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【第三部】黒瞳少女は帰りたい 〜独りぼっちになった私は、故郷を目指して奮闘します〜  作者: 笛乃 まつみ
第三章 ルッツィ孤児院

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34. その名前は……

 取引内容が決まったので、レンツさんが取引に関する条件を確認しながら契約書を作成する。

 それを待っている間、エルミーニ商会の従業員の女性が紅茶とお菓子を持ってきてくれたので、私はブルーノさんと共にそれをいただく。


 この前、初めて紅茶というものを見たけれど、まさか自分に振る舞われるとは思ってもみなかったよ。

 緊張で指先が震えないように気をつけながらカップを持ち上げ、まずはゆっくりと香りを楽しんた後、一口紅茶を口に含む。その瞬間、口の中にふわっと豊かな香りが広がった。

 そのままの香りも良かったけれど、ほのかな苦味と共に広がる芳醇な香りもまた一味違うね。当然だけど、家で飲んでいたハーブのお茶とは全く違う。

 一緒に出されたバタークッキーも美味しい上に、紅茶とよく合っていて、私は瞠目しながら紅茶とお菓子に舌鼓を打つ。


(こんなにも砂糖とバターがたっぷりのクッキーなんて初めて……)



 私が紅茶とクッキーを堪能している間に、契約書が完成したようで、レンツさんが書き記したばかりの契約書を私の方へ差し出した。


「アリーチェ、この条件で間違いないか確認してください。文字は読めますか?」

「はい、大丈夫です」


 契約書を受け取り、私は内容を確認していく。記載された内容は、概ね先程ブルーノさんと取り決めた内容そのままである。


 一つ、箒型ぞうきん及び絞り器に関する権利を、私からブルーノさんへ全て譲渡すること。

 一つ、譲渡するにあたって、ブルーノさんは当情報で得た売上の利益の百分の二を、毎月私へ支払うこと。

 一つ、支払い開始は、当情報で売上が発生した月からとし、毎月翌月の二十日までに支払うこと。

 一つ、支払期間は、支払い開始から二年とすること。

 一つ、ブルーノさんが仕事を紹介し、それを私が承諾した場合、利益の百分の二の支払いは、仕事開始の前月で終了すること。

 一つ、紹介する仕事は、手取り大銀貨八枚、雇用期間二年を保証すること。

 一つ、エルミーニ商会への雇用の場合は拒否できないが、それ以外の雇用の場合は私が拒否権を持つこと。


 また、上記以外にも、商業ギルドへの登録が済み次第、神殿で契約内容に基づき誓約書を交わすこと、商業ギルドへの登録が終わるまで、私は当情報を一切他へ漏らさないこと、などが記載されていた。


「その内容で問題なければ、署名をすることにしよう」

「分かりました」


 売れない場合に備えて、本来は最低保証額という条件も入れたほうが良いのだろうけれど、これが売れないということは無いだろうから、あえて入れる必要はないよね。

 全く売れなければ、私とブルーノさんの流行を読む力がなかったというだけだ。

 あと、問題になるような所はない……ん?


「あっ」

「突然どうした!?」

「あ、いえ……申し訳ないのですが、条件を一つ追加してもいいですか?」

「何か不備があったか?」

「支払いに関してなのですが、私が死亡した場合とかは想定していなかったなと思って」

「……」

「支払期間を残して私が死亡した場合は、代わりにルッツィ孤児院へお金を渡してほしいです。お願いできますか……?」


 縁起でもない話だけど、人生は何があるかわからない。突然奉公に行くことになったり、崖から落ちたりすることだってある。

 森での採取は今のところ安全だけれど、獣に襲われたりヘビに噛まれたりする可能性は皆無ではないのだ。万一に備えての準備を怠っては駄目だよね。


「ふっふふっ……あっはっはっはっ」

「!」


 先程以上の大笑いに、私はびくっと身体を震わせた。ブルーノさんは顔に手を当て、身体を二つに折って笑っている。ブルーノさんは見た目と違って、意外に笑い上戸だよね。


「アリーチェ、君は本当に面白いな」

「私には至って真剣な提案です」

「アリーチェは今十一歳だったな。よければ、成人したらうちの息子に嫁入りしないか?」

「――!」


 まさかの嫁入りの誘い!? 唐突な提案に、私は笑うどころかピシリと固まる。

 

「えっと……、ブルーノさんの息子さんなら、もう結婚されている歳なのでは?」

「上の息子は既婚者だが、下の息子は独身だ。どうだろう?」

「故郷に帰るつもりなので、そういうお話は遠慮しておきます」

「そうか、それは残念だな。まあ、どうせ一年後には君を雇うことになっているだろうから、その時改めて考えてみてくれ」


 一年後の雇用……、つまりブルーノさんはそうなるくらい箒型ぞうきんが売れる、と確信しているということだ。


(三年後……、私が成人する前には、故郷への旅を始められるかもしれない……)


 遅くとも三年後には……、と思うと心臓がどくんと大きく跳ねる。おぼろげだった故郷への帰路が、今私の前にはっきりと見えた。


「きっと考えは変わりませんから、その際は雇用主と従業員として宜しくお願いしますね」


 ブルーノさんの「本当に残念だ」という言葉を聞きながら、私は満面の笑みで応えた。



 その後、私が死亡した場合の条件も書き加えられ、私とブルーノさんが契約書に署名を行った。

 ちなみに署名した契約書は二枚。内容はどちらも同じで、私とブルーノさんがそれぞれ手元に保存しておく用である。


「こちらはアリーチェが持つ契約書だ。神殿で誓約書を書く時までしっかり保管しておくように。誓約の際に同一の内容になっているか確認してもらうから、その時に持参してくれ」

「分かりました」


 私は封蝋された契約書を受け取ると、籠の中に入っていた布に包んで籠の中へと入れた。箒型ぞうきんを隠すために被せていた布だけど、意外な所で役に立ったね。

 孤児院に戻った後は、一応はマリサさんに保管を頼んだ方がいいかな。伝えておけば悪さをする子はいないだろうけど、同室の年少の子がうっかり触ってしまうということもあり得るから、最初から預けておいた方が安全ではあるよね。


「そういえば、商業ギルドへの登録にあたって、商品名が必要になるが、何か希望はあるか?」

「名前ですか、特に希望はないですが、ぞうきん箒やヒモ箒はどうですか?」

「流石にそのまま過ぎる。もう少し言いやすくて、響きが良いものがいいな」

「そう言われるとなかなか難しいですね。聞いただけで、すぐに掃除道具とわかったほうがいいのですか?」

「いや、新しい商品だから関連付いていなくても構わない」


 それを聞いて、私はしばし考え込む。脳裏に浮かんだのは、故郷の山に自生していた草だった。


「……ここらでは見ないですが、故郷の山にはこの箒型ぞうきんのようにもさもさした草が生えていたのです。その草はモップル草と呼ばれていたのですが、そういう名前をつけるのはどうでしょうか?」

「なるほど、モップル草か……。候補の一つとして考えておこう」



 契約も無事に終わったので、改良版箒型ぞうきんと絞り器と木札をブルーノさんへと渡し、私は孤児院への帰路についた。

 帰りの際には、この前ブルーノさんが言っていたお詫びの品として化粧品一式を二つと、今日私が食べたバタークッキーをお土産として持たせてもらった。

 出されたクッキーの大半は、美味しさのあまり食べてしまったのだけれど、かろうじて残せた数枚のクッキーを持ち帰ろうとしていたのを見て、お土産として包んでくれた感じだ。

 包んでくれたレンツさんには感謝だね。

 私を除く孤児院の皆でクッキーを分けて食べたけれど、案の定「ほっぺが落ちる!」と皆大絶賛だった。


 ちなみに、もらった化粧品一式は口紅、頬紅、おしろい、保湿液といったものが入っていた。受け取った一式のうちの一つはシエナへと渡し、私の分の化粧品はというと、口止め料としてアガタとノーラにそれぞれ2個ずつあげることにした。

 最初は、今回食べたような特別なお菓子を露店で買おうかとも考えたのだけれど、二人に確認したところ、迷わず「化粧品!」と答えたので、そちらに決まった。興味はあっても年齢的にまだ縁のない化粧品に二人が興味津々だったので、あげて良かったと思う。

 少しばかり後ろ髪を引かれたけれど、きっとこの先また機会はあるよね。




 ブルーノさんとの契約から三週間後、エルミーニ商会からの使いが来て、商業ギルドへ無事登録が出来たことが伝えられた。

 それを聞いた私は、小さく手のひらをぎゅっと握り込む。先はまだ長いけれど、私にとってはとても大きな一歩だった。


 なお、聞いた話では、箒型ぞうきんの名前は正式に『モップ』という名前に決まったらしい。参考にするとは言っていたけれど、どうやらモップル草からとったみたい。

 無事故郷に帰れた時は、きっとモップル草を見る度にこの街のことを思い出すのだろうな……、と私は思った。


商人であれば、青田買いは基本ですね。

突然の嫁入りの打診に固まるアリーチェでした。


箒型ぞうきんの名称はモップに決定しました。私の頭ではこれ以上はひねり出せませんでした。

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