84. 凱旋行列への誘い
「商会の方に顔を出さないと思っていたら、そんな事になっていたの。大変だったわね、アリーチェ」
大変と言いながらも、鏡に映るメリッサは口元を緩めて笑う。私は鏡越しのメリッサをジト目で見ながら、「面白がってるでしょう」と唇を軽く尖らせた。
カルルッチ家のレナート様が屋敷に滞在してから一週間あまり。メイドの仕事が休みの本日、私はメリッサの家にお邪魔していた。
何故メリッサの家にお邪魔しているかというと、メリッサに化粧の研究に付き合って欲しいと頼まれ、それに応じた形だ。
ちなみに、対価は今私が着ている夏服――淡い水色のお洒落なワンピースである。冬の終わり、メリッサに春服の古着を見立ててもらった時、「夏服だけど、私のお下がりでよかったら何着か融通しようか?」と提案してくれたのだ。
そして相談の結果、夏服を貰う代わりにメリッサの化粧の研究に付き合うということで話が纏まった。
「ほら、そんな顔したら台無しよ」と言いながら、メリッサが手元のブラシで頬を撫でて、私の頬に血色を添えた。「動かないで」と優しく注意され、静かに息を吐いて唇を元に戻すと、細い筆が唇の輪郭をなぞる。
「私は断れなかったらどうしようって戦々恐々したのに……」
「まぁ、実際のところそんなに悪い話ではないもの。それだけ気に入られていたなら、愛妾に召し上げられた可能性も高かったでしょう? メイドをしている女の子なら大抵が夢見る玉の輿よ」
メリッサが、セルジョと同じような軽口を言った。貴族から誘いを受けた場合、やっぱりそのように受け取るのが一般的なようだ。
「玉の輿と言っても、寵愛だけで築いた危うい立場でしょう? 皆が皆、憧れるわけではないわ」
「そうは言っても、狙う子は多いわよ。もし子供を授かれたら安泰だと考えるのでしょう」
微妙な立場だとしても、愛妾になることを望む子はいるのか……。子供を授かったとしても、未来が明るい保証はない。私の性格にはあまり向かない話だね。
「それなら、もしメリッサがお得意先の貴族に愛妾の誘いを受けたとしたら、どうする?」
「もちろん、断るわ。私、結婚しても仕事は続けたいもの。愛妾になったら仕事は続けられないわ」
私が言い終わるのが早いか、即座にメリッサが返答した。やっぱりメリッサも断るんじゃないかと内心思いながらも、今の仕事に誇りを持っているメリッサらしいとも思った。
「それに、下手な相手だと私の父が納得しないわ。父が納得した上で、今の仕事を続けることを許してくれる人がいればいいのだけれど……」
私の髪の毛に触れながら、メリッサが小さく溜息をついた。
服を貰う際に、メリッサの自宅にお邪魔させてもらって初めて知ったのだけれど、メリッサの父親は布や織物を扱う商会を経営していた。
招待された自宅は、商会と自宅が兼用となっているレンガ造りの建物で、一階と二階が商会の店舗と倉庫、三階以上が住居となっていた。フィオルテ商会のような大商会ではないけれど、貴族や富裕層向けの高級布から市民向けの衣装の布を幅広く取り扱っている商会みたい。
春服を買う時のメリッサの助言は的確で、美的感覚が優れていると思っていたけれど、家業が織物商と聞いて納得したものだ。
私の感覚で言うなら、メリッサも立派なお嬢様だと思う。そんなメリッサがフィオルテ商会で働いているのは、本人が強く希望したからみたい。
幼い頃から、家業の関係で流行や美意識に敏感な環境で育ったメリッサだけど、結果的に一番関心を寄せたのは家業の服飾系ではなく化粧品だったというわけだ。
頼み込んでフィオルテ商会で働くことを許してもらえたけれど、父親はそのことをあまり快く思っていないらしい。事あるごとに、「そろそろ仕事を辞めて、私が選んだ相手と結婚して家業を手伝ってはどうだ」と提案されるのだと、メリッサが愚痴をこぼしていた。
メリッサとしては、メリッサ自身で父親が文句のつけようがない人を見つけて、結婚後も仕事を続けるという野望を抱いているみたいだけれど、まだ良い人は見つけられずにいるみたい。
「さぁ、完成よ」
メリッサが私の髪から手を離し、ブラシを台の上に置いた。鏡には華やかに仕上がった自分の姿が映る。整えられた頬はほのかに紅潮し、目元は上品に際立って、口元には艶やかな微笑みが浮かぶ。普段は簡単に三つ編みをしているだけの髪も、メリッサの手にかかりふんわり編み込まれていた。
「いつもながら、見事な出来栄えだね。まるで自分じゃないみたい」
「ふふっ、ありがとう。アリーチェは化粧映えするから、化粧をするのが楽しみなのよね。ぐっと大人びた雰囲気にもなるから、こんな姿を見たら貴族様も簡単に引き下がらなかったかもしれないわね」
メリッサのからかう声に、「それは冗談でも笑えないよ……」と私は苦笑いを浮かべた。
化粧が終わった後は、下働きの女性が運んできた紅茶とお菓子に舌鼓を打ちながら、会話に花を咲かせる。今年の夏は猛暑続きで日焼け止めのクリームがよく売れている話や、萌水祭で付き合い始めた恋人同士が別れたという話など。
そして、話は秋の初月にあるという凱旋行列の話になった。
「凱旋行列? 何かの式典があるの?」
初めて耳にする言葉に、私はメリッサに質問を投げかけた。
「夏は魔獣が活発になる時期だから、騎士団が魔獣の討伐に出かけるの。遠征を終えて戻ってきた騎士団を出迎える催しが凱旋行列なのよ。特に式典があるわけではないけれど、街の皆が街頭に集まって騎士様に感謝の歓声を送るのよ」
「ああ、収穫前の魔獣の間引きだね」
夏に数が増えた魔獣を放っておくと、収穫前の農作物を荒らしたり、人里に現れたりするから、討伐して数を調整するのだろう。
「州都周辺だけでなく、要請のあった近隣の町や村も回るみたい。春にも討伐隊は出るけれど、そっちは小規模だし凱旋は行われないから、秋の凱旋行列は騎士様を見る絶好の機会なの」
「なんというか、女性が沢山集まりそうだね」
「それはもう凄いわよ。私も今年は見に行こうかと思っているのだけど、よかったらアリーチェも一緒にどう?」
メリッサに「どう?」と誘われて、私の脳裏には人混みに揉まれてぐったりする自分の姿が浮かんだ。
「騎士団の凱旋に興味はあるけど、私の背では人混みに埋もれてしまうだろうから……」
「大丈夫、知り合いのツテで騎士団が通る道中の宿屋を押さえているから、建物の二階からゆっくりと見ることができるわ」
メリッサは抜かりのない眩しい笑顔を浮かべた。ツテで宿屋を押さえるという所にメリッサの本気を感じるね。
メリッサによると、昔はよく見に行っていたけれど、最近は見に行けてなかったから、久し振りに間近で見たくなって張り切ったらしい。「普段街中で見かけない騎士団の隊服や鎧姿がとっても素敵なの」と熱弁する姿を見ると、メリッサがどれほどこの凱旋行列を楽しみにしているのかが伝わってくる。
せっかくメリッサが誘ってくれているし、揉みくちゃにならずに凱旋が見えるなら、見に行くのも悪くないかな……。
「それなら、私も一緒に行っていい?」
「ええ、もちろん大歓迎よ。凱旋行列の正確な日程はまだ決まっていないけれど、だいたい毎年秋の初月の最終週にあるから、アリーチェもちゃんと休みを押さえておいてね」
「分かったわ」
こうして、メリッサと一緒に凱旋行列を見に行くことが決まった。
「私も行きたい!」
化粧を落とし、屋敷へと戻った私が、来月の凱旋行列の日に休みを取りたい旨を伝えたところ、お嬢様からそんな返事があった。
(やっぱり、そうなるよね)
一応、メリッサと話をした時にお嬢様も参加したいと言い出す可能性を伝え、その際の許可をメリッサから事前に貰っている。あとは、旦那様へ伺いを立てるだけだ。ある意味、これが一番の難関だろう。
「分かりました。アントンさん経由で旦那様へお伺いしますね」
「いいえ、私からお父様に直接お願いするわ。絶対、今年見に行きたいの」
お嬢様が強固な態度でそう言った後、「今年だけかもしれないから……」と呟いた極僅かな声を、私の耳は聞き逃さなかった。
お嬢様が今年の凱旋行列にこだわる理由は、私と一緒に行けるのは今年だけの可能性が高いから……そう考えるのは、私の思い過ごしではないはず。
つい先日、カルルッチ家から私への褒賞金が送られてきた。その額、大金貨一枚。
詳しく聞いたことはないけれど、おそらく私の実家の一年の稼ぎがそれぐらいではないだろうか……。私が働いて稼ぐにしても、一年近くはかかる額だ。流石に受け取る時には手が震えた。
あまりの大金に私が恐れおののいていると、「貴族からの褒賞金なら、そんなところが妥当だろう」と旦那様がさらりと言った。貴族の金銭感覚って凄いね……。
そんな訳で、奇しくも私の貯める予定でいた旅費――大金貨二枚と小金貨五枚が半分近く貯まったことになる。旦那様への助言で得た臨時賞与もあるし、あと一年も経たないうちに私の旅費は十分に貯まるだろう。
それを踏まえ、旦那様とお嬢様と話し合いをし、私の雇用期間は来年の夏が終わるまでということが決まった。最初こそお嬢様は渋っていたけれど、故郷に戻りたいという私の気持ちを尊重して納得してくれた。
それでも、「来年の夏までたっぷり時間があるから、それまでに気が変わったら遠慮せずに言ってね!」と、お嬢様に何度も念押しされた。ここに来るまで色々なことがあったけれど、本当に雇われ先に恵まれたと思う。
その後、旦那様から凱旋行列を見に行く許可が無事下りた。人混みに出るのではなく、建物の中からの観覧だから許可が下りやすいだろうとは思っていたけれど、私の予想通りだったみたい。あとは、前回市場に外出した前例があることで、旦那様を説得しやすかったのだろう。
ただ一つ想定外だったのは、凱旋行列を観覧する宿を旦那様が手配すると言い出したことだ。旦那様が宿を手配することは予想していなかったけれど、これまでの過保護ぶりを思い出すと妙に納得してしまった。
「せっかくだから、いい場所で見られるように」と旦那様は笑顔で仰られたけれど、その言葉の裏には、お嬢様の安全への配慮があることは言うまでもないだろう。
後日、旦那様とメリッサの間で話がまとまり、宿屋の手配は旦那様に任されることに決まった。準備が整っていくにつれて、私の期待も少しずつ膨らんでいく。
今年の凱旋行列は、ただの観覧以上に、忘れられない特別なひと時になる、そんな気がした。
新章に入りました。
凱旋行列でアリーチェが目にするものとは……。




