87. 甘い誘いと静かな視線
凱旋行列から二日。観覧の時に起きた出来事も、日々の忙しさの中で紛れつつあった頃、屋敷に帰ってきた旦那様から呼び出しがあった。
日も暮れかけた夕方、私を呼びに来たアントンさんと共に旦那様の執務室へと向かう。招き入れられた執務室で私が見たのは、執務机に座る旦那様と、机の上に置かれた、封が切られた一通の手紙だった。
「ルキス様から手紙が届いた。読んでみてくれ」
そう言われた瞬間、「やっぱり」と胸の奥がひやりと冷たくなる。手紙が届くかもしれないことは予想していたけれど、できることなら当たらないでほしかった……。
私は旦那様に促されて手紙を取ると、それを広げる。上質な紙に綴られた整った文字を目で追うたび、胸の奥が冷たくなっていく気がした。
季節の挨拶から始まり、凱旋行列で見かけたことへの驚き、そして、再び出会えた不思議な巡り合わせに、もう一度会って話がしたい。よければ、菓子店“ドゥルチェッツァ”で菓子でも食べながら話をしよう、とそう締めくくられていた。
手紙を見つめたまま、私は静かに息を吐く。
「旦那様、これはどういう意図だと思われますか?」
言葉にした瞬間、自分の声がひどく固くなっていることに気づいた。それほどまでに自分自身でも困惑が強いのだろう。
旦那様は軽く腕を組みながら、視線を手紙に落とす。
「これだけでは判断が難しいが……自邸ではなく菓子店に呼ぶあたり、公人としての神紋者ではなく、私的に会うという意図があるのかもしれん。ドゥルチェッツァは州都でも名の知れた菓子店だ。貴族がお忍びで利用することも多い。個室も完備されているから、外聞を気にせず秘密裏に会うのに都合がいいのだろう」
なるほど、私的に会うというのであれば、自邸よりもお店の方が都合がいい場合もあるのか。神紋者様は独身だと聞いたけれど、自邸に子供を招いたという外聞の悪い噂が立っても困るものね。
「前にも言ったが、正式な手紙が届いた以上、断ることはできない。神紋者様は貴族だが、その中でも特別な立場に当たる方だ。もともと悪い噂を聞かない方ではあるが、万が一にも失礼のないように応対する必要があることは分かっているな?」
「はい、承知しております」
私はそう返事をしながら、逃げ道を塞がれたような閉塞感に、心の奥がずしりと重くなるのを感じた。断れない現実と、私の言動一つで商会に迷惑をかけてしまうかもしれないという不安が重くのしかかる。
旦那様の冷静な説明に少し救われたけれど、胸の奥のざわつきは消えなかった。
それにしても、召喚状ではなく、わざわざこんな風に丁重に呼び出す意味は何なのだろう。あの美貌であれば、遊ぶ相手に困るとも思えないし、わざわざ私のような平民の少女を選ぶなんて尚更ない。
やはり、あの時、あの場で私が見たであろう“何か”に関係しているのだろうか……。
「ちなみに、もう返事はされたのですか?」
「いや、まだだ。一応は確認の体裁を取って、明日返事をすると伝えてある」
「……相談があるのですが、誰か付き添いをつけていただくことは可能でしょうか?」
「付き添いか……。確かに、その方が安心だな。屋敷に招くのではなく外での会合であれば、許可される可能性は高い。アリーチェはまだ未成年だから、それを全面に出せば断られることはないだろう」
その言葉に、ようやく少しだけ胸のざわつきが収まる。
「良かった……。では、その様にお願いします」
「分かった、手紙の返信はこちらでしておこう。ところで、付き添いは誰にお願いするつもりだ?」
付き添いを誰かにお願いすると考えた際に、一番最初に浮かんだのはメリッサだった。
「本人の都合次第にはなりますが、可能であればメリッサさんにお願いできればと思っています。彼女がいてくれれば安心できますし、凱旋行列でも一緒でしたから事情を共有しやすいかと」
「なるほどな。では、メリッサから申し出があれば、休みを取れるようにしておこう」
「お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
翌日、旦那様からルキス様へ返答していただいた結果、付き添いの要望は無事に認められた。そして後日、フィオルテ商会に顔を出した際に、メリッサに付き添いのことをお願いすると、「喜んで付き合うわ」と快い返事をもらえた。
高級菓子店に行けることや、ルキス様に会えることを喜んでいたけれど、メリッサの様子を見る限り、それだけが理由ではないだろう。覚悟を決めたような真剣な表情を見て、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
一緒に話を聞いていたエンマからは、「えー、メリッサだけずるい! 私だって行きたいのに〜」とごねられた。「観覧の場所に一緒にいたんだから、私でもいいじゃない」と言われたけれど、どういう展開になるかが分からない以上、信頼しているメリッサに勝る相手はいない。
(できることなら、私と代わってあげたいくらいなんだけどね……)
不満を募らせるエンマを宥めながら、私は心の中でそっとため息をついた。
三の鐘が鳴って少したった頃、フィオルテ商会に迎えの馬車が到着した。今日はルキス様と約束をした日。私とメリッサは連れ立ってその馬車に乗り込んだ。
今日のためにメリッサが選んでくれた服は、普段の私には少し華やかすぎるくらいの淡い青色のワンピースだった。襟元には繊細なレースが施され、布地を贅沢に使ったドレープが、歩くたびにふんわりと揺れる。
そして、メリッサもまた、いつもより華やかな装いをしていた。深い緑のワンピースは落ち着いた印象の中に上品さがあり、私のような少女とは違い、大人の女性らしさを纏っていた。
私に関しては、少しばかり衣装に着られている感じはするけれど、「とっても似合ってるわ。せっかくの機会なのだから、おめかししないと」と言い切られてしまうと、断る理由もない。
メリッサの手で薄化粧まで施された私は、まるで楚々とした令嬢のようだった。
私たちの乗った馬車はしばらく走った後、ドゥルチェッツァの表通りではなく、裏通りにある別の入り口の前で止まった。表と同じように上品な雰囲気のその入り口は、おそらく今の私たちのように馬車で来店する客のために設けられているのだろう。
店内へ入り、出迎えてくれた店員にルキス様の名前を伝えると、すぐさま個室へと案内された。
普段であれば、華やかな内装や漂う甘い香りに心躍っただろうけれど、どんな目的で呼び出されたのかが気になって、今はそれどころではない。緊張で強張る顔に必死に笑顔を作りつつ後をついていくと、店の二階にある個室の前で店員が足を止めた。
扉を軽くノックした後、店員が部屋の扉を開く。そこには、ルキス様と、凱旋行列の日に会ったガスパロ様がいた。二人とも騎士の隊服ではなく、普段着と思われる装いに身を包んでいたけれど、どちらも腰には剣が帯びられていた。
ルキス様と目が合った瞬間、背筋が凍るような緊張が全身を貫いた。何とも言いようのない圧迫感に、思わず息が詰まる。
「本日はガスパロ様もご一緒だったのですね」
メリッサの驚いた声にガスパロ様が微笑を浮かべて応じる。
「ええ、同伴者がいるということで、私にも声がかかりました」
そして、私たちに向き直ると、ルキス様へ片手を広げた。
「アリーチェ嬢、メリッサ嬢。こちらがルキス・アルバローニ様です。ご存知かと思いますが、光の神紋者です」
「本日はお招きいただきありがとうございます」
メリッサが挨拶し、私も続いて頭を下げて挨拶をする。緊張で声が震えないようにするのが精一杯だった。
私たちを見つめていたルキス様が、ふと表情を緩めて小さく笑う。穏やかで優しげな笑みなのに、何故かそれを見た瞬間、凍えるような恐怖を感じた。
(……ルキス様が私を気遣って呼んでくれた可能性や、気に入られて呼ばれた可能性も考えていたけれど、やっぱり違う……)
気遣いでも、好意でもない。今日、私をここへ呼んだ理由は、あの時に私が見ただろう“何か”について問いただすためだと、私の直感が告げていた。
「アリー……いや、アリーチェだったな。あの日に会って以来だな。元気そうで何より。君のことは気になっていたんだ」
「……勿体ないお言葉です」
笑っているはずなのに、その目の奥は笑っていない。張りつめた空気の中で、私は必死に頭を働かせていた。
(私はあの日、一体何を見たのだろう? おそらく、ルキス様やイグナツィオ様を見た以外に、何かがあったのだと思うけれど……)
一向に思い当たる節がないまま考え込んでいると、ルキス様に席を勧められた。
「さて、立ち話はこれくらいにして、席へ座ろう」
丸いテーブルに沿って配置された一人掛けのソファ。私は促されるままに、ルキス様の右隣の席に腰を下ろした。ガスパロ様が手元のベルを鳴らすと、すぐさま店員が姿を現した。
「本日はご来店ありがとうございます。まずはお飲み物をお持ちいたしましょうか?」
「ああ、軽めのもので頼む。おすすめはあるか?」
「本日は、夏摘みの紅茶、季節の果実を使ったフレーバーティーがおすすめでございます」
店員のおすすめを聞いた後、各自がそれぞれ希望を伝える。私は無難に夏摘みの紅茶を選んだ。すぐに運ばれてきた紅茶は、香りも見た目も申し分ないけれど、緊張からなのか、ちっとも味を感じることができなかった。
紅茶を飲みながら、談笑は続く。ガスパロ様の話によると、ルキス様とガスパロ様は州立学院の騎士科で共に学んだ仲らしく、学生の頃に親しくしていたみたい。二人の旧交を温める様子を見ていると、ルキス様は身分を問わず気さくに接する性格のように見えた。
「折角、菓子で有名な店に来たのだから、美味しい焼き菓子を注文しよう。聞いた話では、クリームを添えた果物のパイやチーズケーキが人気らしい。ガスパロ、悪いがメリッサ嬢と一緒に見に行ってきてくれないか」
ルキス様にそう言われて、ガスパロ様が立ち上がる。このままでは二人きりになってしまうことに気付いた私は、助けを求めるようにメリッサを見つめた。
「では、アリーチェも一緒に……」
こんな緊張の中に一人取り残されるのは嫌だと必死に目で訴えると、それを察したメリッサが声をかけてくれた。しかし、その言葉の先をルキス様が遮る。
「少し彼女と話したいことがあるから、遠慮せず二人で行ってきてくれ」
ルキス様に笑顔でそう言われてしまえば、メリッサはそれ以上何も言えない。メリッサは私を気遣うような視線を残し、ガスパロ様と共に部屋を後にした。
――カチャリ。
扉が閉まる固い音が、部屋に静かに響く。
(私はこれから、何を聞かれるのだろう……)
張りつめた空気に、私は思わず身を縮こまらせる。これから質問されるのだと思うと、胸の奥に鉛を詰め込まれたような重苦しい気持ちになった。




