82. 不測の誘いと袋小路
翌朝、レナート様は意気揚々と馬車に乗り込み、学院の魔術塔へと出掛けていった。レナート様は昨日遅くまで机に向かわれていたご様子だったので、今朝起こしに行った時は眠たげな様子を見せていたけれど、あの表情を見る限り、とても良い手応えを感じているのだろう。
レナート様を見送った後は昨日と同じようにして過ごし、夕方再び馬車で戻られたレナート様をお迎えした。馬車が留まるなり、音を立てて勢いよく扉が開く。
何事かと目を丸くしていると、馬車から下りてきたレナート様が私に駆け寄り、私の両手を握りしめた。
「アリーチェ、成功だ! あの方法を試したら成功したよ! 君のおかげだ!」
「――!」
私の手を強く握りながら、レナート様は矢継ぎ早にまくし立てる。
「……おめでとうございます、レナート様。本当に喜ばしいことと思います」
私は胸中で焦りつつも笑顔を返し、さりげなく手を離しながら「ここでは目立ちますので、話の続きは部屋でいたしましょう」と小声で促した。
出迎えには、私以外の使用人も出てきている。こんな場面を見られたら、いったい何事かと思うだろう。あとで、いろいろと問い詰められることは間違いないね……。
視界の隅では、レナート様を乗せてきたカルルッチ家の御者が目を剥いているのが見えた。
(カルルッチ家で、レナート様の変な噂が立たなければいいのだけれど……)
客室へ戻るなり、レナート様は本日実験した成果について興奮した様子で語り始めた。室内着への着替えも終わらぬうちに説明を始められたくらいだから、余程話したかったのだろう。
レナート様の話によると、昨日私が例として挙げた「魔法陣を分けて間にミーカを挟む方法」を試したところ、反目する属性を一つの魔法陣として成立させることに無事成功したらしい。
ちなみに、ミーカの状態に関して確認したところ、元々の砂粒よりも細かな粉末の方が成功率が高くなったことも確認できたようだ。
説明が一息ついたところで、レナート様はカバンから底に魔法陣が描かれた小ぶりの金属のコップを取り出した。どうやら、これが今日の研究の成果みたい。
レナート様の持つコップをじっと観察していると、どこからともなくコップの中に水が溢れ出した。湯気を立てていることから、ゆらゆらと増え続ける水がお湯だということが分かる。
「昨日話していた火と水を合わせた魔法陣だ。水を出現させる際に、熱せられた水を出すことができる」
(見た目はひどく地味だけれど、実情を知っているととても凄いことみたいなのだよね……)
これは、理論を確立させるための段階だから、まずは一番単純な魔法陣で試しているのだと、昨日レナート様は言っていた。確かに、強力な魔術だと、失敗した際の危険が高くなるから、それを避けるためであるということも十分理解できる。
とはいえ、魔術の基礎を知らない私からすると、感嘆よりも地味という感想が先に立つのは仕方がないことだろう。
ちなみに、似たような温水を出す魔術具はあるらしいのだけれど、それは水を出す魔法陣と温める魔法陣が別々に配置されているため、今回の物とは全くの別物らしい。
「そういえば、こちらのコップには魔石は付いていないのですね」
机の上に置かれたコップを見ていて、魔石が付いていないことに気が付いた。普段、私が見かける魔術具には大抵付いていたのだけれど、このコップは必要ないのだろうか?
「ああ、これに魔石はつけていないよ。これは私の魔力で動いている」
「……なるほど、そうだったのですね」
(聞いておいて良かったー!)
何かの拍子に私がコップに触れて、お湯が溢れるような事態になっていたら目も当てられなかったよ……。間違っても、うっかり触れないように気をつけよう。
私が内心肝を冷やしていると、レナート様が改めて私の名前を呼んだ。
「今回の成功は、間違いなく君の言葉によるところが大きい。そのため、私は君に褒賞を贈りたいと考えている」
「そんな、私はただ疑問を言葉にしただけですから、褒賞をいただくわけには……。レナート様が検証を重ねられれば、いずれはその方法にたどり着いたのではないでしょうか」
「確かに、アリーチェが言うように、いずれ今回の考えに至ったかもしれないが、それはいったい何年後だ? 可能性の話をするなら、私が研究を終えるまでの間に、この方法に気づけない可能性だってあるだろう? 今回の成功は、間違いなく君のおかげだ」
「そうかもしれませんが……」
こういう場合、褒賞を受け取ってもいいのだろうか? ひとまずお断りしたのだけれど、ここまで言われてしまうと、逆に断る方が失礼に当たる?
どう返事をすればいいのか分からずに戸惑っていると、レナート様から思いがけない提案をされた。
「そうだ、アリーチェさえよければ、うちで働くのはどうだ? もちろん、今と同等の給金は保証する。これなら、アリーチェにも悪くない話だろう?」
「……え?」
「私は本気だよ。君の功績はそれくらいに値すると考えている」
冗談かと思い、思わず懐疑的な声を返してしまったけれど、レナート様は至って真剣な表情で言葉を返す。まじまじとレナート様を観察しても、そこに私を騙そうとしている様子はない。
(どうしよう……)
フィオルテ家と懇意にしている貴族だから、失礼のないように、少しでも覚えがめでたいように可能な限り力を尽くしたけれど、私個人としては特に思惑があったわけではない。
私が口を開きかけては閉じるだけで何も言えずにいると、レナート様はさらに言葉を重ねる。
「今、アリーチェが側付きメイドをしているのであれば、そのまま私の側付きとして雇ってもいい。この滞在期間中、借宿だというのにまるで自室のようにゆったりと過ごすことができたのは、アリーチェがとても細やかな気配りをしてくれたおかげだよ。君への褒章という理由もあるが、それ以上に、君が作る心地よい空間を気に入ったというのもある」
「それは……買いかぶり過ぎです」
私は背中に冷や汗を感じながら、頭の中は「どうしよう」という言葉でいっぱいだった。何故ここまで高く評価されているかは分からないけれど、今の状況がただ事ではないことは嫌でも理解できる。
今はまだ勧誘されているだけだけれど、もし貴族から命令された場合、果たして断ることができるのだろうか……。
「私の側付きという立場に気後れするなら、研究の助手という形で雇うのでも構わない」
「助手……ですか?」
「ああ、さらにミーカの研究を進めるためには、研究の記録を取ったり、雑務を行う助手が必要になってくるだろう」
「そのような大役、私にはとても……。研究の基礎を存じ上げておりませんし、学院を卒業された方のほうが、助手には適任かと思います」
「私は、私と異なる発想力を持つ君が良いんだ」
レナート様は柔らかな笑みで言葉を重ねながらも、その目には強い意思が宿っているのを感じる。レナート様の勧誘に熱が入れば入るほど、私は全身に冷や汗がにじむような気がした。
この条件が破格だということは理解している。けれど、レナート様には申し訳ないけれど、私はその誘いに応じる気持ちはなかった。
とはいえ、きっぱりと断るのはせっかくのレナート様の温情を無碍にする行為だ。相手が貴族である以上、軽率な断り方をすれば、後で問題になる可能性も十分に考えられる。私は口の中の渇きを感じながら、この場をどう穏便に切り抜ければいいのか、必死に頭を巡らせた。
(これはもう、あれしかない。私の手には余る話なのであれば、他の人の意見を仰ごう)
「あの、今この場でお答えすることは難しいため、一度旦那様にご相談させて頂いてもよろしいでしょうか」
「すまない、急ぎすぎたようだ。確かに、フィオルテ氏に先に話を通すべきだったね。今夜にでも、フィオルテ氏と面会の機会を作ってもらえるように伝えてもらえるかな」
「はい、畏まりました」
私はレナート様に頭を下げると、不作法にならない範囲の速さで客室を後にした。そして、猛獣から逃げる野ウサギのように早足でお嬢様の部屋へと向かった。
「困ったことになりました……」
お嬢様の部屋に飛び込むと、私はお嬢様とゼータさんに事の次第を説明する。ただし、研究の詳細に関しては省き、簡単な助言をした程度にとどめておいた。
私の話を聞いたゼータさんは「まぁ」と感嘆の声を上げ、お嬢様に至っては目を丸くし、声も出ない様子だ。お嬢様のその反応も無理はない。レナート様から話を持ちかけられた時は、私もきっとそんな反応だっただろう……。
「とても良いお話だけれど、アリーチェはどう返事するつもりなの?」
「断って問題ないのであれば、お断りしたいです」
「驚くほど好条件だということは分かっているのよね? 貴族の屋敷で働くということはとても名誉なことだし、あなたにとって良い経歴にもなるわ。この先、結婚を考えるのなら、貴族の屋敷で働いていれば良縁にも恵まれやすいのよ?」
貴族の屋敷で働くことについて、結婚に有利だなどと考えたことはなかったけれど、「良縁に恵まれる」という点は確かに納得した。しかも、ただの下働きでなく側付きとして働いていたとなれば、それだけで立ち振る舞いや教養の裏付けにもなるのだろう。
有益な点は理解したけれど、それで私の意見が変わるものでもない。
「確かに光栄なことだとは思います。ですが、私の今の目標はお金を貯めて故郷に帰ることですので、貴族の屋敷で働くことは、私にとってむしろ足かせにしかならないですし……」
「えっ!?」
ひと際響くお嬢様の驚きの声に、私も思わず「え?」と疑問の言葉を返す。お嬢様と同じように、ゼータさんも驚きの表情を浮かべていた。
「アリーチェは、早晩ここを辞めるつもりなの?」
「一応、旦那様との話では二年間の雇用ということになっていますが……、もしかしてご存知なかったでしょうか?」
ゼータさんの問いかけに私が恐る恐る返事をすると、「聞いていないわ!」とお嬢様が声を荒げた。私はその声色で全てを察し、心の中で頭を抱えた。
(旦那様ーっ!)
間違いない……、旦那様は私が二年間の期間限定で雇われたことを、お嬢様に説明していなかったのだ。ゼータさんの反応を見る限り、ゼータさんも知らなかったみたい。
お嬢様の動揺する姿に、申し訳ない気持ちで一杯になる。もちろん、ちゃんとお嬢様に説明していなかった私にも落ち度はあるけれど、まさかそんな基本的な事まで説明していないだなんて、思わないじゃないか。
おそらく、旦那様は私がメイドをクビになるだろうからと、詳しい説明を省いたに違いない。それに、期間限定の雇用だと知っていれば、お嬢様が最初から門前払いする可能性もあったから、後継者教育の教材とするためにも言わなかったのかもしれない。
(私がもっと早く気付いていれば、お嬢様にこんな顔をさせることはなかったのに……)
思えば、自分の都合ばかり優先して、私自身も無意識にその話題を避けていたのではないだろうか。取り返しのつかないことをしてしまったような気持になって、胸が締め付けられる。
早めにお金が貯まれば、その二年間という期間さえ短くなる可能性もあるのだけれど、今はそんな話をする余裕も雰囲気でもなかった。
「アリーチェが早くにここを辞めてしまうなんて、私は嫌よ。もっと長くいてほしい……」
寂しそうな表情で呟くお嬢様に、胸がずきんと痛んだ。動揺した私がお嬢様に声を掛けようとしたところで、ゼータさんが私の肩を引いた。
「アリーチェ、あなたは先にアントンに事情を説明していらっしゃい。あなたの雇用期間についての話は、後で旦那様からお嬢様に直接説明していただくわ」
笑みを浮かべたゼータさんが私に微笑みかける。けれど、「旦那様」を強調するその目が笑っていないところを見る限り、「そんな大事なことをお嬢様に説明もしないだなんて」といった心情だろうか……。
ゼータさんが旦那様に怒り心頭なのは、後継者教育の件に関して、ゼータさんなりに何か思うところがあったのかもしれない。
私は頷くと、お嬢様に雇用について説明できていなかったことを謝罪し、退室の挨拶をして部屋を出た。さらに増えた心配事に内心で頭を抱えながら、私は事務室へ急いだ。
(後でちゃんと時間を作って、改めてお嬢様に説明しないと……)




