11. 炭焼き夫婦
カサリという小さな音が聞こえて、私は静かに覚醒する。開いた瞳に映る天井は、見慣れた私の部屋のものではない。こうしてベッドに横になっていると、ここ数日の出来事が夢だったのではないかと思ってしまう。
藁の香りを胸いっぱい吸い込むと、私はゆっくりと身体を起こす。布団の中の藁がカサカサと音を立てた。
左を見ると、ベッド横の棚の上には、私のワンピースとポシェットが置かれているのが視界に入る。反対側を見ると、窓から明るい光が差し込んでいた。
(この光の差し込み具合を見ると、おそらくかなり日が昇っているよね……)
私は急いで手櫛で髪を整え、ワンピースを身につけると、部屋を出て居間へ顔を出した。
「おはよう、起きたのね」
扉を開けた音で私が起きたことに気がついたのだろう。私が顔を出すなり、居間にいた白髪混じりのおばあさんが声をかけてきた。
「おはよう」
「おはようございます。すっかり寝坊してしまって、すみません」
「いいのよいいのよ、それだけ疲れてたんでしょう」
おばあさんは立ち上がって私の側まで来ると、私の顔を覗き込んだ。
「顔色はずっと良くなったわね」
皺を深くしながら優しく笑い、おばあさんは台所へと向かう。彼女の名前はベルラ。昨日、私が森の中で出会ったドンテさんの奥さんだ。
「昨日は、本当にありがとうございました」
「そんな畏まらなくていいのよ、アリーチェは本当に丁寧な子ね」
ベルラさんはオートミールの入ったお椀とスプーンをテーブルへと置いた。
「簡単な物だけど、どうぞ」
「重ね重ね、ありがとうございます」
感謝の言葉を口にしながらテーブルに着くと、思い出したかのように、くぅとお腹が空腹を主張し始めた。
昨日、ドンテさんに村まで案内してもらった私は、そのままドンテさんの家に連れて行かれて、ベルラさんと出会った。ベルラさんは、夫が突然連れてきた女の子にとても驚いていたけれど、嫌な顔一つせず、私を暖かく迎えてくれた。
お湯で身体を清め、替えの服を貸してくれたり、温かなスープを私に振る舞ってくれたりと、ベルラさんはとても親切だった。
そして、数日の疲れが溜まっていた私は、スープを飲み終わった頃に眠気が限界になり、昔子供が使っていたというベッドを借りて眠りにつき、目が覚めたらお昼だったというわけだ。
森を彷徨った三日間で粗食に慣れていたとはいえ、昨日は夕方にスープを一杯食べただけだから、お腹が空くのも当然だよね。
私はテーブルの向かいに座ったベルラさんに見守られながら、食べ物に感謝してオートミールを完食した。
「えっ……、ここ、水の州なんですか?」
ご飯を食べ終わり、今いる場所について詳しい話を聞いた私は、ベルラさんの言葉に頭が真っ白になった。私の驚きの声をよそに、ベルラさんは冷静に答える。
「ああ、そうさ」
「そんな……、私、火の州にあるルフス・フォディ山脈の村に住んでいたんです」
「ルフス・フォディだって!?」
ベルラさんが驚きに目を丸くしたけれど、その気持ちはよく分かる。私もさっきは息が止まるほど驚いたもの。
「はい、ルフス・フォディの山間にあるティート村出身です」
「驚いた……。山間の村から流されたって言っていたから、てっきりルフス・イグナ山脈の村だと思っていたんだよ。まさかそんな遠くから流されていたとは……、本当に良く無事だったね」
「私も驚きました。まさか隣の州にまで流されているとは思っていなかったです……」
昨日はすぐに眠くなってしまったこともあり、崖崩れに巻き込まれて山間の村から流されて森を彷徨ったという簡単な説明しか出来ていなかった。
そして今、食事が終わってひと息ついたので、今いる場所や流された詳しい経緯について、ベルラさんと話していたのだけれど、まさか隣の州に流れ着いていたとは……。
私が暮らしていたティート村は、火の州にある山脈――ルフス・フォディの山間にある村だった。
ルフス・フォディは中央と火の州を上下に隔てる山脈で、ルフス・イグナは火の州と、今私がいる水の州を左右に隔てる山脈だ。もう一つ別の山脈があって、ルフス・フォディとルフス・イグナが三叉で繋がっているということを、礼拝堂の神官様から聞いたことがある。
単純な地形で言えば、山脈を挟んで火の州の上側に中央、右側に水の州という感じだ。
かなり流されたとは思っていたけど、まさか隣の州にまで来ていたなんて想像もしていなかったよ。川から上がった時、後ろに広がる山々はルフス・フォディだと思っていたけど、実際はルフス・イグナだったみたい。
視線を窓の外に向けると、穏やかな昼の日差しに照らされた山の稜線がくっきりと浮かび上がっていた。あの山影が、ルフス・イグナ山脈なのだね……。その姿を見ていたら、ふと父から聞いた昔話が頭をよぎった。
ルフス・イグナには火竜が棲んでいて、山を越えようとする旅人はとても苦労していたらしい。それを知った火の神紋者様が、峠を切り開いて道を通したと――。
あくまで言い伝えだけれど、大昔にはその道が、私の故郷ティート村の近くまで続いていたという伝承もあったっけ。こうして、あの昔話の地に今、自分が立っていると思うと……なんだか不思議な気持ちになる。
「あの日は、馬車で隣の領地へ奉公に向かっている途中でした。馬車が崖崩れに巻き込まれてしまって……」
「隣の領地? アリーチェが住んでいたところではなく、わざわざ隣の領地に奉公に行くところだったのかい?」
「隣の領地の貴族が人を求めているということで、奉公に行く予定でした」
「そう……、貴族の求めで……」
「崖から落ちてしまったから、その話も無しになってしまいましたけどね。きっと死んだと思われているだろうし……」
「でも、あなたは生きているわ。アリーチェは本当に色々と運が良かったのよ」
一瞬、表情がなくなった様に見えたけれど、ベルラさんは優しい顔で微笑んだ。
「ベルラさん、この村から水の州に向かう道はありますか?」
「水の州に、戻るの?」
そう尋ねるベルラさんの顔から明るさが消える。やはりさっきの顔は気のせいではなかったみたい。何か懸念があるのだろうか……?
「はい、戻るつもりです」
「……この村から直接向かうのは難しいわ。あなたが通ってきた森があるでしょう? あの森の奥には魔素の濃い場所が広がっていて、迂回しなければ水の州には向かえないの」
あの森の奥か……。魔素が濃そうだとは思っていたけど、やっぱりそうだったのだね。魔獣に遭わなかったのは本当に幸運だったね。
「他に道は? ルフス・イグナ山脈を西に抜ける道はないのですか?」
「山脈を西に? ああ、昔、火の神紋者様が通したと言われる街道ね」
神紋者――礼拝堂でもよく語られていた、神の寵愛を受け、特別な御印を身体に宿す存在。この国では、時折、神紋者と呼ばれる存在が生まれるらしい。
私は見たことがないけれど、神官様がいくつも伝承を話してくれていた。神の力を授かり、人知を超えた奇跡を起こす。まるで、生きた伝説のような存在だった。
「あの街道は、今ではもう使われていないはずよ。今は、北に向かって山を越え、中央の州を経由するか、南に向かって海沿いの街道を通る他ないと思うわ」
「中央経由か、南の街道……」
選ぶとしたら、きっと南の街道の方が安全だろう。けれど、海沿いの街道ということは、山間のティート村とは正反対になるから、ずいぶん遠回りになってしまうかもしれない……。
どうするべきか悩んでいると、ベルラさんが驚きの提案をしてきた。
「アリーチェ。あなたは大変な思いをしたのだから、先のことは置いといて、今は好きなだけうちでゆっくりしたらいいわ」
「それは凄く嬉しいですが、ベルラさん達に迷惑をかけるわけには……」
子供とは言え、一人増えただけでも食糧の消費は無視できない。もとの暮らしで、食べ物の大事さは身にしみて知っている。ベルラさんの申し出はとても嬉しいけれど、彼らの増える負担を考えたら、簡単に甘えることも出来ない……。
「いいのよ。子供たちはみんな家を出てしまって、夫婦だけの暮らしだもの。森の恵みで生きるわたし達が、森が助けた子供をそのまま放り出すわけにもいかないわ」
ベルラさんがにこやかな眼差しで私を見た。
「それに、アリーチェがいてくれたら、家が賑やかになってちょうどいいと思うの」
今の私は、一人ぼっちの子供だ。右も左も分からず、庇護者もいない私には、そう言ってもらえることがどれほどありがたいことか……。
「……本当にありがとうございます。お世話になる間は何でも手伝うので、私に出来ることは何でも言ってください!」
私が力強く宣言すると、ベルラさんは「あらあら」と目元の皺を深くして笑った。
川に落ちて不幸のどん底だと思っていたけれど、親切な人達に出会えた幸運に、心の底から感謝する。お世話になる間、ベルラさんとドンテさんの手伝いを精一杯しようと私は決めた。
この日、私は早速ベルラさんの手仕事を手伝うことになった。
ドンテさんは炭焼きの仕事をしていたけれど、ベルラさんは羊毛の機織りを手仕事としているみたい。今の時期は春に刈った羊の毛を糸にする作業をしていて、私が居間に顔を出した時にしていたのは、ちょうどこの作業だったようだ。
見せてもらうと、トゲがたくさん生えたブラシ二本を使って、羊毛が柔らかく均一になるように梳いて整えていた。
ベルラさんの真似をしながら、私も慣れない手つきでたどたどしく梳いていたのだけれど、段々と手際も良くなり、最終的には「上手に出来てるわね」と褒め言葉を貰うまでに上達した。
私の上達の早さは、羊毛梳きでも存分に発揮されたみたいだね。
手仕事を終えてからは、夕食を作るベルラさんを手伝う。普段家でもしていたことだから、何処に何があるかさえ教えてもらえれば、後はお手の物だ。
夕方、帰ってきたドンテさんに少しの間お世話になることを伝えると、静かに頷いて、ベルラさんと同様に「好きなだけいればいい」と優しい言葉をかけてくれた。
それからというもの、水汲みや料理、洗濯、掃除に手仕事の手伝いと、私は精を出して働いた。勤勉に働くのは苦ではないので、慌ただしくも充実した毎日が過ぎていく。
一度、同じ村に暮らしているドンテさん夫妻の娘さんが顔を出したこともあった。もう一人娘さんがいるようなのだけど、別の村に住んでいるみたい。以前は息子さんもいたらしいのだけれど、若い頃に事故で亡くなってしまったのだと、娘さんが教えてくれた。
お手伝いをしながら過ごす中で、これからどうするべきか、という考えは常に頭の片隅にあった。あの後も、色々と話を聞いたけれど、やっぱり西へ抜ける山越えの街道はなくなってしまったみたい。
火の神紋者様の亡き後も、しばらくの間は整備が続けられていたみたいだけれど、やがて管理が行き届かなくなり、今ではすっかり山に埋もれてしまったらしい。
火竜の生息地を通したという話だったから、それもやむなしなのかな。
(……奇跡の道も、長くは続かないってことだね)
そう思うと、少し寂しいけれど、それが現実だ。ベルラさんが、水の州の州都に神紋者様がいらっしゃるという噂話があるのだと教えてくれたけれど、今のところ、その存在が村の暮らしに何か影響を与えているようなこともないみたい。
「神様の愛し子がいようと、私たちの暮らしにはあまり関係がないってことさ。奇跡よりも、まずは自分たちの足で生きていかなきゃってことなんだろうね」
そう話をしてくれたベルラさんの言葉は、妙に心に残った。でも、私もその通りだと思う。奇跡を待つのではなく、自分で道を切り開かなければ……。
北に抜ける道についても聞いてみたけれど、それなりに厳しいらしく、安全な道は商人や地元の村人など、一部の人しか通らないみたい。要するに私のような他所者が軽々しく立ち入れる場所ではないということだ。
南回りの道は、予想していた通り、かなりの遠回りになるみたい。歩きだと日数もかかるようだけど、今の私には、それが唯一の選択肢だった。
とはいえ、道のりよりも大きな問題もある。当然のことながら、旅にはお金がかかるのだ。なるべくお金を使わないように旅をするにしても、ほぼ無一文の私には、どうすることもできない大きな壁だった。
(どうしよう……)
これからどうしたらいいのか、私は頭を抱える。ここにお世話になったままでは、生活は保障されていても、故郷に帰ることはできない事を、私は否が応にも理解していた。
優しい夫婦に保護されました。
故郷からは想像以上に遠く離れてしまいましたね。