80. 不意の滞在客
夏の中月に入り、強い日差しが照りつけるようになった頃、朝の業務連絡でアントンさんから驚くべき一言を聞いた。
「来週の週末から六日間、カルルッチ家のご子息であるレナート様が当屋敷に滞在されます。直接関わる者以外も十分に注意を払いながら仕事をするようにしてください」
カルルッチ家は、化粧品の材料となる鉱物を産出する土地を治める貴族である。レナート様といえば、春に当屋敷で催されたパーティーで学友たちと共にお酒を楽しまれていた方のはず。
カルルッチ家とフィオルテ商会は長らく商取引をしており、親交が厚い間柄とは聞いていたけれど、屋敷に滞在するほどとは思っていなかった。
「ご使用される客室は二階の中央左の部屋になります。客室の内装や家具の変更については、奥様から具体的な指示が出る予定です」
訪問客ではなく、数日間に渡って屋敷に滞在する客を迎えるのは初めてだ。カルルッチ家は領地持ちの貴族だけれど、州都にも屋敷は構えているはず。今回の滞在は、何か突発的な事情でもあるのだろうか?
「今回のようなことは時々あるわ。カルルッチ家の方が春以外の季節に州都に来られた際、商取引についての相談などをしに屋敷を訪問されるの。そのまま州都に数日間留まる場合は、当屋敷に滞在することもあるのよ」
お嬢様を起こしに行き、朝の支度を手伝いながらアントンさんから聞いた話をしていると、ヴィオラお嬢様がそんな裏事情を教えてくれた。
「ですが、州都にはカルルッチ家のお屋敷もあるのではないですか?」
「あるわね。でも、領地持ちの貴族は春以外の季節は大抵領地に戻るものよ。それに伴って、州都の屋敷は最低限の管理になるのが普通なの。家人が滞在するとなれば、体裁を整える必要が出てくるけれど、短期間の滞在のために手間と費用を掛けるのは無駄な出費になるでしょう?」
「なるほど、合理的な判断なのですね」
「まぁ、普通の貴族なら、それでも自身の屋敷に滞在するものだけれど、カルルッチ家の場合は長年の取引で当家との信頼関係があるから、そういう時は昔からこちらの屋敷に滞在しているみたいね」
お嬢様から話を聞いて納得した。貴族が屋敷に滞在する慣例も、どうやらカルルッチ家ならではの話のようだ。いずれにせよ、貴族が滞在するのであれば、今度ゼータさんに気を付けるべき点を聞いておかなくてはいけないね。
(まぁ、私はお嬢様付きだから、それほど深く関わることはないだろうけれど……)
この時の私はそんな風に簡単に考えていたけれど、この予想は一週間後にあっさりと覆されることになる。
翌週、カルルッチ家の紋章のついた馬車に乗り、レナート様が屋敷に到着した。旦那様は仕事に出ていたため、奥様とお嬢様、表向きの仕事を担当する使用人一同で出迎える。ふと、レナート様と目が合った気がしたけれど、きっと気のせいだろう。
奥様との挨拶を終えると、レナート様は御者が下ろした荷物を持ったセルジョを引き連れ、滞在予定の部屋へと案内されていった。お嬢様はホールにてそれを見送った後、自室に戻り、レナート様の到着で止めていた勉強の続きを再開する。
お嬢様が勉強を再開して少し経った頃、お嬢様の部屋の扉がノックされた。私が扉に確認に向かうと、扉の向こうには奥様と表情の読めないアントンさんが立っていた。
(何かあったのかな……?)
私は不思議に思いながら扉を大きく開き、二人を部屋へ招き入れる。少し困った表情を浮かべた奥様がちらりと私に視線を向けながら部屋の中へと入ってきた。
「お母様、どうされたのですか?」
「アリーチェのことで少し相談があって来たの。少し、いいかしら?」
「もちろんです。アリーチェに何かありましたか?」
お嬢様が小首をかしげながら奥様に尋ねた。奥様の視線が私に向けられていることから、私に関する話かなと予測したけれど、どうやら正解だったらしい。
「レナート様が、滞在中の側付きにアリーチェを希望されているの」
(えっ!?)
「アリーチェが、ですか? レナート様にはセルジョが付く予定ではありませんでしたか?」
「その予定でいたのだけれど、なんでも、春の当家のパーティーで、あなたの細やかな気配りを気に入られたみたいなの。何か心当たりはあるかしら?」
奥様の言葉に内心動揺していると、奥様の戸惑いの視線が私に向けられる。お客様から突然そんなことを言われたら、奥様が困惑するのも無理はない。
私は皆の視線を一身に受けながら、パーティーの時の情景を思い浮かべていた。あのこと以外は特に目立つことなく普通に給仕をしていただけだから、目をかけられる理由があるとしたら、おそらくあれのことだろう。
「……レナート様が、友人の方にお酒を強く勧められて困っていらっしゃったので、見た目はワインそっくりのジュースを作って提供しました。おそらく、その事を仰られているのだと思います」
「そう……、そんな事があったのね。どうしようかしら。アリーチェは子供とはいえ女性だし、よくやってくれているとは聞いているけれど、メイドを始めてまだ経験の浅いあなたにレナート様の側付きをさせるのは……」
奥様の言葉を聞く限り、経験の短さもそうだけれど、女性であることも心配している様子だった。なるほど、女性メイドを指名してきた場合、その手の心配が出てくるのだね。
三、四年後なら私も心配するところだけど、十二歳になったばかりの私は、どこから見てもまだ子供だ。流石にその懸念は心配し過ぎではないだろうか……。
とはいえ、相手は貴族だ。今回私を指名したように、予想外のことを言い出す可能性も十分にある。
「レナート様ご自身も、アリーチェの年齢からして経験が浅いことはご理解されているかと思います。短期間の滞在だからこそのご提案なのではないでしょうか」
「……確かにそうね」
アントンさんからの言葉を受けて、奥様がひとまず納得した様子を見せた。軽く息をついた奥様が、私とお嬢様を順に見渡して言った。
「ヴィオラ、悪いのだけれど、レナート様が滞在の間はアリーチェにレナート様に付いてもらってもいいかしら? その間は、あなたにはゼータに付いてもらうつもりよ」
「……レナート様が希望されているのであれば、分かりました」
「ありがとう、ヴィオラ」
僅かに不本意の色を滲ませながら、お嬢様が返事をする。懇意の貴族からの指名であれば、余程の理由がなければ断るのは難しいだろう。もちろん、それは私も同じだ。
「アリーチェもそれでいいかしら?」
「はい、承りました」
答えが決まっている問答に、私は静かに頷いた。貴族と深く関わることに心配があったとしても、家人の命令には従わなければいけない。
私はレナート様と関わることはないだろうと思っていたのに、何があるか分からないものだね。厄介なことにならなければいいのだけれど……。
「基本的に、問題行動がある方ではないから大丈夫だと思うけれど、もし何か困ったことがあったら、すぐに相談してちょうだい」
「分かりました」
奥様がこう言ってくださるるのであれば、仮に何かあったとしても最悪の事態は避けられそうだね。それに、互いに懇意の仲であれば、お世話になっている商家のメイド相手に滅多なこともないよね。
事が決まると、すぐさまアントンさんがゼータさんを呼びに行き、それと入れ替わりに私は奥様と共に客室へと向かった。
「ご指名されたメイドはこちらの者でよろしいでしょうか」
「ああ、その子だ。無理を言ってすまない、フィオルテ夫人」
「よく気の回る子ですが、なに分まだ経験が浅いですので、それについてはご留意いただければと思います。アリーチェ、ご挨拶を」
「アリーチェと申します。滞在中、レナート様が快適にお過ごしいただけるよう、精一杯お世話させていただきます」
「ああ、よろしく頼む」
私が丁寧にお辞儀をすると、パーティーの時に見た黄土色の髪の青年が、椅子に座ったまま満足そうに目を細めて頷いた。今までレナート様に付いていたセルジョから軽く情報の引き継ぎをした後、奥様とセルジョが退室し、部屋には私とレナート様が残った。
ほんの一瞬、部屋に沈黙が流れたけれど、レナート様の軽い咳払いがその静寂を破る。
「急に側付きに指名して、さぞ驚いたことだろう。パーティーの時のお礼を直接言いたくてね。あの時は、ありがとう」
「出過ぎた真似かと思いましたが、そう言っていただけると恐縮です」
「友人は悪い奴ではないのだけれど、些か酒が絡むとしつこくてね。私は酒があまり得意ではないから、本当に助かった」
好青年といった様子で優しく笑いかけてくるレナート様からは、心から感謝しているという気持ちが伝わってくる。
最後の一杯と言いながらも何度もしつこく勧められていた姿を思い出し、いつもあんな調子で絡まれているのだろうと私は察した。何はともあれ、想像以上に彼の助けとなっていたのなら、何よりである。
私にお礼を伝えた後、レナート様はセルジョが用意していた紅茶とビスケットなどのお菓子で長旅の疲れを癒やす。その間、私は荷解きをしようとレナート様に声を掛けた。
「これから荷解きを始めますが、取り扱いに注意が必要なものはございますか?」
「そちらの荷物は特に問題ない。机の上に置いているカバンは私が整理するから触らないように」
「畏まりました」
私は大きなトランクを開け、中身を確認しながら丁寧に取り出していく。その間も、レナート様は時折ビスケットを口に運びながら、あれこれと私に話しかけてきた。
「パーティーの時のワインジュースには、一体何が入っていたんだ?」という話題から始まり、滞在期間の予定や私自身のこと、さらにはご自身のことなど。貴族のお世話ということで少しばかり身構えていた私だったけれど、レナート様は想像以上に気さくな方だった。
本人曰く、貴族とはいえ家督を継がない気楽な三男の上、田舎の領地で領民との距離も近いから、あまり畏まらずに接してほしいと言われた。
多くの貴族を知っているわけではないけれど、私が今まで見たことのある貴族とは、また違った雰囲気である。春のパーティーでは尊大に振る舞う貴族もいたから、きっとレナート様の方が珍しいのだろう。
「えっ、アリーチェは十二歳なの!? 給仕している様子も堂に入っていたから、見た目は幼いけれど歳はもう少し上なのかと思っていたよ」
年齢を聞かれ、この夏に十二になったばかりだと答えると、レナート様からこんな反応が返ってきた。驚きながら勘違いに照れるレナート様の顔には素の表情が浮かんでいて、その様子は本当に気さくな普通の青年に見えた。
貴族のレナート様から見て、しっかり給仕出来ていたと言われて少し誇らしい気持ちになったものの、この場合の年上に見えたというのは、肯定的に捉えてもいいのだろうか……?
もし実際に歳がもう少し上だったら、レナート様の外聞を気にして、奥様は直接お礼を伝える機会を設けるだけに留めた可能性もあったと思う。先程の雑談によると、レナート様は現在十七歳。もし若い女性メイドを側付きに指名したとなれば、周囲にあらぬ誤解を招きかねない。
屋敷内のことだから外には漏れないと思うけれど、懇意にしている貴族の子息の評判を傷つけるような事態は避けたいだろう。社交界の噂は、恐ろしいほど早く広まると聞くし……。
というか、もう少し年齢が上だと思っていたのであれば、その手の意図を含んでいた可能性も出てくるわけで……。まぁ、レナート様の反応を見る限り、おそらくそういう意図ではないのだろう。
一瞬、警戒心が頭をもたげたものの、すぐさま考えを改めて警戒を緩めた。
「十二歳か……、アリーチェは普段どんな仕事をしているんだ?」
「普段はお嬢様付きメイドをしております」
「えっ、ヴィオラ嬢付きのメイドだったのか。若いからその可能性を考えていなかった。それは悪いことをしてしまったな……」
「どうぞ、お気になさらず。お嬢様には別のメイドが付いておりますので、問題ございません」
実際のところ、お嬢様は不本意に思っている可能性が高いけれど、その本音は当然闇の中である。
「その歳で見習いではない上に側付きメイドとは、アリーチェはよほど優秀なのだな」
「恐縮です」
あまりにも特殊な経歴すぎて、私ははにかむような曖昧な笑みを返した。クビになる見込みでメイドになった経歴のため、ある意味では選定期間が見習い期間だったと言えるのかな?
現状だけ聞くと、優秀なメイドとなってしまうのだから不思議である。
トランクから取り出した衣類を分類し、室内のチェストやクローゼットにそれぞれ分けて配置していく。クローゼットに衣装をしまおうとしたところで、私の手が止まった。
「レナート様、こちらの礼服ですが、折りシワが付いておりますので整えさせていただきます」
「ああ、そのように頼む」
私はシワのついた礼服と一緒にいくつかの衣類も手に取ると、レナート様に断って一度退室し、リネン室へ向かう。リネン室でちょうど顔を合わせた洗濯メイドのニルデに礼服と衣装のシワ取りをお願いすると、私は衣装の中からシャツとズボンをそれぞれ一つずつ選び、急いでアイロンがけして客室へと戻った。
戻った頃にはレナート様はビスケットを食べ終えていたので、外出着から室内着への着替えを提案した。
着ていた服を脱いだレナート様に新しく用意した服を差し出すと、私が先程アイロンがけしてきたのが分かったのか、レナート様は穏やかなトーンで「ありがとう」と呟く。
ちょっとしたことだけれど、レナート様は細かなことに気づいてお礼を言われる方なのだね。日常的にお嬢様から感謝を向けられているけれど、別の人から言われるとまた違った感じがする。
こういうところが、レナート様の親しみやすい人柄なのだろう。
その後も私はお世話を続け、レナート様が入浴を終えれば、今日の私の仕事はそろそろ終わりだ。もちろん、入浴中のお手伝いは出来ないので、準備だけ整えて浴室の外で待っていたのは言うまでもないだろう。
明かりを少し落とし、夜の気配が濃くなった部屋の中で、レナート様はご自身のカバンに入っていた書類を出して机に並べた。どうやら、まだしばらく起きているつもりみたい。
必要な書類を出し終わると、レナート様が私を見て言った。
「今日はありがとう。アリーチェも、そろそろ部屋に戻って休んでいいよ」
「承知しました。では、また明日の朝にお目にかかります」
私は丁寧にお辞儀をすると、静かに部屋を後にした。廊下に出ると、しんと静まり返った静寂の中で、私は深く息を吐く。
(終わった……)
安堵の息を吐きながら背筋を伸ばすと、肩に乗っていた重いものが一気に下りた気がした。薄暗いランプの明かりがぼんやりと壁を照らし、その暖かな光が緊張で強張っていた私の心も解いていく。
(レナート様が良い方で、本当に良かった……)
胸の内でそう呟きながら、自然と私の顔に苦笑いが浮かぶ。大丈夫と思いつつも、少しだけ警戒していた自分が恥ずかしい。
疑念を抱いてしまった分、最後の「ありがとう」が心にじんわりと染みる。明日もまた彼のお世話をするけれど、今日ほど緊張することはないだろう。
(あと五日、一生懸命お世話をしよう)
小さく拳を握りながら心の中で「よし」と気合を入れると、私はお嬢様に就寝の挨拶をするべく、静まり返った廊下を足取り軽やかに歩き始めた。
春の遊宴で蒔いた種が、予期しないところで実りましたね。




