88. 光に落ちる影
部屋には、私とルキス様の二人が残った。足元から這い上がってくるような緊張が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
互いに沈黙が続く中、私は意を決して口を開いた。
「ルキス様、メルクリオの街で会った日、私はとても困った状況にいました。声をかけていただいて、駄賃としてお金を与えていただいて……本当に助かりました。いただいたお金がなければ、今の私はなかったかもしれません。あの日、助けていただいて、本当にありがとうございました」
静かに頭を下げると、ルキス様は何かを噛みしめるような、複雑な表情で私を見つめた。
「……君の役に立ったなら、よかった」
ルキス様の言葉には温かみがなく、どこか淡々とした響きがあった。
その言葉を最後に、再び部屋に沈黙が落ちる。けれど、ルキス様の視線だけはずっと私に注がれていた。見定めるような、あるいは探るような眼差しに耐えきれず、私は自然と視線を下げる。
「君は、メルクリオの孤児院の出身だと聞いた」
突然投げかけられた言葉に、思わず息を呑む。
(……やはり、調べられている)
私の雇用記録は、ルッツィ孤児院出身として商業ギルドに届け出ていると、旦那様が言っていた。ルキス様がそれを知っているということは、私の身辺調査をしたのだろう。
さすがに、火の州出身であることまでは調べようがないだろうけれど……。
「孤児院出身の子が、商家のメイドとして雇われることは、そう珍しいことではない。だが、その商家が州都でも指折りの大商会で、その上、令嬢の側付きとなれば話は別だ。まして、メルクリオからわざわざ州都へ移動したとなると、よほど特別なツテがなければ難しい」
ルキス様の口調は静かだけれど、言葉の裏には明らかな疑念が隠れていた。
「その……、メルクリオの街で懇意にしていただいていた商人の方がいまして。その方が、今お世話になっているフィオルテ商会の会長とお知り合いだったのです。紹介していただいてメイドとして働くようになったのですが、幸い、お嬢様に気に入っていただいたことで、側付きのメイドになりました。本当に……偶然が重なっただけなんです」
こうして説明しているとまるで夢みたいな話だなと自分でも思う。
話を聞いたルキス様の表情に変化はなく、私の言葉をどう受け止めたかも分からない。ただ数秒の間があってから、彼はまた口を開いた。
「懇意にしていた商人とは、孤児院に入る前からの知り合いだったのか?」
「いえ……。孤児院に仕事を下ろしてくださっていた商人の方でしたので、そこで知り合いました」
私の答えに、ルキス様は何かを考えるように「そうか」と小さく頷いた。それ以上深くは追及してこないことに、私は胸の奥で安堵の息を吐く。
(……新商品を開発したことで親しくなったなんて、とても言えないよ)
話したとしても、何かの冗談だと思われるだけだろう。でも、改めて考えてみても、本当に不思議な縁だったと思う。
「メルクリオから州都に出てきて、何か困ったことはなかったか?」
話題が変わったことで、私も頭を切り替えて軽く一考する。
「いえ、皆さんとても親切で……。困るようなことは、あまり……」
「そうか。去年の冬から、州都では子供の誘拐が多発している。以前からあった問題ではあるが、特に増えている。凱旋行列の少し前にも、一件あったのを知っているか?」
「……そう、みたいですね」
屋敷で読ませてもらっている新聞に、何度も関連記事が載っていた。増えているというのは、居住区や商業区で起きたことで明るみに出る事件が単純に増えたということなのだろうか?
過去の新聞にも少しは目を通したけれど、言われてみれば、冬以前よりも最近の方が記事になる回数が増えていたように思う。
「そういえば、メルクリオの街でも誘拐事件が多かったそうだな」
「……えっ」
州都に着いてすぐの時に、メルクリオで魔力を持つ子供の誘拐が増えていると、旦那様が言っていた。ルキス様もその情報を知っているということだろうか。
「詳しくは知らないですが、そうだったみたいですね」
「君は知っていたんだな……。あの日、君は何故あの場所にいたんだ?」
瞬きもせずに私の反応を伺い見ていたルキス様が、感情のこもらない声で私に尋ねた。
突然ふられたその問いに、背筋がびくりと震える。ついに、今日の呼び出しの核心に触れる。
あの日、あの時間、私があの場所にいた理由――。
「……失礼ながら、ルキス様は私に何をお聞きになりたいのでしょうか?」
失礼に当たると理解しながらも、私はルキス様の問いかけに問いで返す。迂遠な聞き方をするのは貴族ならではなのかもしれないけれど、私としてはできることならそのものズバリを言ってほしい。
「私があの日、あの場所にいたのは、ただの偶然です。ルキス様とイグナツィオ殿下をお見かけした以外に、特別なことは何もしていませんし、何も見ていません。ですから――」
そこまで言ったところで、ルキス様の眼差しがわずかに細くなる。私は思わず息を飲み込んで口を閉ざした。
張り詰めた緊張が、部屋の空気を冷たいものに変えていく。私の発言で、何かが気に障ったのだろうか……?
「ただの偶然?」
ルキス様が、氷のような声音で口を開いた。
「あの場所は神殿区画の中だ。君のような子供、まして神殿に関わりのない孤児が、偶然行くような場所ではない」
「それは……」
私は無意識に唇を噛んだ。言葉が詰まり、口の中がカラカラに乾いていく。
「あの時は……ある人を避けていて、走り回っているうちにあの場所に迷い込んだのです」
ようやく絞り出した言葉に、彼の金の双瞳が鋭く細められた。
「何かの犯罪に巻き込まれたのか?」
その一言に、私の背筋が凍りつく。
(犯罪……?)
私は何と答えればいいのだろう? 水の州では、娼館に関する法律はどうなっているのだろう。未成年を働かせようとしたら罪になるのだろうか。
でも、あのとき逃げ出してしまったから、ドンテさんがどういうつもりで私を娼館に連れて行ったのかは分からないままだ。
それに、ドンテさん夫妻にはお世話になったし、ここで私は迂闊なことを言って、ドンテさんが罪に問われるような事態になってほしくない。
「知り合いと、ちょっとした行き違いがあっただけです。犯罪とかでは……なくて、本当に偶然――」
偶然あそこにいただけだと続けようとしたけれど、喉がひゅっと鳴って、言葉がそこで止まった。
ルキス様の目が、先程とは比べものにならないほど冷たい眼差しに変わる。
「偶然か……。では、私たちが会った日の翌日、あの場所の近くで誘拐事件があったのも偶然か?」
「え……?」
頭の中が真っ白になる。あの近くで、誘拐事件があった……? 身近に迫っていた危険に、どくどくと心臓が大きな音を立てる。
「孤児の君が、指折りの商家のメイドとして雇われたことも偶然。君が州都へ移動した時期に合わせて、メルクリオの誘拐事件が止み、代わりに州都で同様の事件が発生するようになったことも偶然――そう言うのか?」
(え……どういうこと? メルクリオと州都の誘拐事件? それがどうして私と関係あるの……?)
思考が追いつかない。理解しようとすればするほど、頭の中が混乱していく。
「誘拐には子供が関わっている。灰髪の子供が、誘拐の手引きをしているんだ」
ルキス様の言葉に、全身に圧力がのしかかるような感覚を覚える。背中を冷や汗が伝い落ち、私は奥歯をぎゅっと噛みしめた。
(ああ……、ようやく分かった)
私は完全に勘違いをしていた。
あの日、私が見た“何か”によって呼び出しを受けたのだと思っていたけれど、本当はそうではない。疑われていたのは、私という存在そのもの。私は今、誘拐事件の共犯者として疑われているのだ。
(これは……尋問だ)
「凱旋行列の日、君はなぜ私を見て動揺した。今日もずっとそうだ。君は、何を隠している」
「……っ」
ルキス様の金の瞳が、恐ろしいほどに鋭く私を見据える。心臓を鷲掴みにされたように息が苦しい。
静かな圧力に膝も手もかたかたと震えだし、全身が心臓になったように、激しい鼓動が耳をついた。
(こわい、こわい……)
誤解をとかなきゃと思うのに、恐怖に支配された身体が思考を鈍らせる。
どうしよう、このまま疑いが晴れなかったら。ここから無理やり連れて行かれて、本格的な尋問を受けることになったら――?
逃げ道も味方もいない孤立した状況に、焦りと恐怖だけが募っていく。
「何か言うことはないのか?」
針のような冷たい声に、私の中で一層焦りが強くなる。
(だめだ、ここで黙っていたら、本当にそうだと認めることになってしまう――)
かちかちと鳴る歯を強く噛みしめ、恐怖に滲む瞳でルキス様の視線を真っ向から見据えた。
「私はっ」
思った以上に大きな声が出た。自分の声に背中を押されるように、震える手を胸に当てる。
「戒律と秩序を司る光の神に誓って――誘拐事件には関わっていません!」
心臓の音がうるさい。恐怖で涙が滲む。でも、絶対に伝えなければいけない。
「今まで、真っ当に生きてきました。子供の誘拐なんて……卑劣な行為に、手を貸すような真似はしていないと、誓えます!」
声は震えていたけれど、私はまっすぐルキス様を見つめながら、自分の無実を必死に訴える。
その視線の先で、ルキス様は驚いた顔をしていたけれど、やがて、その表情は困惑へと変わっていった。
「……本当に関わっていないのか? こんなにも条件が重なっているのに……」
私は必死にこくこくと頷いた。張り詰めていた空気が、少しずつ緩んでいくのがわかった。
ルキス様は脱力するように片手で顔を覆うと、「早合点か……」と小さく呟いた。
「すまなかった。関係のない君を疑ってしまって……」
「信じてくださるのですか……?」
聞き返す私の声は震えていた。必死に弁解はしたけれど、信じてもらえるなんて思っていなかった……。
その瞬間、私を見ていたルキス様がはっとしたような表情を浮かべた。
大粒の涙がぽたぽたと私の頬を伝う。
ずっと張り詰めていた糸がぷつりと切れ、涙が後から後から溢れてきた。
怖かった。連行されて尋問を受けるかもしれない。旦那様やお嬢様、商会に迷惑がかかるかもしれない――そんなことばかり頭を過って、怖くて仕方がなかった。
顔をくしゃくしゃにしながら声を殺して泣く私の前に、ルキス様が申し訳なさそうにハンカチを差し出した。
私は「すみません……」とハンカチを受け取ると、そっと涙を拭う。柔らかく、どこか温もりを感じるような手触りのハンカチだった。
「怖い思いをさせてしまって、本当に悪かった……」
再びの謝罪の言葉に、張り詰めていた心がほぐれていくのを感じた。けれど、緊張から一気に解放されたせいか、溢れ出した涙はすぐには止まりそうになかった。
涙を止めようと、必死に目を拭っていると、ガチャリと扉が開く音がした。
「アリーチェ、どうしたの!?」
慌てて駆け寄ってきたメリッサを、私はどこかぼんやりと見つめる。
「ルキス、これは一体どういうことだ……」
「私の勘違いで、怖がらせてしまったんだ……」
ガスパロ様の呆れたような声に、ルキス様は困ったように言葉を濁す。
メリッサが心配そうに私を覗き込んだ。
「アリーチェ、本当に大丈夫?」
「……大丈夫。誤解は解けて、謝罪もいただいたから。ただ、突然のことで涙が止まらなくなってしまって……。もう少ししたら、落ち着くと思うから」
ぐすぐすと鼻をすすりながら答えると、メリッサがほっと安心した顔を浮かべた。
「ゆっくりでいいから、急がなくて大丈夫よ。ほら、こっち向いて。顔、すごいことになっているわ」
そう言って、メリッサは自分のハンカチを取り出し、その端でそっと私の頬を拭ってくれた。メリッサの優しさがじんわりと胸に染みて、私はまたひとつ鼻をすすった。
その日のお茶会は、結局そこでお開きとなった。私が大泣きして、化粧がすっかりひどい有様になってしまったし、お茶やお菓子を楽しめる雰囲気ではなくなってしまったから、それもやむを得ないだろう。
メリッサが選んでくれていた焼き菓子は、私たちへのお土産として丁寧に包まれ、店を出る際に手渡された。
その後、商会に戻ってから二人でいただいた焼き菓子は、今まで口にしたどの甘味よりも繊細で、優しい味がした。
誤解が解けて良かったですが、ルキスの言葉の真意は……。




