78. 撒いた種に実った果実
唇をきゅっと引き結び、不機嫌さを隠そうともしないお嬢様の表情。足取りには苛立ちが滲み出ており、それに気付いたイヴァンが驚いて足を止めた。
(何かあったのだろうか?)
そんな疑問を抱きながら私が歩を進め、お嬢様に声を掛けようとしたところで、私に気付いたお嬢様が開口一番言い放った。
「アリーチェ、帰るわよ」
「今、すぐにですか?」
「ええ」
今はまだ、昼の鐘も鳴っていない時刻だ。予定では、持参したお弁当を食べた後、五の鐘が鳴るまで視察を続ける予定のはずなのだけれど、それを中止にするほどの事態が起きたということか……。
階上から響く足音に視線を向けると、お嬢様を追って旦那様の秘書が階段を下りてくるのが見えた。秘書の手にお嬢様のカバンが握られている様子を見るに、お嬢様が本気で帰るつもりであるのは明らかだった。
「分かりました。屋敷に使いを出し、急ぎ馬車をご用意します」
「馬車が来るのを待っていられないわ。私は歩いてでもいいから、今すぐここを出たいの」
焦燥感に駆られたお嬢様が、苛立つように言い放つ。すぐにでもここを出たいというお嬢様の気持ちは分かったけれど、徒歩で帰るのは流石にまずい。
「徒歩で帰宅している途中にお嬢様に何かあれば、旦那様や奥様だけでなく、お嬢様ご自身にも申し訳が立ちません。急ぎ辻馬車を呼んでまいりますので、どうか今しばらくお待ちください」
「……分かったわ、辻馬車を呼ぶまでは待ちます」
「ありがとうございます」
お嬢様が了承してくれたことに安堵しながら、私は手に持っていたバインダーを呆然としているイヴァンに預けた。そして、ホールを抜けて店舗部分へと足早に移動すると、店舗内を見渡して手の空いている様子のメリッサに声を掛けた。
「メリッサ、お嬢様が急遽屋敷へ戻ることになったの。私は帰る準備をしてくるから、申し訳ないけれど辻馬車を呼んでもらってもいいかな?」
「随分急ね。分かったわ、呼んでおいてあげるから、急いで着替えてらっしゃい」
辻馬車を呼ぶ役目をメリッサに任せ、私は急ぎ足でホールへと戻る。辻馬車を手配中であること、着替えと自身の荷物を取ってくるため少し席を外すことをお嬢様に伝えると、そのまま二階の更衣室へと向かった。
見習い服を脱ぎ、手早くメイド服に着替え直した後、昼食の入った私の荷物を抱えて再びホールへと戻る。すると、ちょうどタイミング良くメリッサが辻馬車を呼んだことを知らせに来た。私はメリッサにお礼を言うと、旦那様の秘書からお嬢様のカバンを受け取って、お嬢様と共に商会の出入り口から外へと出る。
商会の前には、黒く塗られた辻馬車が一台停まっていた。私はまず御者に目的地を伝えると、馬車に近づいて扉を開ける。中を確認した後に、お嬢様のカバンと自分の荷物を持って馬車内へと足を踏み入れた。荷物を座席の隅に置き、私は改めて馬車内を確認した。
(問題はなさそうだね……)
確認が終われば、次はお嬢様が乗り込む番である。ステップに足を掛けたお嬢様に手を差し出すと、お嬢様は一言も発さずに私の手を掴んで馬車へと乗り込んだ。
「…………」
辻馬車の中、お嬢様は終始沈黙を貫き、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。かなり不機嫌そうではあるけれど、場所を考えずに辻馬車内で怒りを爆発させないくらいの感情の制御は出来ているみたい。
屋敷に到着し、自室に戻ったお嬢様が音を立ててソファに腰を下ろすなり、腕を組んで鋭い視線を私に向けた。
「……私がクビにした元メイドが商会で働いていたの」
(そういうことか……)
「お父様を問い詰めたら、メイドを使って私を試していた事を白状したわ」
お嬢様の元メイドが商会で働いているという話はメリッサから聞いていたけれど、どうやら旦那様が裏で手を回していたことが全てバレてしまったらしい。
そうなると、お嬢様が怒っている理由にも納得がいった。後継者教育の一環だとしても、何も聞かされずに試されるというのは気持ちのいいものではない。感情面で納得できるかどうかは、また別の話である。
「アリーチェも、それを知っていたのでしょう?」
お嬢様が鋭い視線で私を見つめる。その瞳は怒りを含んでいるけれど、同時に沈痛の色が滲んでいた。
(ああ、そうか……)
軽い焦りと共に、胸がズキンと痛んだ。裏切られたかのような、怒りと悲しみが混ざり合った感情がお嬢様から伝わってくる。お嬢様が今、どれほど複雑な気持ちでいるのかが、私には痛いほどよく分かった。
お嬢様にとって、元メイドと同じように私も旦那様側に立つ人間なのだろう。お嬢様が私を信じられなくなるのも無理はない。
おそらくお嬢様は、私のことも自分を試すための嘘で塗り固めた偽りの存在だと疑っているのだろう。
「確かに、旦那様が私を使ってお嬢様を試していたことは存じておりました。ですが、私自身について偽りを述べたり、偽りの行動をしたことは一度もありません。私に関しては、私も試される側だったというのもありますが……」
私の前任者たちは、お嬢様を試すために旦那様の指示のもと送り込まれた人達だったから、伝えられた情報に誤りがあったり、意図的に不審な行動を取る者もいたことだろう。
それに比べ、私の場合は私という存在そのものを、お嬢様がどう判断するかを試されていたからね。そういう点で、前任者たちと試す方向性が異なっていたとも言える。
まぁ、旦那様がお嬢様を試していたことを知りながら、それを黙っていた以上、私も同罪ではあるけれど……。でも、少なくとも私はいつでも全力だったし、真剣だった。
迷いを含んだお嬢様の視線を受け止めながら、私は多くの思いを込めて真っ直ぐお嬢様を見つめ返す。
「旦那様に雇われている身ではありますが、私は今日まで誠心誠意お嬢様にお仕えしていたと、胸を張って言えます」
しばらくの間、お嬢様はじっと私の目を見つめた後、長い吐息をついて身体から力を抜いた。
「……そうね、あなたの言葉を信じるわ」
お嬢様の言葉に、私は心の中で深い安堵の息を吐いた。きちんと話せば分かってくれると思っていたけれど、全く不安がなかったと言えば嘘になる。
(信じてくれて、本当に良かった……)
屋敷で働き始めた頃とは違う、六ヵ月という短くない時間の中で築き上げた、私とお嬢様の確かな信頼関係がそこにはあった。
その後、お嬢様の指示で紅茶を淹れることになった。私は厨房からティーセットを取ってくると、お嬢様のお気に入りの紅茶を用意する。
いつも丁寧に淹れているけれど、今日は特に気を配り、最高の一杯を淹れていく。ティーカップに紅茶を注ぐと、立ち上る湯気とともに芳醇な香りが部屋中に広がった。
ティーカップを手に取ったお嬢様の表情は、僅かに和らいで見えたけれど、旦那様に対するやり場のない感情はまだ消えていないようだった。
「それにしても、お父様は酷いと思わない? 私をずっと騙していたのよ。後継者教育の一環ということは理解できても、このもやもやとした感情は消えないわ」
ぶつぶつと文句を漏らすお嬢様に適度な相槌を打ちながら、私は持ち帰ったお嬢様のカバンを片付けていく。
「この怒りをどう消化したらいいのかしら……。やっぱり、しばらくお父様と会話しないくらいはしないと、腹の虫がおさまらないわ」
お嬢様は怒り心頭といった様子で、少し音を立ててソーサーにティーカップを置いた。
「ねぇ、アリーチェもこれくらいして当然って思うわよね?」
突然お嬢様に話を振られ、私は手を止めて軽く首を傾けた。
「感情論で言うのであれば、お嬢様のその怒りは当然のことと思います。旦那様には申し訳ないですが、旦那様の擁護は難しいですね」
別に含みを持たせたつもりはないのだけれど、私の言葉に引っかかりを覚えたのか、お嬢様がじっと私を見つめる。
「では……、感情論を抜きにしたら?」
お嬢様は眉根を僅かに寄せ、憮然とした表情で私に尋ねる。私は「そうですね……」と口元に指を当てながら、ゆったりと笑みを深める。
「商人的に考えるのであれば、旦那様は今回、お嬢様が後継者として相応しい資質を備えていることを確認することができました。旦那様からすれば、これ以上ないほど満足な結果だったと思います。であれば、秘密の課題に全て合格されたお嬢様には、ご褒美があって然るべきではないでしょうか」
「……え?」
「つまり、これを材料に商人らしく交渉してはいかがですか? 折角の交渉材料ですのに、このまま会話せずに消費してしまうのは勿体ないかと思います」
お嬢様はぽかんと口を開けたまま、私をしばし見つめる。そして、一拍子置いて破顔すると、そのまま身体をくの字に折り曲げて笑い出した。
「それ……、とても良いわ。凄く商人らしい!」
「商人らしく、傷心の慰謝料も上乗せされるのもよろしいかと思いますよ」
「ふふっ、確かにそうね。となると、お父様とはしっかりお話し合いをしなくてはいけないわね」
そう言って顔を上げたお嬢様には、先ほどまであった怒りの色は綺麗さっぱり消えていた。そして、その代わりに、お嬢様の顔には商人らしい挑戦的な笑顔が咲き誇る。そんなお嬢様の笑みにつられるように、私も頬をほころばせた。
少しばかり焚き付けてしまったけれど、旦那様からすれば、しばらく口をきいてもらえない罰を受けるよりはずっとマシなはず。それに、結局のところ旦那様が撒いた種なのだから、どのような実がなろうとも、ある意味旦那様の責任とも言えるよね……。
そんな風に考えながら、私はお嬢様と共に、どんなお願い事をするかの作戦会議に興じたのだった。
何も知らないところで試されているのを知るのは、やはりいい気分にはなりませんよね……。
お嬢様が怒るのもやむなしです。




