だろう」とノエミからの指摘が飛び、皆の間に笑いが起こった。
「はいはい、アリーチェは前の街で知り合った人だったんだから、そういう出会いもあるってことさ。それで、相手なんだけど……」
ノエミが手を叩きながら言うと、話題はふたたび彼女の結婚話へと戻っていった。
皆が言っている「一年足らずでいい人に出会った子」というのは、私のことだ。
最初、ハンカチがバレた時は、ルキス様のことを「メルクリオの街で知り合った商人の息子で、州都で偶然再会して、たまたまお茶に誘われた」と説明していた。
ルキス様と二度目に会った時に、お土産でもらった焼き菓子をメイドの皆に配ったのが運の尽きだった。何故かデートが成功したと思われて、それ以来、いつの間にか私に恋人ができたということになってしまった。
いくら否定しても、「私らに遠慮しなくていいのよ~」なんて言われて、もはや否定するのも無意味なほど定着してしまっている。
それでも、少し前にカルルッチ家のレナート様から声をかけられたときほどは騒がれはしないから、まだマシなのかもしれないけれど……。
あの時は、相手が貴族だったからか、「どういう所を気に入ってもらえたの?」「何か秘訣はある?」など質問攻めにあって大変だったのだよね。
周囲の思い込みに信憑性を与えてしまった一因は他にもある。二度目の会合から一ヵ月後、ルキス様からの手紙が屋敷に届いたのだ。
前は商会を経由してやりとりしていたからバレなかったのだけど、今回はどうにもごまかしようがない。
ちなみに、ルキス様の手紙の内容は、至って簡潔だった。
「その後の様子はいかがか」「何か困ったことはないか」――そして、「定期的に手紙を送ってもいいか」というもの。
あのとき、彼の後ろ盾の誘いを断ったのに、こんなふうに律義に手紙をもらえるとは思っていなくて、正直驚いた。
私は感謝の気持ちと近況報告を添えて、手紙のやりとりを歓迎する旨を返した。よく考えれば、仕事で手紙を書くことはあっても、私用で手紙を書くのはこれが初めてだったかもしれない。
ちなみに、ルキス様と手紙のやり取りをすることになったことを旦那様に伝えると、複雑そうな顔で「そうか……」とだけ言われた。
おそらく、脳裏にはいろいろな考えが巡っただろうけれど、神紋者の事情に踏み込まないと判断し、言葉を飲み込んだのだろう。
お嬢様に伝えた際は、「アリーチェは大丈夫?」と少し心配そうな顔で聞かれた。でも、こちらの意思を無視して何かを強制される方ではないから大丈夫だと改めて伝えると、ほっと安心した表情を浮かべていた。
身分がある方との付き合いの大変さは、お嬢様の方がずっと理解しているのだろう。
最初の返信の時は屋敷の備品を使わせてもらったけれど、この先もやりとりが続くなら、自分用の便箋と封筒くらい買っておいたほうがいいだろうか。
そんなことを思いながら、私は恋の話に花を咲かせる同僚たちの会話に耳を傾けた。
翌日、久しぶりの一日休みの私は、一人で商業区を歩いていた。朝から雲ひとつない冬晴れで、凛とした冷気もまた背筋が伸びるような心地よさがあった。
今日の目的は、ルキス様に手紙を書くための便箋と封筒を買いに行くことだった。貴族相手となれば、あまり安物では具合が悪い。かといって私に貴族御用達の高級なものが買えるはずもないため、見た目と質のどちらも程よい品が必要になる。
(……となると、やっぱりあそこね)
自然と足が向かったのは、商業区の一角にある老舗の書店だった。お嬢様の使いで何度か訪れたことがある、落ち着いた佇まいの店だ。いかにもお金持ち向けの文具を揃えているのだけれど、その中でも中流層を狙った比較的お手頃な品があるのは、以前のお使いでしっかり把握している。
今日は開店間もない時間帯だったこともあり、店内はお客もまばらだった。陳列棚を丁寧に見て回りながら、紙の質感や色合い、封筒の縁飾りの繊細さを確認していく。
(この生成り色の便箋、光に透かすと繊細な花模様が浮かぶのね……。封筒は、これと揃いの淡い黄色が合いそう)
お嬢様の手紙を書く手伝いもしているため、どういう組み合わせがいいかはある程度理解している。
優しい色味と、ほのかな装飾。派手すぎず、けれど簡素すぎない、そして、手頃な価格であること。私が探しているのはそういうものだった。
(どうせなら、小花があしらわれているものにしようかな……)
以前の一幕を思い出して小さく笑っていると、ふいに後ろから声を掛けられた。
「そちらは、今月入荷したばかりの品でして、女性の間で今一番人気がありますよ」
私が振り返ると、何度も見かけたことのある男性店員が微笑んでいた。
「あ……えっと……」
「フィオルテ商会の方ですよね。覚えておりますよ」
どうやらしっかりと顔を覚えられていたようだ。まだ朝早く、お客も少ないこともあって声を掛けてくれたみたい。
「今日はご自身の用事で? どんなものをお探しですか?」
「ええと、少し大切な手紙を書くことになりまして」
ぼかしたつもりだったけれど、男性店員はほんのりと目を細めて、からかうような笑みを浮かべた。
「恋人への手紙ですか?」
「えっ、違います! 友人へ送る手紙ですよ」
「そうでしたか、それは失礼を。ですが、よいお手紙になるといいですね」
私が慌てて訂正すると、店員はどこか微笑ましそうに小さく笑った。きっと、私が照れて誤魔化しているのだと思われているのだろう。
そういう風に見られることは、よくあることだと理解できるけれど、実際のところ私の“友人”は、恋人どころか、友人という言葉を使っていいのかすら迷うような相手だ。
せっかく店員が話しかけてくれたことだし、便箋と封筒について助言をもらうことにした。探している風合いと予算を伝えると、すぐに条件に合った商品を紹介してくれた。
小花で縁取られた淡い灰緑色の紙と、それに合わせた同系色の封筒。落ち着いた中にほんのり可愛らしさも感じられ、とても品のある一品だった。値段もお手頃で、懐に優しいのもありがたい。
「これにします。ありがとうございます」
お礼を言い、早速包んでもらっていると、店員がふと思い出したように言った。
「新しい包装の見本が出来ましたので、フィオルテ商会に近日中に伺わせていただきたいのですが、日程をお伝えいただけますか?」
「構いませんよ」
「ありがとうございます。都合が悪ければ、使いをいただければと思います」
「はい、きちんとお伝えしておきますね」
伝言の書かれた小さな紙片と、包装された便箋と封筒の包みを受け取り、私は店を後にした。
伝言のお礼にと渡された飴玉を舐めながら、私の足取りは自然と弾んでいた。
(……やっぱり、ちゃんとしたものを選んでよかった。貴人に送るのであれば、できる範囲で恥ずかしくないものを送りたいものね)
それなりに値段のする品を迷いなく購入した自分に、少しだけ驚いて、なんだか少しだけ誇らしかった。
つい一年前は、必要雑貨を購入するのでさえも、緊張していたというのに。
カーザエルラに来て、ちょうど一年がたつ。去年の冬の初月、私は見知らぬこの街で、新しい暮らしを始めた。すべてが目新しく、知らないことばかりで、まるで毎日が試練のようだった。
でも今では、メイドの仕事もしっかりとこなせているし、こうして一人で街を歩くことにも慣れた。ちょっとした買い物で気分転換できるくらい、心に余裕もある。
(……ちゃんと前に進めている)
目標の金額も、ほぼ達成できている。来年の今頃には、私はこの街を出て、故郷の冬空の下に帰っているだろう。そう思うと、胸の奥が少しだけきゅっとなった。
「……せっかくの休日だし、久しぶりにあれを食べに行こうかな」
私はポツリと呟くと、気持ちを切り替えるように、商業区の広場に向けて歩き出す。さまざまな香ばしい匂いが漂い、その中に混じって油の匂いが風に乗って届く。
目当ては、屋台の揚げ魚サンド。メリッサに教えてもらってから、私のお気に入りになった食べ物だ。
(今日はちょっと贅沢に、チーズも追加しちゃおうかな……)
香ばしい魚の匂いに誘われて、私は足取り軽やかに屋台の列に加わった。
「それじゃ、帰りは気をつけて」
御者席に座ったオリンドが軽く手を上げて言った。
「ここまで送ってくれて、ありがとう」
私は馬車の御者席から降りると、ぺこりと頭を下げる。神殿へと続く通り沿いの道。私が路肩に寄ると、馬車はゆっくりと動き出して屋敷の方向へと戻っていった。
商業区で買い物を終えた後、私は書店で託された伝言を伝えるために、フィオルテ商会に立ち寄った。
奥で担当者に話を伝え、さて帰ろうかと入口に向かったところで、商会へ戻ってきた旦那様の馬車と鉢合わせた。そして、御者のオリンドに声を掛けられ、私がこれから神殿図書館へ行こうとしていることを話すと、「ちょうど帰り道だし、途中まで乗っていきな」と言われた。
最初は遠慮したのだけれど、他の使用人も仕事のついでに途中まで乗せたりすることがあると言われたので、ありがたくその申し出を受けることにした。
(……言葉に甘えてよかった。おかげでだいぶ時間が節約できたし)
私は、買った便箋と封筒を崩さないように気をつけながら、神殿図書館の方角へと歩き出す。
今日は中等学級の授業がない日ということもあり、門前はいつもより静かだった。図書館へと続く道に人影は少なく、風の音と鳥のさえずりだけが耳に届く。
私は足元に気をつけつつ、石の階段を上って神殿図書館の扉をくぐった。
「こんにちは。登録札をお願いします」
受付の男性に呼びかけられ、私は慣れた手つきでポシェットから登録札を取り出す。
「写本は、今日はされますか?」
「いいえ。今日は閲覧だけです」
笑顔でそう応えながら、備え付けの記録帳に名前を記入する。今日は写本道具を持ってきていないため、上着と包みだけを預ける。
最後に登録札を返してもらい、それをポシェットにしまうと、私はほっと一息ついて背筋を伸ばした。
(……さて。今日は、何を読もうかな)
分厚い扉を抜け、私は神殿図書館の奥、書架の並ぶ静かな世界へと足を踏み入れた。
アリーチェが州都に来て一年が経ちました。
着々と旅立ちの時は近づいてます。




