10. たなびく煙
ニンファを見つけた日も、結局人を見つけることはなく、その日の夜も木の上で過ごした。前日も木の上で寝ていたから、翌朝起きたときには身体のあちこちがカチコチに固まっていた。おまけに、昨晩は獣の声が遠くに聞こえてきて、全体的に眠りが浅くなっていた……。
鳴き声が聞こえていた方向には、魔力溜まりがあるのかもしれない。感じる気配が、ティート村の森の奥深くで感じていた、ピリピリとした気配と似ている気がした。
私は進行方向右側に注意を払いながら、あくびを噛み殺してただひたすらに足を動かす。もちろん、早くこの場所を抜け出したい一心である。
小物の魔獣ならなんとかなるけれど、肉食の魔獣ともなれば私では太刀打ち出来ない。いざという時には、川に飛び込んで泳いで逃げるつもりだ。
ピリピリとした緊張感の中、一心不乱に歩き続けることさらに半日、私の視界にあるものが映る。
森の遥か左奥、木々の上に煙が立ち上っているのが見えたのだ。
「煙!」
森の中で自然に煙が立ち上る事はまずない。であれば、あの煙は人が営みをしている証のはず。私はずっとこれを探していた。
たまたま這い上がった場所が川の右手側だったけれど、森の様子から考えて、人が住むなら左手側だろうと予想を立てて、左手側の森が見渡しやすいこちら側をあえて歩き続けていたのだよね。他に、風向きなども考慮した結果だったけれど、一番の理由はやはり見つけやすさだった。
取り敢えず、煙が一番近くなる場所まで急いで向かう。
「これ以上は、流石に川を渡らないと駄目かな……」
歩けるところまで歩いたけれど、これ以上川下に行くと、煙から遠ざかってしまう。煙が上っているのは、川を挟んだまさに反対側だ。どうにかして川を渡らないといけないのだけれど、どうするべきか……。
見た感じ、川の深さはギリギリ歩いて渡れるくらいの深さに見えた。
「……覚悟を決めるしかないか」
再度念入りに周囲を確認すると、私は着ている物を全て脱いでいく。全て脱ぎ終えると、ワンピースの上に重ねて置いて一纏めに包み、落ちないように頭の上に乗せた。
そしてそのまま川岸まで近づいて、川の中に足を入れた。冷たい水が私の足首に触れた瞬間、つい先日流された時の恐怖が湧き上がってきてゾクリと身が震える。
私はきゅっと口を引き結んで対岸に視線を向け、覚悟を決めて一歩また一歩と川の中へと入っていった。
途中、深くなっている所で転びそうになったり、少し流されたりしながらも、少しずつ慎重に進む。左手で頭の上の荷物を押さえながらなので進みは遅いけれど、だんだんと対岸との距離が短くなる。川岸の草に手が触れた時は、心の底から安堵した。
足がつかない場合は、泳ぐ可能性も考えていたから、足がつく深さで本当に良かった。
「川はもう懲り懲りだよ……」
川岸に這い上がりながら、自然と心からの声が口をついて出ていた。渡った疲れよりも、精神的なダメージのほうが大きいね……。
とはいえ、ここでのんびりもしていられない。私は一纏めにしていた荷物を解くと、濡れた身体を軽く拭いて服と靴を身につける。腰に結んでいた小袋とリボンもちゃんと付け終えると、最後に、手頃な石をポシェットに詰めれば準備万端だ。
私は少しだけ上流に向かって歩き、おおよそ渡り始めた場所まで戻ると、太陽の位置を見て煙が上がっていた方向を確認する。
「後もう少し……、頑張れ私!」
私は石の入ったポシェットを肩に担ぐと、気合を入れて迷うことなく走り出した。
時々、足を止めて太陽の位置から方向が間違っていないことを確認したり、小休憩をしながら、私は走り続ける。
どれくらい走り続けただろうか、私の額には汗粒が浮かび、服は湿って肌に張り付く。自分の荒い息遣いが耳に響く中、私はかすかに鳴り響く甲高い音を聞いた。
――コーーン……コーーン
「……気のせいじゃ、ないよね?」
私は耳に手を当ててぐるりと周囲を確認する。多分だけど、どうやら音は私の進行方向から聞こえているみたい。人がいる場所へと近付いている実感が湧いてきて、走って早くなった鼓動が、ばくばくと一層激しさを増した。
私は止まっていた足を動かして、音の方向に向かって走り出す。
――コーン……
小走りだったのが次第に早くなり、最後は全速力で駆ける。途中、枯葉に足を滑らせ、根っこにつまずいても、そのまま止まらずに走り続け、走り抜けた先に人はいた。
粗い髭を生やした老年の男性。斧を使って木を切っていたのか、右手には斧を持ち、足元には切り倒された木が転がっている。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、長年の重みを感じさせる鋭い眼差しが私を射抜いた。
多分、私の走る音を聞いて手を止めたのだろう。息切れする呼吸をなんとか整えて、言葉を選びながら私は口を開く。
「あ、あの、この森の木こりの方でしょうか?」
「……あんたは?」
「私、上流で川に落ちて、流されてきたんです」
川があった方向を指さしながら説明すると、木こりのおじいさんは私を頭から爪先まで観察するようにじっと見つめる。
「川に落ちたのは三日前で、もう少し上流に流れ着いたのを、三日かけてここまで下ってきました」
「……そりゃ大変だったな」
眉間の皺をさらに深くすると、おじいさんはちょいちょいと手振りで私を呼んだ。私がおずおずと近付くと、自分の荷物の中から水袋を渡してくれる。
まだ呼吸が整っていない私を案じてくれたのだろう。全力疾走したから、喉がカラカラだったのだよね。私はお礼を言いながら受け取ると、むせないようにゆっくりと喉を潤す。
(ちゃんとしたお水……)
水の一滴一滴が、乾いていた身体に染み込んでいくみたい。今更ながら人に会えた嬉しさが湧いてきて、緊張の糸が切れたように地面に座り込んだ。
「本当に、人に会えて良かった……」
その事が本当に感慨深くて、しみじみ浸っていると、今度は目の前に干し肉が差し出される。もちろん、差し出してくれたのはおじいさんだ。
「ありがとうございます」
私は反射的に両手で干し肉を受け取ると、改めてそれをじっと眺める。
(これ、おじいさんの間食用だよね……?)
私は少し迷った後、受け取った干し肉を裂いて、半分を水袋と一緒におじいさんに差し出した。
「私は半分で十分です」
「…………子供が遠慮するな」
水袋だけが引き抜かれて、手には干し肉が残った。そのまま作業に戻る準備をしているのを見る限り、受け取ってくれそうにない。
私は改めてお礼を言うと、干し肉に齧りつく。しっかりと口の中で噛んで、味わってから飲み込む。
久しぶりに食べるお肉は本当に美味しくて、思わず「くぅぅ」と感動の声が口から漏れた。夢中で食べ続け、気付けば私の手は空っぽになっていた。
(いや、ほら、この三日間は少しの木の実と果実しか食べてなかったから……)
誰にともなく心の中で言い訳をしていると、おじいさんの憐れみに満ちた眼差しと目が合った。
うう、半分でいいとか言っておきながら、あっという間に完食してしまった。あまりの食いつき具合に恥ずかしくなってくる……。
「あっ、自己紹介が遅くなってすみません。私の名前はアリーチェです」
ちゃんと挨拶していなかったことに気づいた私が、話題を変えるついでに自己紹介をすると、「わしはドンテ、炭焼きだ」とおじいさんも挨拶を返してくれた。
木こりだと思っていたけれど、ドンテさんは木炭職人だったみたい。では、切られて転がっている木は炭焼き用ということだね。
「少し待て、後で連れていく」
ドンテさんは私にそう言うと、背を向けて手斧を持って作業を再開した。さっきの言葉は、作業が終わったら村に連れていく、ということだよね? 連れて行ってくれると言うのなら、私に異論はない。
黙々と作業をするドンテさんの邪魔にならないように、私は少し離れた木の根元に腰を下ろし、ドンテさんの作業の様子を遠目で眺めた。
それにしても、村の猟師のチェロンさんもそうだけど、森で仕事をする人って無駄口を言わない人が多いよね。まあ、森の女神は静かなる隣人を好むって言われているから、自然とそうなるのかも。
……ア……チェ
「アリーチェ」
「っはひっ!」
呼び起こされ、一瞬のうちに意識が覚醒する。混乱状態の私の前に、ドンテさんが顔を覗かせた。どうやら響き渡る斧の音が心地よくて、そのまま寝てしまっていたらしい。
周りを見渡すと、作業していた木は綺麗に切り揃えられ、少し離れた所に積み上げられていた。
「起きたか」
「ごめんなさい、すっかり寝入ってました」
太陽はだいぶ傾き、もう少ししたら森の中に夕日が届きそうな頃合いになっていた。
「歩けるか?」
「はい、一眠りしたお陰ですっかり元気になりました」
ドンテさんは私の返事に頷くと、自分の荷物を背負い、帰る準備を始めた。私は勢いよく立ち上がると、お尻の後ろをぱたぱたと手ではたく。
「少し歩く」
「森歩きは慣れてるので、へっちゃらです」
私を気遣うように振り返ったドンテさんに笑顔を向けて、私はドンテさんの背中を追って歩き出した。
大海で木片に出会えたアリーチェでした。