112. 揺らぐ均衡
アルフィオの説明により侵略の歴史が隠されていた理由は分かったけれど、それとは別にひとつ気になる点があった。
「さっき、時代とともに魔力は弱くなっていると言っていたけれど、それは本当なの?」
「ええ。四百年前と比べて、貴族の魔力は確実に弱くなっています」
「それは何故?」
こんなにも断言するということは、それほど変化が顕著なのだろうか?
私が疑問を口にすると、アルフィオは迷いのない口調で答えた。
「単純な理です。貴族同士が子をもうけた場合、子供の魔力は、おおよそ親と同等かそれより少し低くなります。ですから、世代を重ねれば重ねるほど、魔力が弱まっていくのは避けられません」
「でも……親より強い魔力を持つ子が生まれることもあるわよね?」
「もちろん、そういう場合もありますが、ごく稀です。そして、貴族同士で婚姻を重ねると血が濃くなりすぎてしまい、それも魔力衰退の一因だと考えられています」
人の時代になってから数千年。魔力を持つ貴族同士で婚姻を重ねたことで、そういう弊害も起きているのね……。
「最近では、魔力を重視する家とそうでない家で二極化が進んでいます。上位貴族ほど魔力や血筋を重んじ、下位貴族はそれほど重視しなくなっています。下位貴族の中には、平民を妻に迎える者も少なくありません」
「――!」
貴族と平民の婚姻の話が出て、思わず軽く身を乗り出す。やはりその話を聞いて気になるのは、メリッサたちのことだった。
「貴族が平民の女性と結婚した場合、やはり子供の魔力は弱くなるの?」
「確かに、片方が魔力を持たない場合、魔力はぐっと弱まる傾向があります。ただし、逆に強い魔力を持つ子が生まれる確率は、貴族同士よりも高いのです」
「へぇ」
「そして興味深いことに、新しい血が交じることで安定をもたらすのか、貴族同士よりも子を授かる確率が高いという調査結果もあるそうですよ」
(それはつまり、貴族同士は子供を授かる確率がそれほど高くはないということだろうか……?)
貴族の出生率がそれほど高くないのであれば、全体的に魔力が弱くなっていく原因のひとつになっているのかもしれない。
婚姻を結ぶ相手によってそんな風に変化があるなんて、興味深いね。
「もちろん、下位貴族が平民を妻に迎えるのは、妻の生家の資金援助を期待してのこともありますが、運良く魔力の強い子が生まれる可能性を狙ってのことも多いです。上位貴族は家の体面があるので平民を妻に迎えることはありませんが、下位の家ではよくある話です」
「……なるほど」
貴族と平民の結婚は、思っていた以上に垣根が低くなっているみたい。貴族が平民の妻を迎える場合もあると聞いてはいたけれど、理由を聞いて得心がいった。
ふと、アルフィオが微笑みながらじっと私を見ていることに気づいた。
「そういう意味では、あなたのような存在は理想的だと言えますね」
「……理想的?」
「高い魔力を持ち、しかも平民の出身で、血の濃さを気にせずに求婚できる――そういう意味です」
あけすけに言えば、子をなす相手として最良という意味だろう。
頭ではありえる話だと理解できるけれど、まだ成人もしていない身としては、複雑な気持ち以外に言い表しようがない。
「いずれ社交の場に出たり、学院に通うようになれば、自然と親しい相手もできるでしょうが、それと同時に、あなたに言い寄る者も少なくないはずです。近づいてくる者全てを警戒しろとは言いませんが、先ほどの私の言葉を忘れずに、どうぞ気をつけてください」
アルフィオの忠告に、私は思わず苦笑いを浮かべる。
もし私が普通の神紋者だったなら、求婚者が多く現れてもおかしくなかっただろう。けれど、私は時間が限られている身だ。
つまり、言い寄ってくる者がいたとしても、死ぬまでの間に子を成すことを期待した求婚である可能性が高いと言わざるを得ない。
仮に、そういう思惑を持たない人がいたとしても、先が見えた状態で誰かの手を取る自分の姿がどうしても想像できないし、ましてや、魔力が高い子供を生むためだけの求婚に応じるなんてことは、絶対にしないという確信があった。
そんなふうに考えていると、ふと小さな疑問が芽生えた。
先ほどアルフィオは、カーザエルラ公爵家は水の神樹に仕えた一族で、かつて水の国を治めた王族だと言っていた。
それはつまり、公爵家は代々「水の神樹」と契約し、その加護を継いできた家門ということになる。そんな大切な一族の後継者が決まっていないというのは、どう考えても由々しき事態だ。
水の神樹がユーノスフィア全体を覆う巨大な結界の一部であることを知った今では、その違和感がより強く引っかかった。
「ひとつ気になったのだけれど……公爵家の後継者が決まっていないのは、何故なの?」
私の問いに、アルフィオはわずかに目を細めた。その表情には、ため息にも似た静かな逡巡が宿っていた。
「あなたはイグナツィオ様の庇護を受ける立場ですから、いずれは知るべき内容でもありますね」
そう前置きすると、彼は手元の本を閉じ、改めて私に視線を向けた。
「では一つ、質問をしましょう。イグナツィオ様は、どの神の加護を得ていると思いますか?」
私は頭の中でイグナツィオ様の姿を思い浮かべる。
冬の湖を思い起こさせる薄い青の髪に、透き通った水色の瞳。色で判断するなら――
「水の神かしら?」
「その通りです。イグナツィオ様は水の神の加護を持たれています。そして、それは現公爵――つまりイグナツィオ様の父君も同じです」
アルフィオは淡々とした声で続けた。
「水の神樹と契約する者は、基本的に水の神の加護を持つ者とされています。しかし、公爵夫人フィアンマ様のお子であるバジーリオ殿下は、火の神の加護を持っておられるのです」
「火の神の……」
「嫡子でありながら殿下が後継者に指名されていないのは、そのためです」
血筋では嫡子が正統だとしても、加護が異なるとなれば話は別――つまりはそういうことか……。
「では、公女殿下は?」
「フィアンマ様のもう一人のお子であるベルナデッタ様は、水の加護をお持ちです。ですが、女性という理由から、後継者としてはやや不利な立場にあります」
基本的に男児が家を継ぐ習わしなのは、貴族も平民も変わらないみたい。もちろん、他に後継者がいない場合はその限りではないけれど、男児と女児がいた場合、男児の方が優先されるらしい。
家を誰が継ぐかは平民でも揉めることがあるのだから、背負うものが多い貴族ならなおさら複雑になるのは間違いない。
そして、貴族女性は妊娠や出産によって魔力が不安定になる時期があるため、神樹との契約者には向かないというのが最大の理由だという。
「本来であれば、イグナツィオ様か後継者となるのが自然な流れなのですが、フィアンマ様はバジーリオ殿下を後継者とすることを強く推しておられます」
「…………」
正妻の矜持を思えば、自ら産んだ子供ではなく側妻の子が後を継ぐなど、到底許せるものではないのだろう。
「ここで問題になるのが、フィアンマ様のご実家です。フィアンマ様は、現在の火の州公の妹君ということもあり、火の州の強力な後ろ盾があるのです」
「公爵夫人は火の州公の妹なの!? それはまた……」
血筋で言えば、気位が高くて当然だ。
「それに対し、イグナツィオ様の母君はすでに亡くなられております。しかも、ご実家の爵位も小さな領地の伯爵家のため、後援を望むのも難しいのが現状です」
淡々と語るアルフィオの言葉の裏には、この領地の抱える複雑な権力構造が透けて見えた。
「……でも、水の加護を持たない人が水の神樹と契約することはできないのよね?」
「いいえ。絶対にできないというわけではありません」
アルフィオはそう言って、わずかに苦笑した。
「過去には、水の加護を持たない者が契約した例もあります。直系の血筋に水の加護を持つ者がいなかったため、他の加護を持つ者が契約したというものです。その際は、水の加護を持つ者を正妻に迎えることで均衡を保ったそうです」
「……だから、事態が膠着しているのね」
イグナツィオ様は庶子であり、バジーリオ様は水の加護を持たず、ベルナデッタ様は女性。
三者それぞれに難があり、結果として後継者が決まらないまま時が過ぎている、というわけか……。
「ええ。ですが――」
アルフィオは少し言葉を切り、私を真っ直ぐに見つめた。
「神紋者であるあなたが現れたことで、この均衡は大きく動くでしょう」
「後天的な神紋者でも、そこまで影響があるものなの?」
「神紋者という存在は、この国では極めて稀有な存在です。そんな神紋者が二人もイグナツィオ様のもとにいるとなれば……、周囲がどのような解釈をするかは、言うまでもないでしょう」
「神紋者といっても名ばかりで、何か特別なことができるわけではないのに……」
私の口からこぼれた呟きに、アルフィオはわずかに眉を上げて「うん?」とでも言いたげに首を傾けた。
「知らないようですが、神紋者は“居るだけで”意味があるのですよ」
「居るだけで?」
「神樹が存在することで魔素の流れが安定し、異常気象や魔物の氾濫が抑えられているのは知っていますね」
「ええ、故郷の礼拝堂で聞いたわ」
「実は、神紋者にも同じような効果があると言われています。もちろん、目に見える形で証明されたわけではありませんが、古い記録を見ると、神紋者がいた地は、長い年月を通して安定しているのです。神樹の契約者の力によっても影響は多少変わりますが、残された記録から見ても、神紋者の存在が環境に影響していることはほぼ確実だと考えられています」
その口調は、まるでどこかの学者のように確信めいた響きを持っていた。
「しかも、時代の経過とともに、現れる神紋者の数は減少傾向にあります。ここ数百年遡っても、同じ州に複数の神紋者がいたことはないでしょう。ましてや、二人の神紋者が一人のもとに集うなど――奇跡と呼んで差し支えありません」
奇跡と言われても、総合的に判断してイグナツィオ様の庇護下に入っただけなので、少し複雑だ。忠誠を誓っているルキスとは意味合いが異なると思うのだけれど、周囲からはそう見えるということなのだろう……。
「つまり、二人の神紋者を側においているイグナツィオ様は、後継者に相応しいという声が強くなるということね」
「ええ。イグナツィオ様が後継者へと一歩近づくのは間違いないです。ここしばらく沈静化していた後継者争いも、今回を機に再び苛烈になるでしょう。イグナツィオ様への暗殺や謀略が増えることも予想されます」
後継者争いが激しくなるだろうことは、私も予感していた。けれど、こうして言葉にされると、イグナツィオ様が危険にさらされるという現実が、ぐっと近くに迫ってくるように感じた。
全て承知の上だとしても、危険が増えると聞けば、やはり心配にもなる……。
そして、それ以上に気になったのは、淡々と語りながらも、アルフィオの口元に浮かんだ、楽しげにも見えるかすかな笑みだった。
「……主人が狙われる機会が増えるというのに、アルフィオはなんだか嬉しそうね」
「そうですね、私はこの状況を歓迎していますから」
そう言って、アルフィオはさらに笑みを深めた。
「今回のことで相手はいよいよ焦ることになります。そうなれば、イグナツィオ様を直接害そうとしてくるのは目に見えています。主人の身の危険はもちろん案じておりますが、それ以上に、相手の行動が派手になり、証拠を押さえられる可能性が高くなるのは大きいです。水の神樹の契約者候補である公子を害することは大罪ですから、証拠さえ揃えば、いくら公爵夫人といえども罪に問うことができます」
その理屈は理解できるけれど、噛みつかれることを前提に魔狼の巣穴に入るようなものだ。
もっと穏便に解決できないかと思ってしまうのは、私が貴族社会のことを本当の意味でまだ分かっていないからだろう……。
アルフィオによると、ここ五年ほどは直接的な攻撃はなく、陰湿な政治的圧力や嫌がらせばかりで、手をこまねくほかなかったらしい。
「以前は、膠着状態のまま、公爵閣下がお亡くなりになることを何より案じておりました。そうなれば、フィアンマ様が無理にでも意見を押し通すのは確実でしたから。ですが、均衡が破られた今、相手側は本気でこちらを潰しに動きます」
「……私も、危険になる可能性はある?」
私の口から、自分が思っていたよりも冷静な声が漏れた。可能性があるなら、心構えはしておくべきだろう。
「まったくないとは言えませんが、神紋者であるあなたに手を出すことは本当に最終手段でしょう。どちらかといえば、あなたを取り込もうとする動きの方が強くなるはずです。この屋敷にいる間は問題ありませんが、外に出る際は十分注意してください。護衛の騎士をつける予定ですが、相手が誰であれ、気を許しすぎてはいけませんよ」
「それはもちろん、気をつけるわ」
甘言にやすやす乗る気はないけれど、どういう手段を取られるかは予想がつかない。こういうのは、そもそも近づかないようにするのが一番だろう。
「もしあなたの存在が王都に正式に報告されれば、王族から直接庇護――いえ、婚約の打診が来る可能性もありますから。その点にも注意が必要ですね」
「婚約!?」
「十分にあり得る話ですよ。闇の神樹と契約しているのは王族ですからね。闇の神紋者の子に契約を継がせることができれば、これほど心強いことはないでしょう」
「あまりにも話が大きすぎて、現実味を感じないわ……」
正直な話、王族からそんな話が本当にきたとしても、私は間違いなく断るだろう。
ここでの生活でさえ荷が重いと感じるのに、王宮なんて絶対に行きたくない。名前の呼び方ひとつでも気後れしていたのに、王族相手だなんて――考えるだけで胃が痛くなる。
少しだけ気持ちを切り替えようと深く息をついていると、そんな私に、アルフィオは静かに視線を寄越した。
「……こんな話をしておいてなんですが、いずれこの地を去るとしても、私はできるだけ長く、あなたにイグナツィオ様のもとにいてほしいと思っています」
その言葉に、背後から静かな声が割って入った。
「――アルフィオ様」
部屋にずっと控えていたキアーラが、少し冷ややかな眼差しでアルフィオを見つめる。
「イグナツィオ様のことを思っての発言でしょうが、それ以上はお控えください。アリーチェ様への不用意なお言葉は慎むよう、イグナツィオ様からも申し渡されているはずです」
「もちろん、わかっていますよ。ただ、私の希望を口にしただけで……それ以上の深い意図はありません」
肩をすくめたアルフィオが、微笑を浮かべながらキアーラを見つめる。二人の間に散る火花に、私はそっと息を呑んだ。
キアーラはなおもうろんな視線をアルフィオに向けていたけれど、それ以上追求しなかった。
キアーラの発言から察するに、私の選択を妨げることがないよう、イグナツィオ様が周囲に気を配ってくれていたのだろう。
その上でアルフィオもまた、イグナツィオ様への強い忠誠があるからこそ、先ほどの言葉が出たのだと思う。
そして、公爵夫人に仕える者たちもまた、自らの忠誠心を胸に動くのだとしたら、その矛先は、イグナツィオ様だけでなく、やがて私にも向けられる可能性は大いにあり得る。
何も知らずに貴族の世界に足を踏み入れてしまったけれど、ただ庇護されるだけでなく、私自身、もっとこの世界を知っていかなければいけない。
そう心に強く刻みながら、私は窓の外に広がる雲ひとつない青空を静かに見つめた。




