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【第三部】黒瞳少女は帰りたい 〜独りぼっちになった私は、故郷を目指して奮闘します〜  作者: 笛乃 まつみ
第七章 光の騎士

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107. 庇護の契り

「ルキス……」


 殿下の低い声がルキス様を呼び、室内の空気がわずかに張り詰める。その一言には、どこか諫めるような響きがあった。

 ルキス様はピクリと肩を動かすと、すぐに立ち上がり姿勢を正した。


「差し出口を挟み、すみませんでした。ですが、アリーチェだけでなく殿下にとっても意義のある提案だと思っています」


 そう言ってルキス様は軽く頭を下げ、再び殿下の後ろに戻った。

 私は先ほどのルキス様の言葉を思い出しながら、頬に残る涙を手の甲で拭った。


(そうだ、まだ最悪ではない……)


 牢に入れられるわけでも、私の意思を無視して酷い扱いを受けるわけでもない。

 限られた命になったとしても、私はまだ生きている。――選べる道が、私にはある。


「先ほどルキス様がおっしゃっていましたが、殿下は私の後ろ盾になることについて、どのようにお考えなのでしょうか?」


 殿下は一瞬だけ思案するように目を伏せ、それから穏やかな声で答えた。


「神紋者である其方が私の後ろ盾を望むのであれば、私に否はない。ただ、それを決めるのは私の話を聞いてから判断した方がいいだろう」

「殿下のお話とは……?」

「其方は私のことをどこまで聞いているか知らないが、私の立場は少々複雑だ。私はカーザエルラ公爵である父上の第一子だが、私の母は側妻である。正妻である公爵夫人を母に持つ第二子と第三子がいるが、少しばかり事情があり、今現在、公爵家の後継者は決まっていないのが実情だ」


(……噂は本当だったんだ)


 胸の奥に小さな波紋が広がる。あくまで噂話として耳にしていたけれど、殿下が庶子であるということは本当だったらしい。殿下が抱える出自の重さを思うと、複雑な気持ちになった。

 それにしても、後継者が決まっていないというのは、平民の間では聞いたことがない。


(確か、第二子は息子で、第三子は娘だったはず……)


 普通なら正妻の子である第二子が跡を継ぐことになりそうなのに、決まっていないということは、複雑な事情があるのだろう。

 いずれにせよ、殿下の存在が公爵家の中で火種になっていることは、平民の私にも察せられた。


「私が後ろ盾になれば、其方は私の陣営として見られることになる。私の存在を快く思っていない公爵夫人に目をつけられるのは、まず間違いないだろう。もし水の州に残ることを考えているなら、私ではなく公爵夫人に後ろ盾を頼んだほうが平穏に過ごせるはずだ」


(それはつまり、殿下に後ろ盾を頼めば、否応なく公爵家の後継者争いに巻き込まれるということか……)


 私はごくりと息を呑む。ルキス様が「殿下にとっても意義がある」と言ったのは、私を庇護することで、殿下の立場を強められるという意味があったのだろう。

 それを包み隠すことなく話してくれたことに、私は殿下に誠実さを感じた。


 殿下が言うように、公爵夫人に後ろ盾を頼めば、何不自由なく平穏に過ごせるかもしれない。

 けれど、それは同時に殿下と敵対する陣営に属することを意味する。貴族の争いなんて自分には関係ないと言いたいけれど、庇護を受ける立場になれば、私も無関係ではいられないだろう。

 ルキス様が殿下の騎士である以上、殿下の敵になるようなことは絶対に避けたかった。


「公爵夫人ではなく……公爵ご自身に後ろ盾を頼むことはできないのでしょうか?」


 ほんの僅かな期待を込めて尋ねると、殿下はわずかに目を伏せ、低く息を吐いた。


「父上は今、体調を崩されている。ここ数年は政務からも遠ざかっており、実質的に公爵夫人が州政のすべてを取り仕切っている状態だ。ゆえに、父上に庇護を求めるというのは、即ち公爵夫人に庇護を求めるのと同義になる」


 やはり、そう上手くはいかないらしい。私は小さくうなずき、少し考え込んだ。


「では、中立の方にお願いはできませんか?」

「……中立を保つ貴族も確かにいる。しかし、神紋者の後ろ盾を務められるほどの強固な立場を持つ者はいない。中立の貴族に庇護を頼んだつもりが、気づけば公爵夫人の派閥に取り込まれていた――という結果になるのが目に見えている」


(つまり、公爵夫人の圧力を跳ねのけられるだけの力がなければ、結局は中立の立場を貫けずに、私ごと取り込まれるということか……)


 自分の立場が思っていた以上に重く、危ういものであることを実感して、胸の奥がひやりと冷たくなった。深く思考に沈む私をよそに、殿下は言葉を続ける。


「中立というのであれば、神殿に後ろ盾を頼むという道もある。ただし、神殿は政治的な影響こそ少ないが、貴族を頼るのとは異なり、いくつかの制約がある。神紋者としての意思はある程度尊重されるだろうが、神殿に属する以上、神殿の方針に沿って動くことを求められるだろう」


 政治の道具にはされないが、神殿の規律には従う必要があり、自分の意志を貫けるとは限らないということか……。

 神殿は神紋者を特別扱いするのかと思ったけれど、思っていたのとはどうやら少し違うみたい。

 もしかしたら、神聖視するあまり、“神の寵児はこうあるべき”という枠にはめられるのだろうか?


「もし……仮に、水の州を出て、火の州公や王族の後ろ盾を望むのであれば、口利きすることも可能だ。いずれも快く受け入れられることは間違いないだろう。水の州に残るか、それとも他の州へ行くか……よく考えて結論を出すといい」


(火の州公や、王族……)


 生まれ育った火の州に戻れるのは魅力的だけれど、同時に、それは危険を伴う賭けでもある。

 貴族社会にはどこにでも派閥争いがあるだろうし、他の州の情報が乏しい今の私では、どの陣営が安全なのか見極めることすら難しいだろう。ただでさえ時間が限られているのに、後ろ盾を選ぶ前から時間を無為に過ごすのは避けたい。

 胸の奥で静かに息を吐きながら、私は俯いた。


(もし、水の州に残るなら……)


 ここに残るとしても、公爵夫人の庇護を受けることはできない。残る選択肢は、殿下か神殿か……。

 私は州立学院で魔術を学び、いずれ故郷へ帰ることを第一に考えている。神殿の庇護下に入れば、きっと学院への入学やその後の行動にも制限がかかるだろう。

 もちろん、神紋者の意思を押し通して故郷に戻ることはできるだろうけれど、最初から方針に従わないことが分かった上で神殿を選ぶのは、不誠実だと思う。


(であれば……)


 目の前に広がる選択肢をひとつずつ頭の中で整理し、私は手のひらをそっと握りしめた。そして、少し間を置いて、私は気になっていた疑問を口にする。


「一つお聞きしたいのですが……誘拐犯の拠点を襲撃した際、実際に中心となって動かれたのは、どなたなのでしょうか?」


 殿下はわずかに表情を引き締め、静かに答えた。


「ルキスをはじめとした私の部下が中心となって動いた。とはいえ、制圧に必要な人員が不足していたため、第一騎士団に応援を依頼した次第だ」

「……そうでしたか」


 やはり……おそらくそうだろうと思っていたけれど、あの夜、私が助けられたのは、ルキス様たちが動いてくれたからだったのだね。

 私に恩を売るために嘘をついている可能性がないとは言えないけれど、殿下の声音や表情から、それが真実であると直感的に感じた。

 そしてそれと同時に、「どうして、あの拠点の場所が分かったのだろう」と小さな疑問が脳裏をかすめた。けれど、私はすぐにその思考を振り払う。


(どんな形であれ、私がこうして無事でいられるのは、ルキス様たちが救い出してくれたことに、変わりはないのだから……)


 私は姿勢を正し、改めて殿下とルキス様の方へ向き直る。お腹の前で静かに手を重ね、深く頭を下げた。


「私が今、ここにこうしていられるのは、ルキス様をはじめ、殿下のお力添えのおかげです。改めて……本当にありがとうございました」


 頭を上げると、ルキス様がじっと私を見つめていた。その顔は、何かを噛みしめるように小さく歪んでいて、感謝を伝えたはずなのに、なぜか胸がちくりと痛んだ。


 気持ちはもうほぼ決まっていたけれど、最後にひとつどうしても確かめておかないといけないことがある。


「失礼を承知でお聞きするのですが、公爵家の後継者について、殿下はどのようにお考えなのでしょうか?」


 その問いに、殿下の瞳がわずかに細められる。もともと穏やかで厳かな印象のある方だけれど、その一瞬で部屋の空気が変わった。

 重みを帯びた静けさが、部屋全体を包み込む。


「私は、あくまで父の決定に従うだけだ」


 淡々とした口調だったけれど、澄んだ青い瞳の奥――静かな湖面の下に、凍てつくような強い意志が息づいているのを感じた。

 「従うだけ」とは言っていたけれど、ただ黙って結末を見守るつもりはないのだろう。

 その瞳に宿っていたのは、諦めではなく覚悟。きっとこの人もまた、自身の置かれた立場の中で戦っているのだ。


「失礼な質問に答えていただき、ありがとうございました」

「いや、気にしなくていい。其方が不安に思うのは当然だ」


 先ほどまでの重さは霧散し、殿下の声は穏やかさを取り戻した。私はまっすぐにその瞳を見つめながら、胸の奥でそっと息を吐いた。


 もし、殿下が跡目争いを望んでいないのなら、火の州での庇護を望もうと思っていた。けれど……おそらく殿下は違う。

 自分の意志で後継者を目指し、公爵夫人と対立しているのだろう。

 私が庇護下に入ることで、殿下の権勢が変わるのだとしたら、これからお世話になることへのお返しであり、助けられた恩へのささやかなお礼にもなるだろう。


(庇護下に入れば、私のことで様々な経費も発生するだろうから、その分も役に立たないとね……)


 その程度の経費は、殿下からしたら取るに足りないものかもしれないけれど、一方的にお世話になるというのは、やはり気が引ける。

 お世話になるのなら、私もそれに見合うだけの何かを示すべきだろう。


 私は静かに息を吸い、胸の奥で新たな道を選び取る。その瞬間、心の内に熱が灯るのを感じた。


「話を伺って、私なりに考えました。……もし殿下さえよければ、殿下に後ろ盾をお願いしたく思います」


 殿下は一瞬動きを止めると、短く息を吐き、静かに私を見据えて問い返した。


「……本当にいいのだな。私の庇護下に入れば、其方の立場は利用されることにもなる。下手をすれば、攻撃の対象となるかもしれない」

「承知の上です。その代わり、私も遠慮なくお世話にならせてもらいます。学院に入り、故郷に戻るための力を得るためにも、どうかお力添えをお願いします」


 その言葉に、殿下の唇がわずかに緩む。悠然に満ちた微笑の中に、どこか影を帯びた色があった。


「ああ、全力で助力しよう。……それと、私のことはイグナツィオと呼ぶように」

「はい……ありがとうございます、イグナツィオ様」


 運命に導かれるように、私はまた一歩、次の道へと足を踏み出した。


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