106. 闇の女神の印
長い沈黙のあと、殿下は静かに首を振った。
「そんなことにはならない。経緯はどうあれ、其方が神紋者であることは事実だ」
殿下の落ち着いた声色に、張り詰めた緊張がわずかに揺らいだけれど、安堵よりも不安のほうがまだ強くて、私は思わず懐疑的な眼差しを殿下に向けた。
罪人にはならないと言われても、禁術によって神の印を刻まれた事実が消えるわけではないのだから……。
「ですが……禁術を使用することは、法で禁止されていると……」
私が問いかけると、殿下は静かなまなざしで私を見つめた。
「術を施される側への罰則はない。命を落とせば罪には問えぬし、生き残れば――すなわち神紋者だ。人の身で神紋者を罰することはできない」
“人の身で罰することはできない”――その言葉が、妙に遠くで響いた。それは、私が人の理から外れたという意味なのだろうか……。
息が詰まり、胸の奥に何とも言えない痛みが走る。
「その神紋者が……人の手によって創られた、紛い物でもですか?」
思わず口から漏れた言葉に、殿下は微かに首を傾ける。
「其方はひとつ勘違いしているようだ。其方が施された禁術は、正確に言うと“人を神紋者にするための術”ではない。神の審問を受けるための儀式だ」
「神の……審問?」
「ああ。寵愛を受けるにふさわしいと判断されれば、神はその証として神紋を授ける。相応しくなければ、死を賜る。先程、経緯がどうあれと言ったのは、儀式により神紋者となった者でも、神によって選ばれたということに相違ないからだ。それは、生まれながらの神紋者と同等の存在であることを意味する」
私は、殿下の言葉をすぐには理解できなかった。“神に選ばれた”――そんな大それた言葉を自分に向けられても、現実味なんてない。
私の記憶にあるのは、痛みと恐怖と、どうしようもない絶望だけだったのだから……。
それでも、少なくとも私は牢屋に入れられることはない――そのことが分かって、ほっと安堵の息が漏れた。
「上手く状況は飲み込めませんが……罪人として裁かれることはないと分かって、安心しました。では、私はどのように扱われるのでしょうか? お世話になっているフィオルテ家に、私は戻れますか?」
誘拐されてから、もう丸二日が経っている。屋敷の皆も、商会の人たちも心配しているはず。お嬢様の心配そうな顔が浮かんで、一刻も早く戻らなくてはという焦りが込み上げた。
「……どのように扱われるかは我らも測りかねているところだが、神紋者の意思を妨げることは、暗黙の決まりとして禁じられている。王族ですら、神紋者に何かを強制させることはできない。そのため、其方がフィオルテ家に戻りたいというのなら、何人もそれを邪魔することはできない」
予想していなかった言葉に、私は目を見開く。罪人にはならなかったけれど、何かしらの制限がかかるのかと警戒していた。
まさか、神紋者の意思を妨げることが禁じられているなんて、知らなかった……。
ほっと安堵したのも束の間、殿下が一拍の間を置いて「ただ……」と言葉を重ねる。わずかに低くなった殿下の声色に、私は再び警戒を強めた。
「其方が救出された時、私の部下とともに第一騎士団の騎士が胸に刻まれた神紋を目にしている。すぐに隠し、口止めも行ったが……完全に情報を封じ込めることはできないだろう」
「……」
神紋を見た人が他にもいる……? 告げられた言葉に、背中に嫌な汗が滲む。それを殿下がわざわざ口にするということは、おそらく私にとって都合の悪いことなのだろう。
「暗黙の決まりがあるため、神紋者を率先して政治利用することは難しいが、庇護下に置くことで権勢を強めることは可能だ。その為、神紋者である其方に接触を試みる者も現れるだろう。そして当然ながら、後天的な神紋者である其方を侮り、暴挙に及ぶ者が出ることも十分に考えられる。何の備えもなくフィオルテ家へ戻れば、屋敷の者たちを危険に晒す可能性があることを理解しておいてほしい」
お嬢様たちの身に危険が……それを想像すると、血の気が引くのを感じた。
夏の終わりに屋敷を離れる予定だったけれど、私がいることで周りの人が危険になるのなら、予定を早めてここを立ったほうがいいのかもしれない。
「其方が火の州の生まれであることは聞いている。まもなくここを立つのだろう?」
まるで私の胸の内を見透かすように、殿下が問いかけてきた。
殿下が私の出身を知っていることに少し驚いたけれど、ルキス様が私の事情を話したのだろう。
「はい、夏の終わりに出立する予定です。ですが……フィオルテ家に迷惑がかかるようであれば、出立を早めることを考えていました」
客船の予約の問題はあるけれど、事情を話せば旦那様のつてで早めることも可能だろう。旅立ちが早まるのは寂しいけれど、お世話になったお嬢様や旦那様、屋敷の皆を危険に巻き込むことは、絶対に避けたい。
けれど、そんな私の思いを軽く吹き消すように、殿下の口から驚きの言葉が告げられた。
「……故郷に帰ったとしても、周りに危険が及ぶ可能性がなくなることはないだろう」
その言葉の意味がすぐには理解できず、私は思わず「……え?」と聞き返す。
殿下は組んでいた指をほどき、静かな眼差しを私に向けた。
「其方の故郷が火の州であることを知っている人間は、どれほどいる? ルキス以外、誰一人として知らぬのか?」
「それは……」
私は言葉を濁しながら考える。出身が火の州であることは、屋敷の使用人や商会の従業員には普通に話していた。
「火の州が出身であることを知る人は、それなりにいると思います。ですが……故郷の村の名前まで知っている人は、かなり限られています」
“ティート村”という村の名まで話したのは、これまでではお嬢様だけだ。お嬢様に秘密にしてもらうよう頼めば、他に漏れることはないはず。
殿下は私の様子を静かに見つめたまま、わずかに眉を寄せた。
「出身が火の州であることが分かっていれば、故郷の村まで割り出すことはそれほど難しいことではない。名前と年齢、特徴が分かれば、調べる方法はいくらでもある」
「他の州に移った者を、そこまでして調べるものなのでしょうか……?」
思わずこぼれた私の呟きに、殿下は即座に否定することも肯定することもせず、軽く目を伏せたまま言葉を続けた。
「新たな神紋者が現れたことが広まれば、それだけの労力を割いてでも探されると思っておいたほうがいいだろう。もちろん、すぐに居場所が割れるというわけではない。だが、いずれは見つかる……という話だ」
殿下の言葉に、じわじわと足元の地面が崩れ落ちていくような感覚に襲われる。確信には触れないまま、逃げ道を少しずつ塞がれていくような……そんな息苦しさを覚えた。
「では……州都を出立したとしても、私が故郷に戻る頃には、既に私の居場所が知られているかもしれない、ということですね。では……私はどこへ行けばいいのでしょうか? フィオルテ家にも、故郷にも戻れないのなら……」
問いかけながら、胸の奥がずきりと痛んだ。故郷に帰るという目標があったからこそ、今まで必死で頑張ってこられたのに……。
(今、その道が閉ざされようとしている……)
感情が激しく揺れる中、それでも冷静に殿下の返答を見守ろうと努める。
そんな私の考えを見透かしたように、殿下は思いがけない言葉を口にした。
「もし、話を聞いた上で故郷に戻りたいと思うのであれば、私の方で故郷に戻れるよう手を尽くすつもりだ。空を行けば、数日とかからず辿り着けるだろう。故郷に戻る気があるのならば、ここを立つのは早ければ早い方が良いだろう」
(空……?)
一瞬、言葉の意味が結びつかず、思考が止まる。けれどすぐに、騎士団の中には空を駆ける魔獣に騎乗する者もいることを思い出した。
(まさか、それで私を送ってくれると? でも、どうしてそこまで……?)
疑問の答えが浮かぶ間もなく、殿下の声がそれをかき消した。
「……決断する前に、もう一つ伝えておかなければならないことがある」
胸の奥がざわつく。これ以上、まだ何かあるのだろうか……。
殿下はわずかに視線を落とし、低い声で続けた。
「後天的に神紋者になった者の情報は、極めて少ない。ここ水の州で正確に記録されているのは、わずか二件のみだ。禁術によるものゆえ、基本的に表舞台に姿を現すことがない」
殿下の言葉に胸の奥がひやりと冷える。
秘密裏に禁術を施される以上、たとえ生き延びたとしても、そのまま日の当たらぬ場所でひっそりと生を終える者がほとんど――そう告げられた気がした。
私も助け出されなければ、あの男のもとで実験の道具として飼い殺されていたのだろうか……。
「だが、少ない情報の中でも確かな事実が一つある。神の審問を受けるための儀式には、大きな代償を伴うということ。それは命であり、寿命だ。後天的に神紋者となった者は、総じて短命になる」
その一言が落ちた瞬間、心臓がどくりと大きく鳴った。殿下の言葉が、重く、ゆっくりと体の奥に沈んでいく。
(それは、一体――)
殿下は感情を映さないまなざしで私を見つめ、ルキス様は何かをこらえるように眉を寄せる。唇がきつく結ばれたルキス様の表情は、殿下の言葉が真実であることを語っていた。
「残された時間は、神紋者となった時の年齢に影響するといわれている。水の州に記録されているものでは、八歳の子供が神紋者となった時は十六歳で、四十を過ぎた男の時は、ひと月とたたずに命を落としたそうだ」
――がつん、と頭を殴られたような衝撃が走る。
殿下の声が遠のき、心臓の音だけがやけに鮮明に響いていた。
「其方は今、十三歳だと聞いている。おそらく、残された時間はそう長くはないと思われる。三年か四年、あるいは長くて五年ほどか……。その事実を受け入れた上で、これからの道を選んでほしい。故郷に戻るのか、それとも――」
何を言われているのか、理解できなかった。
(後天的な神紋者は短命?)
(私の残された時間は、あと三年か、四年?)
(それを過ぎたら――私は死ぬ?)
喉の奥がからからに乾いて、息がうまく吸えない。無意識に握りしめていたシーツから手を離し、私は震える両の手のひらを見つめる。
皮膚の下を温かい血が流れ、どくどくと脈打っているのを感じた。
(こんなにも、ちゃんと生きているのに、あと数年で全て終わる……?)
足元ががらがらと崩れ落ちていく。
今まで故郷に帰るために頑張ってきた日々が一瞬で意味を失い、胸の奥が空っぽになるのを感じた。
――ぽたり
音もなく雫が落ちた。
それが涙だと認識したのは、二粒目が手のひらを濡らした時だった。
悲しいのか、苦しいのかも分からない。ただ、全てが遠く感じられて、音さえも失われたような静けさの中、空虚と絶望が私を満たしていく。
(故郷にも、フィオルテ家にも戻れない)
(私は……この先どうすればいい?)
(何かを頑張ったとしても、数年後には全てが終わるのに……?)
声も出せずに、涙だけが次々と溢れ、手のひらに、シーツに滲んでいく。
(ああ、そうだ……故郷に戻ろう……)
ふと、心の奥からそんな考えが浮かんだ。それが一番簡単で、一番楽な方法。
故郷に帰って、約束を果たす。そして、私がいることで危険が及ぶのなら、そのまま消えてしまえばいい。
どうせ数年後には散る命だ。たとえそれが少し早まったとしても――
「アリーチェ!!」
必死の叫びが思考を砕き、びくりと肩が跳ねた。はっと顔を上げると、ルキス様が顔を歪め、まるで私の胸の内を受け取ったような痛ましい表情をしていた。
(しまった……)
感情を読めるルキス様が目の前にいることを失念して、あんなことを考えてしまった……。
「さっき、周囲への危険を示唆したが、それは今のまま戻ったらということだ。アリーチェさえ良ければ、イグナツィオ様に後ろ盾を頼まないか? そうすれば、ある程度は他の貴族への牽制ができる」
殿下の後ろ盾。それがどれほどの力を持つかは分からないけれど、それはあくまで州都に限られた庇護にすぎない。火の州へ戻れば、その庇護は届かないだろう。
そんな私の考えを見抜くように、ルキス様が懸命に言葉を重ねる。
「与えられる庇護以上に、自分や周りの人間を守りたいと思うなら、アリーチェ自身が力をつけなければならない」
「……私自身が、力をつける?」
「ああ、そうだ。神紋者となった君は、膨大な魔力を持っているはずだ。だが、今のままではそれを使いこなせない。学院に入り、魔術を学べば、自分だけでなく、周りの人間も守れる力を得られる。今よりずっと、自分の居場所を選べるようになるはずだ」
学院……。魔術師になるのであれば、州立学院で学ぶことになるのは知っているけれど、庇護を受けて私がそこに入る? 魔術を学べば……本当に故郷に帰れる?
「魔術を学べば、故郷に戻っても……危険はないのですか?」
「それは君次第だ。神紋者の潜在能力は、魔術師として頂点にあると言っても過言ではない。君が力を高めれば、家族を守るくらい、それほど難しいことではないだろう」
ルキス様の言葉が胸の奥にゆっくりと沁みていく。
もしそうだとしても、その道は遠回りで、決して平坦なものではないだろう。けれど、すべてを諦めて消えるよりは、ずっと“私らしい”選択だと思えた。
私の瞳に、少しずつ光が戻っていくのがわかる。
ルキス様はその変化を感じ取ったのか、ほっとしたように表情を和らげると、ベッドの傍らに膝をついた。
突然の行動に戸惑う私をよそに、私よりも低い位置になったルキス様の金の瞳が、まっすぐに私を見つめる。
かつて、メルクリオの裏路地で私に声をかけてくれた時と同じように――その瞳には、迷いのない真摯な光が宿っていた。
「もしアリーチェがイグナツィオ様の後ろ盾を得るなら、私は持てる力で君を助けると誓う。もちろん、私はイグナツィオ様の騎士だから、最優先はあの方だが……その次に、君を守ると約束する」
その不器用で真っ直ぐな言葉に、思わずぽかんと口を開ける。
さっきまで私を満たしていた絶望と空虚が、瞬く間に溶け消え、涙で濡れた頬だけが残った。
そして、その頬にもゆるりと笑みが戻る。
「なんとも締まらない誓い文句ですね。でも……すごくルキス様らしいです」
私は破顔すると、くすくすと声を上げて笑う。それを見つめるルキス様もまた、口元を緩めて小さく笑った。
その笑みは、あの時と同じように、絶望の淵に沈んでいた私の心を、再び温かく照らしてくれていた。




