108. 別れの朝
イグナツィオ様と庇護の契りを交わしてから二日後の朝。
じりじりと暑さを増す空気の中、私はフィオルテ家へ向かう馬車の窓から街の景色をぼんやりと眺めていた。白い石畳と並木道――見慣れた上流居住区の街並みが、今日はどこか違って見えた。
同乗しているのは、ルキス様、ランツァ様、そしてキアーラさん。ランツァ様は、メルクリオの街でルキス様と会った時に一緒にいた紫色の髪の騎士で、今日は護衛として付き添ってくれている。
そして、私が目覚めた時に最初にお世話してくれた侍女キアーラさん。彼女は、イグナツィオ様の屋敷の数少ない侍女ということで、私の側付きとなった。
正直なところ、貴族籍を持つキアーラさんに側付きになってもらうなんて緊張以外の何ものでもないけれど、神紋者となった私の立場は上位貴族に位置するらしく、イグナツィオ様の屋敷でお世話になる間は、貴族階級の侍女が付くのは当然のことだと説明された。
そして、名前についても呼び捨てでいいと言われている。それはルキス様もランツァ様も同じで、イグナツィオ様以外は敬称なしで呼ぶように言われた。
今まで敬称付きで呼ぶのが当然だったから、急に呼び捨てするようにと言われても困惑しかない。口に出して呼ぶたびに、どこか背筋がこわばるような、違和感を覚えていた。
けれど、私が今後イグナツィオ様の庇護下で生活していく以上、受け入れていくべきことなのは理解している。
(今は、内心で敬称をつけているけれど、おいおい呼び方にも慣れていかないとね……)
馬車の中には沈黙が下り、車輪の揺れと、蹄の音だけが一定のリズムで流れていく。その静けさの中で、私はゆっくりと心の整理をつけていた。
イグナツィオ様の庇護下に入ることは、訪問の知らせと共に、既に旦那様たちへ伝えられている。それでもこうして訪問したのは、改めてその報告をするためと、私の荷物の受け取り、そして最後の挨拶をするためだった。
私は両手を膝の上に重ねたまま、ゆっくりと息を吐く。
(今日で、フィオルテ家の皆とお別れ……)
屋敷の門前に馬車が止まり、見慣れたフィオルテ家の門扉がゆっくりと開いていった。屋敷の姿が視界に入り、ここで過ごした日々がいくつも蘇ってくる。
屋敷の玄関前には、旦那様と奥様、お嬢様、そして見知った使用人たちが並び、私たちの到着を待っていた。
「着いたな」
ルキス様がそう言って立ち上がり、先に馬車を降りる。それにランツァ様、キアーラさんと続いて、最後に私が降りようとしたところで、ルキス様が手を差し伸べてくれた。
「足元に気をつけて」
「ありがとうございます」
その手をそっと取ると、体がふわりと軽く支えられる。支えることはあっても、こんな風に支えられることには慣れていない。
少しの気恥ずかしさとともに、掌に伝わる温もりが、より緊張を高める。
「アリーチェ!」
私が地面に足をつけると、甲高い声とともに、お嬢様が勢いよく駆け寄ってきた。そしてそのまま、飛びつくように私に抱きつく。
「よかった……本当によかった! 心配したんだから! ケガしたって聞いたけど、大丈夫? 痛くない?」
「心配かけてすみません。治していただいたので、もう大丈夫です」
「本当に? 無理してない? 顔色もまだ少し白い気がするわ」
「大丈夫です。ほら、ちゃんと元気でしょう?」
そう言って笑ってみせると、お嬢様の眉が少しだけ緩む。けれど、その腕の力はすぐには緩まず、私の背に回ったままだった。
心から案じてくれていたことが伝わってきて、胸の奥にじんわりとあたたかいものが広がった。
「ヴィオラ、そうしていては話ができないよ。まずは、中に入ろう。ルキス様、当家の者を助けていただき、ありがとうございました。どうぞ中へ。詳しい話はそちらでお聞きかせください」
旦那様の声が響き、お嬢様が名残惜しそうに腕を離す。そして、お嬢様やルキス様と共に、私は屋敷の中へと足を踏み入れた。
案内された応接室は夏の日差しが差し込み、見知った場所のはずなのに、今日は不思議と距離を感じた。
向かいのソファに旦那様たちが並び、私たちは反対側に腰を下ろす。各自の前にはほのかに甘い香りが漂う紅茶のカップが置かれていた。
ランツァ様とキアーラさんは壁側に控え、屋敷の使用人は人払いがされ、部屋の外に出ていた。
「……さて、アリーチェ」
旦那様が口を開き、空気が一段と引き締まる。いつもの穏やかな旦那様の声の奥に、わずかな緊張が滲んでいるのを感じた。
「今回は大変な目に遭ったそうだな。ひとまず、無事で何よりだった。ルキス様から大まかな概要は伺ったが、カーザエルラ公爵の公子の庇護を受けるというのは本当なのか?」
「はい……」
「それについては、私から説明しよう」
ルキス様が口を挟み、事前に打ち合わせしておいた“表向きの経緯”を話し始めた。
救出された際に魔力の反応が確認され、そこで初めて、自分に魔力が備わっていることを知ったこと。しかも、今回の誘拐がきっかけで神紋が発現し、神紋者としての保護対象となったこと。非常に稀だが、生まれながらではなく、後に神紋者となる者がいること。
魔力が原因で誘拐されたことや、禁術や短命といった複雑な事情は伏せたまま、ルキス様は大まかな説明をしていった。
旦那様も奥様も、驚いたように眉を上げる。お嬢様は、息をのんだまま私を見つめていた。
「神紋者……。まさか、そんな事例があるとは初めて知りました」
旦那様の言葉を耳にしながら、胸の奥が少し痛んだ。真実を隠すことは心苦しかったけれど、ここで全てを口にしてしまうと、皆を必要以上に心配させてしまうことになる。そのことを理解しながら、私はただ静かに頷いた。
「なるほど、そういう事情で殿下の庇護を受けることになったのですか。それであれば、これ以上の安心はありませんな」
「新たな神紋者が現れたということは、いずれ市井にも噂が広まるだろう。だがしばらくは、極力口外せぬよう、よろしく頼む」
「承りました」
ルキス様の言葉に、旦那様は深く頷いた。奥様も静かにうなずき、お嬢様は小さく唇を噛みしめていた。
「アリーチェ……本当に、もう屋敷を出てしまうの?」
お嬢様が少し掠れた声で尋ねる。
「はい。今日、荷物をまとめて、その足で屋敷を出ることになります」
「また、会える?」
お嬢様の顔には、寂しさと不安が広がっていた。
「……それは、私にも分かりません。約束できなくて、すみません」
「いいえ、アリーチェが謝ることではないわ。私のほうこそ我儘を言ってごめんなさい」
お嬢様が顔をくしゃりと歪ませた。努めて明るい声で答えたのが分かったけれど、私は何も言えなかった。
会えるなら、私もまた会いたいと思う。でも、神紋者である私と関わりのある商家ということで、どんな影響が及ぶか分からない以上、下手に直接的な関わりを持たない方が、お嬢様の身の安全でもあった。
「……ひとまず、話は一段落ですね」
重い空気を打ち破るように、奥様がそう言ってカップを置いた。
「アリーチェ、荷物の整理があるでしょう。荷物は自分でまとめますか? それとも誰か他の者に任せますか?」
「自分でまとめたいと思います」
私の返事に頷くと、奥様は呼び鈴を鳴らして、部屋の外に控えていた使用人を呼んだ。
「ゼータ、アリーチェの荷物の整理を手伝ってあげなさい」
「かしこまりました」
ゼータさんは返事をすると、私の方に視線を向けて小さく頷いた。
「少し荷物を片づけてきます」
私が立ち上がり、その場にいる皆に向けて声をかけると、キアーラさんとランツァ様が私に付き添うように後ろについて歩き出す。
「ああ、焦らずにゆっくり準備しておいで」
ルキス様の穏やかな声に送られながら、私は静かに応接室を後にした。
ゼータさんの先導で、私たちは廊下を進む。途中、すれ違う使用人たちの視線には心配の色がにじんでいた。
私はそのたびに笑みを浮かべ、小さく会釈をしながら歩を進める。
「アリーチェ、あなたが誘拐されたと聞いてとても心配したわ」
前を歩くゼータさんが、顔は前に向けたまま私に声をかけてきた。
「ご心配をおかけして、すみませんでした……」
「そんなことよりも、あなたが無事で本当に良かったわ」
そう言いながら、ゼータさんは少し振り返って穏やかに微笑んだ。
使用人用の扉から屋根裏へと続く階段を上っていくと、木の段板がきしみ、どこか懐かしい音がした。
「申し訳ありません。この先は使用人の居住になっていますので、少しばかり天井が低くなっております」
そう言って、ゼータさんが注意を促す。頭をぶつけるほど低いというわけではないけれど、背の高いランツァ様には少々窮屈に感じることだろう。
(私にとっては、どこよりも落ち着ける場所だったけれど……)
そう思うと、胸の奥が少し熱くなった。
私の部屋の前まで来ると、ゼータさんが扉を開けてくれた。
「荷物の整理はそちらの方が手伝われるのですよね? 私は部屋の前にいますから、片づけが終わったら声をかけてください」
「ありがとう、ゼータさん」
ゼータさんが一礼して後へ下がると、部屋の中には私とキアーラさんだけが入る。部屋は三人入るには狭いため、ランツァ様はそのまま廊下に控えた。
キアーラさんが最初に窓を開けると、開け放った窓から入る風が、閉め切った部屋の空気をやわらかく揺らす。
「必要なものをまとめてしまいましょう。手伝います」
「ありがとう。もうある程度は整理してあるから、すぐ終わると思います」
私は部屋に備え付けのクローゼットを開け、整えていた荷物を出していく。もともと旅立つ予定が近かったため、すでに服や日用品はある程度まとめていた。
残っているのは、本当に大切なものだけだ。擦り切れて傷のついたポシェットを手に取ると、革の感触を確かめるようにそれをそっと撫でる。故郷を出た時に持っていたものは、これとカバンしかもう残っていない。
故郷を離れた時に着ていたワンピースは孤児院に置いてきたし、チェロンさんからもらった革靴も小さくなり、ノエミの年の離れた弟に譲ってしまった。
ポシェットのほかには、ニンファの橙色のリボン、孤児院のシエナが作ってくれた木製の旅の守り札、初めてのお給金で買ったチェリーウッドの櫛、そしてレナート様からいただいた銀の文鎮。
故郷を出てからの思い出の日々が、胸の奥で小さな灯のように静かによみがえる。
「それは、大切なものなのですね」
「……ええ。どれも私の大切な思い出です」
微笑みながらキアーラさんに返事をすると、私はそれらを布に包み、カバンの中へ丁寧にしまった。
もともと多くを持たない身だから、荷作りはあっという間に終わる。衣類の大半と日用品の一部、借りていたメイド服を綺麗に畳み、ベッドの端にまとめた。
「ゼータさん」
私が廊下に声をかけると、ゼータさんが部屋へと顔を出した。
「こちらの私服はもう着ることがないので、欲しい人がいれば皆で分けてください。日用品も同様にお願いします」
「分かりました。きっと皆、喜ぶでしょう」
ゼータさんの言葉に、自然と微笑みがこぼれた。
シーツも外され、綺麗に片付けられた部屋を最後に見回す。鎧戸のついた窓やベッド、小さな机に壁際のクローゼット。
こぢんまりとした部屋だったけれど、ここで過ごした日々の思い出が詰まっていた。
(ありがとう……)
心の中でそう呟くと、軽く一礼をしてから私は部屋を後にした。




