8. 転落
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私たちを乗せた馬車はティート村の西側へと抜けて、森の中を進む。そして馬車に揺られることしばらく、夕方前には隣のイェルト村へと到着した。
ティート村を出た時よりも強くなった雨脚に追い立てられるように、私たちはイェルト村の村長の家へと身を寄せた。どうやら今日は村長宅へお世話になるみたい。
私たち一行は、イェルト村の村長の奥さんに離れへと案内される。どうやらこの離れは、監査人や徴税人たちが村を訪れた際に使う所みたい。そういえば、ティート村の村長の家にも似たような離れがあったね。
そして、私たちはそこに二日ほどお世話になることになった。
本来の予定では、イェルト村に一晩お世話になった後、翌朝には更にもう一人の女性を加えて出発する予定だったのだけれど、連日降り続いていた雨の影響で、隣領地への道が土砂崩れを起こしてしまったのだ。
幸い、土砂崩れは大規模ではなかった為、復旧にそこまで時間はかからないとのことだった。
私たちを迎えに来た仲介人の男性は、予定が狂うことにピリピリした様子を見せていたけれど、天気と自然が相手では仕方がないよね。
ちなみに、旅程の進行具合に過敏になっている仲介人は、ボニートという名前らしい。この地を治める貴族に仕える従者で、徴税の監査人として各地の村を回る仕事を担っているため、村々では顔が利くみたい。
そういう話も含めて、新たな同僚となる女性たちとおしゃべりしながら、足止めで暇となった時間を過ごしていた。
馬車の中では大っぴらに話せなかった話や、互いに身の上話など、語り始めたら話は尽きない。本当にお喋りで一日が過ぎたような気がする。お陰で距離がぐっと縮まったから、禍い転じてというやつだね。
馬車で一緒になっていた同僚の女性は今のところ二人。
馬車の中で私の向かいに座っていたのが、今年で十八歳になるミラーナ。私の右側に座っていたのが、今年十五歳になるコルダ。それぞれ領主が治める町と北の村から来たみたい。
ミラーナは焦げ茶色の髪の大人しそうな女性、コルダは薄い水色の髪の優しそうな女性だ。コルダは、馬車の中で時々私に気遣いの言葉を掛けてくれていた優しい人でもある。
私が最も年下で、年齢も離れているということもあり、妹を見るような目で見てくれているのだと思う。直接的な競争相手にならないという点も、大きいのだろう。
そして今、無事に復旧の終わった街道を、私たちを乗せた馬車が隣の領地へと向けて走る。
雨が上がったことで、今は馬車の後部の幌も開いていた。開放感が増した後部からは、深い峡谷からの爽やかな風が吹き抜ける。
馬車の中には、私も含めて五人。つい先ほど家族と別れの挨拶をした少女が、私の前に座る。別れたばかりで感傷的になっているだろうと思いきや、その少女は驚くほど元気で饒舌な女の子だった。
「アリーチェは十一歳なのね! 歳が近い子がいて本当に良かったわ」
深緑色の髪が特徴的な少女ニンファは、そう言ってにこやかに笑いかける。ニンファは今年十三歳になるらしく、私も近い年齢の子がいてくれて少しホッとした。
その後も、ころころと表情を変えてミラーナやコルダに話しかけるニンファは楽しそうに見えるけど、私にはどこか空元気のようにも見えて、複雑な気持ちになる。
刺繍の入った橙色のリボンを、母親からの贈り物だと教えてくれた時の表情は、明るく振る舞うことで悲しみを吹き飛ばしているようにも見えた。
村から出て街道を少し進むと、急に馬車がガタガタと大きな音を立て始める。きゃっという小さな悲鳴が隣から上がり、御者が後ろを向いて「すみません」と謝罪した。
「先日、土砂崩れが起きた辺りのようです」
後部から外を見ると、通り過ぎた道の端に倒木や岩が避けられているのが見えた。隣の領地との主要な道であるためそれなりに整備はされているのだろうけど、峡谷という場所の性質上、道幅は広くないみたいだね。
今回の復旧で道端に積まれた土砂や岩が、更に道幅を狭くするのに一役買っているのだろう。
ガタゴトと車体を揺らしながら馬車は慎重に進む。ボニートさんが復旧を急がせたことで、今朝やっと通れるようになったと聞いたけれど、こんな状態ならもう少し遅らせて完全復旧を待った方が良かったのではないだろうか……。
――ガタッ!
ひときわ大きく馬車が揺れて、ガクンと身体が前に倒れ込む。
「おいっ、どうした!」
ボニートさんが大声で確認すると、御者は鞭を強く叩いて何とか立て直そうとしているのが見えた。でも、その間にもミシミシと馬車の軋む音が強くなる。馬の嘶きとともに聞こえるガラガラと何かが崩れるような音に、ゾクリと背筋が凍った。
「急げ! 早く降りろ!」
馬車の前方から逃げようとするボニートさん。それにミラーナとコルダが続く。馬車の床が斜めになっていることが何を意味しているか、明らかだった。
私も急いで二人を追いかけ、出口に足をかけようとしたところで、「荷、荷物」と上擦る声に後ろを振り返る。
私のすぐ後ろにいたはずのニンファが、忘れた荷物を取りに戻ろうとしているのが見えた。
「駄目、ニンファ! 荷物は諦めて!」
無理にでも引っ張って逃げようと、ニンファの手を掴もうとした瞬間、外の世界がひっくり返った。
「っ!」
立っていた足場が急になくなったことで、私の身体は幌に向かって投げ出される。全ての景色がゆっくりと流れていく中、馬車が横転したことを私は理解した。
幌にぶつかった身体が、跳ね返り転がる。何かに掴まらなければいけないのは分かっているのに、私の手は何かに引っかかることもなく、身体は完全に支えを失った。
「――――!」
落ちる! ただその言葉で頭が一杯になる。マズイと思った時には、もう足元には水面が広がっていた。
大きな水柱を立てて、私の身体は一気に川の奥深くへと沈みこむ。視界は泡と水でぼやけ、全身に絡みつく冷たい水が恐怖をかき立てる。
(早く水面に!)
チェロンさんに教えられた、川に落ちた際の行動を思い出し、光を目指して急いで水面から顔を出した。
聞こえるのは自分の激しい呼吸音と、荒々しい水の音だけ。
パニックにだけはならないように、目につくあらゆる物で思考を巡らせて、努めて心の平静を保つ。
(思ったよりも川の流れが速い。上がれそうな川岸も見えない……)
連日の雨の影響で水量が多いのだろうけど、浮き木とかの漂流物がないのは救いだろうか……。
(多分、助けは期待できない。今は泳げているけど、上がれる場所がなければ意味はない)
様々な状況を判断した結果、私は川下に足を向け、仰向けの姿勢になって周りの様子を更に観察する。
少しでも気を抜くと、這い上がる恐怖でどうにかなってしまいそうな中、今はただただ耐える。
(水の神よ、命を押し流す濁流から、小さき命をお守りください……)
心の中で水の神への祈りを捧げながら、出来る限り呼吸を整え、いつか来るであろう好機の時を、私はじっと待ち続けた。
どれくらい経ったのだろうか。早かった流れも次第にゆっくりになってきたし、川の周囲も切り立った崖から多少は緩やかな斜面の景色へと変わってきた。
きっと少し前にあった分流で、運良く勾配が緩やかな川の方へ流れたのかもしれないと、ぼんやりとした意識で考える。
(今なら……)
痺れてうまく動かない手足を何とか気力で動かし、流れに逆らわないように岸の方へと少しずつ泳いでいく。身体が震えて、泳いでいるのか、ただ流されているのかよく分からない状態ではあるけど、少しして私の手が川岸の草に触れた。
かじかんだ手では上手く掴めず、何度も草から手が外れる。少し先の斜面がなだらかになっているのを見つけた瞬間、最後の力を振り絞って川岸の草を両手で力一杯掴んだ。
正真正銘、これが残された最後の機会。逼迫した状況だからなのか、自分でも信じられないくらいの力が湧いて、自分の身体を川の中から引き上げた。
「はぁ……はぁ……」
草と土の上に寝転んで、激しく胸を上下に動かして呼吸する。寒くて苦しくて頭がぼんやりするけれど、それでも私は生きていた。
「生き、てる……」
全身を襲う脱力感よりも、生き延びられたという安堵感で胸がいっぱいになる。
(水の神に、感謝を……)
茫然としたまま、私は心の中で水の神へ感謝を捧げた。
ホッとしたことで涙が滲んでくるけれど、このままのんびりしているわけにもいかない。
「早く身体を温めないと……」
時間はかかりながらも、なんとかびしょ濡れの服や靴を脱ぎ、下着だけの状態になる。そして、手足を擦ったり動かしたりしながら、少しでも身体を温めていく。
「今が夏で本当に良かった」
もし今が冬だったら、流されている間に寒さのあまり息絶えただろうし、運良く上がることができても、濡れた身体では凍えてしまったことだろう。
とはいえ、問題は山積みだ。私が持っている物は、着ていた服と靴と靴下、そして落ちた時に唯一身につけていたポシェットだけ。
ポシェットが流されなかったことは本当に幸運だったと思う。中身は少しばかりのお金と、記念に取っておいた角ウサギの爪が一つ、後は小腹が空いた時用のナッツやクルミなどの木の実だ。
木の実はそれほど多くはないけれど、この先どうなるか分からない以上、少しでも食べられるものがあるのは救いだった。
「そういえば、ニンファは大丈夫だろうか……」
落ちた時は無我夢中だったけど、おそらくニンファも私と同じように川に落ちたはず……。
恐ろしい想像が頭をよぎり、身体がふるりと震えた。
「いや、きっと今の私と同じ様に、ニンファも震えながら身体を温めているはず」
淡い期待を口にして、私は気持ちを切り替える。まずは、知らない森に一人放り出された、この危機的状況を乗り越えることが最優先だ。
「まずは人を探す。それから……帰る」
これからの目標を声に出すと、少しだけ力が湧いてきた。
身体がだいぶ温まってきたので、濡れた服を両手で絞り、移動の準備を始める。濡れた服と靴下を腰に巻いて靴を履くと、手を使いながら斜面の上まで登りきった。
「ここがどの辺りか分からないけど、取りあえず川に沿って下ろう……」
人を探すなら川沿いを探すのが一番早いはずだと目星をつけ、私は川下に向かって一人歩き始めた。
怒涛の急展開でした。
ここからアリーチェの放浪が始まります。