75. 神の学舎
屋敷で開催されたパーティーは成功を収め、女性客の新商品に対する反応も上々だった。酒に飲まれて不作法な真似をするような若者も出ることなく、パーティーは無事幕を閉じた。
そしてパーティーの翌週、二日にかけて萌水祭が開催された。希望する使用人のみになるけれど、この日ばかりは、使用人も交代で休みを取れるように配慮され、一日目と二日目、さらに午前と午後に分かれて短い時間ながらも祭りへと出掛けることになった。
私はというと、一日目の午前に休みをもらって、ニルデと共に祭りに繰り出した。一日目が前日祭、二日目が本祭となっていたので、良い時間帯は上の年齢の人に譲った形だ。
萌水祭では街に花の装飾が溢れ、広場では花の品評会が行われる。普段の商店が閉まる代わりに、商店の前にはそのお店の露店が並び、いつもと違う雰囲気を醸し出していた。普段の美しい街並みもいいけれど、笑い声や音楽に溢れた賑やかな街並みも悪くない。
生まれて初めて大きな祭りを体験した私は、心躍らせて露店巡りを楽しんだのだった。
「萌水祭は終わっても、路肩の花飾りはまだ残っているのね」
「今月の半ばくらいまで、飾りは残っているそうですよ。お祭りがとても賑やかでしたから、しばらく余韻を味わえるのは良いですね」
馬車の外、路肩に残る萌水祭の花飾りを見て呟いたお嬢様に、私は素早く返事を返す。
萌水祭の翌週、私とお嬢様は馬車に乗って神殿へと向かっていた。お嬢様は中等学級へ行くためであり、私はその付き添いだ。
「アリーチェは良いわね、お祭りに行けて。はぁ、私も行きたかったわ」
「祭りは人出が多いですからね。流石に旦那様も許可を出すのは難しかったのでしょう」
「お父様は過保護すぎるのよ……」
お嬢様は萌水祭へ行くことを希望したけれど、旦那様から外出許可は下りなかった。流石にあれほどの人混みであれば、お嬢様の身を案じての事だということもよく分かる。
祭りに行かない代わりに、お嬢様は萌水祭の期間限定の観劇に行ったのだけれど、それはそれ。お嬢様としてはやはり祭りに行きたかったのだろう。愚痴を言いながら馬車の外を眺めるお嬢様は、年相応の幼さが伺えた。
正式にお嬢様付きメイドとなり、段々お嬢様と打ち解けていったけれど、お嬢様のお世話を私一人でするようになって更に距離が近くなった。四六時中一緒にいるだけあって、今みたいにくだけた感じで話すようになったし、親密な間柄になったと思う。きっと、年が近いということも影響しているのだろう。
旦那様への愚痴から先日お嬢様が見に行った観劇の話題に差し替えて談笑すること少し、馬車の窓越しに神殿近くの建物が見えてきた。
「お嬢様、そろそろ神殿に到着します」
「分かったわ」
正面入り口から入った馬車は左へ進路を取り、神殿の敷地内を進む。神殿の奥には神樹の森が広がっているらしいけれど、ここからは森の木々を伺い見ることはできなかった。
進むこと少し、馬車は中等学級が行われる学舎前の馬車寄せにゆっくりと停まった。学舎へと続く歩道には、お嬢様と同じく中等学級へ通っているだろう子供たちの歩く姿が見える。
御者台から降りたオリンドが、まず周囲の安全を確認し、馬車の扉を開けた。それを合図に、最初にお嬢様が馬車から降り立ち、続いて私もカバンを抱えて馬車を降りる。そして、お嬢様にそのカバンを恭しく差し出した。
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
「ええ、行ってきます」
小さく笑みを浮かべ、学舎へ入っていくお嬢様を見送った後、私は一人馬車に乗り込んだ。
お嬢様の授業が終わって帰るのは四の鐘が鳴る少し前。今は、二の鐘が鳴って少したった頃なので、お迎えまで時間が空くため一度屋敷に戻るのだ。
私が御者側の席に座ると、馬車は静かに走り出した。しばらく走ると、御者台に座ったオリンドが小窓を開けて声を掛けてきた。
「アリーチェは祭りに行ったんだね。初めての萌水祭は楽しめたかい?」
「ええ、一日目にニルデと一緒に行ったの。屋台巡りも楽しかったけれど、花の品評会に出展されていた咲き乱れる大輪の花が圧巻だったわ。オリンドも行ったの?」
「私は行っていないよ。人混みが得意ではないからね」
「確かに、州都はいつも人が多いけど、祭りの時は一層凄かったものね。まさに人混みに溺れるようだったわ」
お嬢様の送迎などで私が一人で馬車に乗っている時、オリンドは時折こうして私に話しかけてくる。話し好きなのだろうとあまり気にしていなかったのだけれど、ゼータさんにその事を話すと、とても驚かれたのだよね。
普段、オリンドはあまり多弁な方ではないらしく、ゼータさんが一人で乗っている時に話しかけられたことは一度もないらしい。
何故私にだけこんな風に話しかけてくるのか不思議ではあるけれど、おそらく厩舎掃除を手伝った時に馬仲間とでも認定されたのだろう。ゆっくり乗りたい時は、御者台とは反対側に座れば話しかけてくることはないため、その時々で状況に応じて座るようにしている。
とはいえ、使用人の立場でゆったり馬車に乗っているだけでも気後れするのに、お嬢様が普段座っている側に座るのは、一層居心地が悪いので、余程の時以外は御者側に座るようにしている。
別に、おしゃべりは苦痛ではないし、馬丁ならではの馬の扱いについての話を聞くのも興味深いからね。
一度屋敷に戻り、部屋の掃除などをして過ごした後、私はお嬢様を迎えに再び神殿へと向かった。授業が終わったお嬢様を出迎えて、後は一緒に屋敷に帰るだけだったのだけれど……
「遅いですね……」
普段であれば学舎から出てきてもおかしくない時間だというのに、一向にお嬢様が現れない。勉強を終えた子供たちが学舎から出てきている様子を見るに、まだ終わっていないということはないだろう。
とはいえ、帰宅する子供達の流れがいつもより鈍く感じるので、もしかしたら話し合いか何かがあったのかもしれない。
――カラーンカラーン
いつもより重厚な鐘の音が大きく響き渡る。今は神殿の鐘楼と距離が近いため、鳴り響く四の鐘はいつもより重々しく感じた。
「お嬢様方はまだのようですね。何かあったのでしょうか」
お嬢様を待つ私に、一人の年若いメイドが声を掛けてきた。彼女の名前はネレーア。お嬢様の友人であり、同級生でもあるデルネーリ商会のラウラ嬢のお付のメイドだ。仕えるお嬢様同士が友人ということもあり、お茶会などでそれなりに顔を合わせるメイドである。
お嬢様とラウラ嬢、互いのお嬢様がまだ出てきていないということで、何か知っていないか確認に来たのだろう。
「ネレーアさん、こんにちは。これだけ遅いと心配ですね」
「アリーチェさんは、ヴィオラ様から何か聞いていますか?」
「いいえ、何も」
「そうですか……」
困り顔で考え込むネレーアを横目に、私は学舎を見上げた。出てきた姿を見ていない以上、学舎の中にいるはずなのだけど……。
「ネレーアさん。私、少し中の様子を見てきます」
「えっ、入るんですか?」
「本来は生徒以外は入るべきではないのでしょうが、事情があれば別でしょう」
「そう……ですね。何か問題が起きているのかもしれませんし……」
「早めに戻ってきますが、もしその間にヴィオラお嬢様が出ていらっしゃったら、私が中に入ったことを伝えていただいてもいいですか?」
「ええ、分かりました。ラウラお嬢様のこともお願いします」
私達は互いに頷き合うと、私は一旦オリンドの所へ行って中の様子を見に行くことを伝えた後に学舎へと足を向けた。
帰途の生徒達に怪訝に見られながら、私は大きな入口まで進む。授業が終わってからそれなりに時間がたっていることもあり、吹き抜けのホールは人の姿もまばらだ。上への階段の側には白い像――広げた本を手に持つ石膏像がポツリとたたずんでいるのが見えた。
(この学舎が神殿の一部であることを考えると、もしかしたらこの像も何かの神様なのかもしれないね……)
少しの観察後に石膏像から視線を外し、私はホールをぐるりと一瞥する。ちょうど目が合った子供にお嬢様の教室の場所を尋ねようと足を向けたところで、教師と思わしき男性が私に向かって歩いてくるのが見えた。
青色の神官服の上に濃紺の肩衣を着た男性は、私から二歩ほど離れた所で立ち止まり、私の全身にくまなく視線を走らせる。
「失礼、何か御用でしょうか?」
「失礼しております。第一学年の生徒を迎えに来た者なのですが、時間を過ぎても外に出ていらっしゃらないので、何か問題でもあったのではと案じて確認に来た次第です」
「第一学年……」
私は姿勢を正し、緩く笑みを浮かべながら軽く頭を下げると、事の経緯を簡単に説明する。男性は私の言葉に一考すると、思い当たる節があるような表情を浮かべた。
「なるほど、そうだったのですね。第一学年でしたら、もしかすると神殿図書館へ行っているのかもしれませんね。本日から、神殿図書館への出入りが許可されたはずですから」
「神殿図書館……」
これはまた、物凄く興味を引かれる言葉が出てきたね。州都の大神殿が擁する図書館ともなれば蔵書数も桁違いだったりするのかな……。
頭の中で膨大な本の山を想像していると、「よろしければ、そちらまでご案内しましょうか」と男性がにこやかな笑顔で言った。私がその提案を受けようと考えたところで、私の背後から声が掛かる。
「あら、アリーチェじゃない」
ホールの奥から、ゆったりとした歩調でお嬢様が歩いてくるのが見えた。隣にはラウラ嬢も一緒だ。
「お嬢様、お会いできて良かった。いつもの時間を過ぎてもお出でにならなかったので、念のため探しに参りました。ラウラ様もご一緒で良かった、ネレーアさんが心配しておりましたよ」
「それは申し訳なかったわね。熱中していたから四の鐘が鳴るまで気付かなかったの」
「いえ、問題がなかったのであれば、何よりです」
何か問題があったのではと心配していたから、無事で何よりである。二人の姿を見てほっとしていると、男性が隣から声を掛けてきた。
「どうやら無事に会えたようですね」
「はい、先程はご丁寧にありがとうございました」
「いいえ、困っている方を手助けするのは当然のことですから」
男性はお嬢様とラウラ嬢に視線を向けると、「では、二人とも気をつけて帰るのですよ」と言って私たちを見送った。お嬢様方が「先生、さようなら」と答えているところを見ると、やはり男性は教師だったらしい。
その後、ラウラ嬢とも別れ、お嬢様と共に馬車で帰路につく。当然ながら、馬車の中での会話は先程まで訪れていた神殿図書館についての話題一色だった。
お嬢様の話によると、春の終月に入り、中等学級に入学して二ヵ月が経過したということで、本日から神殿図書館への出入りが許可されたみたい。授業で登録を行い、使用方法や使用の際の注意点などの説明も受けたのだとお嬢様が教えてくれた。
そして、話は神殿図書館に並んでいた蔵書へと移る。ラウラ嬢と一緒に見つけた詩集について、いかに素晴らしかったかをとうとうと語っていたお嬢様が、突然何かに閃いた様に声を上げた。
「ねぇ、アリーチェ。写本をしてくれないかしら?」
お嬢様の行動範囲の変化に伴い、アリーチェの行動範囲も広がりましたね。




