105. 禁術の証
ルキス様の顔を見た瞬間、胸の奥からじわりと熱いものが込み上げてきた。
(助かったんだ……本当に)
頭では理解していたけれど、ようやく実感がふつふつと湧き上がってきて、視界が滲む。このままでは涙が零れてしまう、そう思って慌てて顔を伏せた。
その時、ふと黒いものが視界の端に映った。胸元のあたり――寝衣の襟ぐりの内側に、何やら見慣れない黒い影が見えた。
私は不思議に思い、指先を襟に引っ掛けて覗き込もうとした、その瞬間――
「アリーチェ!」
ルキス様の切迫した声が飛んだ。思わず顔を上げると、彼は片手を上げて、何かを制するような仕草をしていて、その表情には焦りの色が浮かび上がっていた。
「……?」
私は小首を傾げ、そしてはっと気づいた。
(あっ、そうか)
今の私は寝衣姿である。いくら私がまだ子供っぽい体つきだとしても、もう十三歳。さすがに胸元を広げるような行動は、はしたないよね。
おそらく、ルキス様はそれを注意しようとして言葉を選びあぐねていたのだろう。改めて考えると、迂闊な行動に羞恥が湧いてきて、頬がじわりと熱くなる。
(……あとで一人になったときに、確認したらいいよね)
自分にそう言い聞かせたところで、部屋の中に小さな咳払いが響いた。我に返ってそちらに視線を向けると、ルキス様の後ろに数人の気配があることに気づいた。
そのうちの一人と目が合った瞬間、私はぎくりと身体を強張らせる。
涼やかな薄青色の髪に、アイスブルーの瞳、すっと鼻筋の通った面立ち。静かながらも威厳をたたえた青年――イグナツィオ殿下がこちらを見つめていた。
「どうやら無事に見つかったようだな」
殿下は落ち着いた声音で言うと、隣に控えていた女性に視線を向けた。
「キアーラ、ランツァたちに異常がなかったことを伝えてきてくれ」
「かしこまりました」
緑青色の髪の女性――キアーラと呼ばれた女性が一礼し、音もなく部屋を後にした。
殿下を前にしたことで先程までとは違う緊張が走り、私は無意識に寝衣の端をぎゅっと握りしめる。
(まさか、殿下がいらっしゃるなんて……)
私が突然のことに混乱していると、ルキス様が一歩身を引き、私の前を開けた。
「アリーチェ。知っていると思うが、イグナツィオ・カーザエルラ様だ。カーザエルラ公爵の公子でいらっしゃる」
紹介を受け、私は慌てて姿勢を正して深く頭を下げた。上の立場の人が声を掛けるまで、下の者は自ら発言しない礼節を思い出しながら、私は口を閉ざしたまま静かに礼の姿勢を保つ。
「そう、かしこまらなくていい」
殿下は柔らかく言葉をかけながら、私の方へ歩み寄った。
「アリーチェというそうだな。其方の話はルキスから聞いている。メルクリオの街で見かけたあの少女とは、随分と数奇な巡り合わせだな」
確かに、あの街の片隅で交わしたほんの僅かな縁が複雑に結ばれ、ルキス様だけでなく、まさかこんな形で殿下とまで会話を交わすことになるなんて思ってもみなかった。
「少し其方に伝えなければいけないことがある。悪いが、少し付き合ってもらえるだろうか」
「かしこまりました」と答えようとした瞬間、喉が張りついたように詰まり、思わず咳き込んでしまった。
「アリーチェ!」
ルキス様が驚いたように私の顔を覗き込む。心配そうなその眼差しに、咳き込みながらも思わず小さく笑みが漏れる。
「大丈夫です。目覚めたばかりだったので、少し喉がつっかえただけです」
「すまない……、目覚めたばかりだというのに無理をさせた」
ルキス様は申し訳なさそうに眉を下げ、すぐに殿下へ視線を向けた。
「話はアリーチェが落ち着いてからでいいでしょうか。彼女は二日も意識がなかったため、先に何か口にしてからの方がいいと思います」
「ああ、それでいい」
(……え?)
思わず目を瞬く。窓の外が夜のままだから深夜かと思っていたけれど、まさか翌々日の夜だったとは。
つまり、私は丸二日近く眠り続けていたということか……。
(それにしても、ルキス様の様子がどこかおかしい。少し過敏になっているというか……)
殿下が話をしたいとおっしゃっているのに、「落ち着いてから」だなんて、そんな悠長なことをするわけには……。
そう心の中で思いながら、私は提案したルキス様と、それを了承した殿下の顔を思わず見比べてしまう。
「すぐ用意するから、アリーチェはそれまでベッドで休んでいてくれ」
ルキス様は穏やかな声でそう言うと、私から少し離れ、何か小さく呟いた後、片手を軽く上げた。
不思議そうにその様子を見ていると、ルキス様の指先が淡く光り、空中にきらめく光の線が浮かび上がった。
(魔術だ……!)
私は思わず息を呑む。こんなに間近で魔術を見るのは初めてで、私は興奮しながら、つぶさにその様子を観察した。
ルキス様の指先の軌跡に合わせて、光の線が空中に滑らかに文字を描かれていく。ルキス様が最後の一筆を走らせ、光の文字を四角く囲むように指でなぞると――ふっと、光が集まって形を変えた。
魅入られるように眩い光を見ていると、小さな小鳥の姿になったそれは、ぱたぱたと羽ばたいて宙を舞う。
そして、空中に瞬くような光の残滓をきらめかせながら、壁をすり抜けるように飛び去っていった。
(すごい……、魔術ってこんなふうに使うんだ……)
夢のような光景から現実に戻ると、いつの間にかルキス様がこちらを見ていた。「まだ休んでいなかったのか」と言わんばかりの視線に気づき、私は慌ててベッドの中へ戻る。
私がベッドに身を沈めるのを確認すると、ルキス様は部屋に置かれた銀の水差しを手に取り、同じく置かれていた透明なグラスに静かに水を注いだ。そして、それを持ってベッドの脇へと歩み寄る。
「アリーチェ、ひとまず水をどうぞ」
「ありがとうございます」
両手で受け取り、一気に喉へと流し込む。ひんやりと冷たい水が喉を滑り落ちていく感覚が、思っていた以上に心地よかった。乾き切っていた身体に、水がじんわりと染み渡っていくのが分かる。
最後の一滴まで飲み干すと、私はグラスを握ったまま、ふぅと長い息を吐いた。
水も飲んで落ち着いたし、そろそろ話が始まるのかなと思っていたところで、コンコンと扉がノックされた。
すぐさまルキス様が動いて扉を開ける。入ってきたのは、先ほど部屋を出ていった女性――キアーラさんだった。
彼女はワゴンを押しており、その上には湯気を立てるスープや柔らかそうな白パン、彩りの良い果物などの軽い食事とティーセットが整然と並べられていた。
(け、軽食……?)
思わず目を瞬かせながら、殿下やルキス様を見回す。彼女は私の前に足の低いテーブルを設置し、慣れた手つきで次々と食事を並べていった。
香ばしいスープの匂いがふわりと広がり、胃のあたりがきゅうっと絞り上がる。
「あの……手厚い対応に感謝申し上げます。ですが、お話があるとのことでしたので、そちらを優先していただいて大丈夫です。先ほど水もいただきましたし……」
殿下を待たせたまま食事を取るなんて、さすがに失礼が過ぎる。そう思って言葉を重ねようとした瞬間、殿下の静かな声がそれを遮った。
「先に食事を取ってもらって構わない。今はそちらを優先させなさい」
穏やかでありながら、有無を言わせない殿下の声色に、私は一瞬言葉に詰まる。それでも軽食を断って話を聞くべきか、素直に従って食べるべきか、どちらが正解かで頭を悩ませる。
しかも、目の前に並んだ料理を見た途端、お腹が急に空腹を主張し始め、余計に思考がまとまらない。
冷や汗を流しながらぐるぐると思考を空回りさせていると、キアーラさんが部屋にもともとあったテーブルに紅茶の用意を始め、殿下はそちらへと移動してしまった。
(これは、本当に食べていいってことなのかな……)
貴族相手の礼儀が分からなくて不安に思っていると、「大丈夫、ゆっくり食べたらいい」と横からルキス様の穏やかな声がした。ちらりと視線を向けると、私を安心させるように柔らかく微笑むルキス様と目が合った。
ルキス様がこんな風に言うくらいだから、本当に大丈夫なのだろう。ほっとしたことで、さらにお腹が空いてきた。
「……ありがとうございます」
私はお礼の言葉を口にすると、テーブルに置かれたカトラリーを手に取る。スープから立ち上る湯気の香りが、優しく鼻をくすぐった。
おそらく胃に負担をかけないように配慮された軽食は、量も控えめで、寝起きの身体でもすっと受け入れられる味付けだった。
空腹だったこともあり、あっという間に器はすべて空になり、最後にキアーラさんが紅茶まで入れてくれた。
(……いい香り。紅茶まで、こんなに上等なものを……)
立ちのぼる香りに、思わずほうと息が漏れる。ベッドから少し離れたテーブルへ視線を向けると、ルキス様と殿下が紅茶を飲みながら、私が食べ終わるのを静かに待ってくれていた。
食べている間に少し話を聞いたところ、ここは州城内にある殿下の屋敷とのことだった。
(どうりで、他の建物の影が見えないわけだね……)
私がここにいることは、フィオルテ家にもすでに伝えられているらしい。仕事途中に誘拐されたから、それを聞いてひとまず胸を撫で下ろした。
食器を片付け終えたキアーラさんが、ベッドの傍に椅子を一つ置き、静かに礼をして部屋を出ていった。扉が閉まる音と同時に、部屋の空気が少し緊張したものへと変わる。
キアーラさんが用意した椅子に殿下が腰を下ろし、ルキス様はその後ろに控えるように立った。
どうやら、私はベッドの中で話を聞くことになるようだ。これほど丁寧に扱われるのはむしろ怖いくらいで、これからどんな話が出てくるのか、胸の奥で緊張が高まる。
「お待たせして申し訳ありませんでした。お話を伺わせていただきます」
「では改めて、話をさせてもらおう」
殿下の落ち着いた声が響き、私はベッドの上で姿勢を正した。
「アリーチェは、あの場であった出来事をどこまで覚えているか?」
その問いに、どくん、と心臓が強く鳴った。過ぎたこととはいえ、あの時の記憶は、強い痛みと恐怖と共に鮮明に刻まれている。
「研究室のような場所に連れて行かれ、あの男が称する“実験”を施されたところまでは覚えています。ただ……その後は痛みで意識が朦朧としていたため、それ以上ははっきりとは覚えておりません……」
殿下は静かに頷き、少し間を置いてから口を開いた。
「……辛いことを聞いてすまない。誘拐犯の拠点は、第一騎士団と私の部下によって制圧され、犯人一味はすべて捕らえられている。そして、其方もその際に救出された」
「全員、捕まったのですね……よかった……」
胸の奥にあった不安が少しずつ溶けていく。“全員捕まった”という言葉を聞いて、もうこれ以上誘拐される子供はいないのだと、ほっと安堵の息をついた。
「其方が捕らえられていた屋敷から、誘拐された子供たちの遺留品も見つかっている。ルキスから話を聞いていると思うが、彼らは州都を騒がせていた連続誘拐犯だった」
(遺留品……)
その言葉に、胸の奥がずしりと重くなる。やはり以前に誘拐された子供たちは、あの場所で命を散らしたのだろう……。
そう思うと、やるせなさが込み上げてきて、私は拳を膝の上でそっと握りしめた。
「今後、さらなる調査や尋問が行われ、すべてが詳らかになるだろう。けれどその前に、あの男が行っていた実験について話さなければいけない」
殿下がそう言った瞬間、部屋の空気がわずかに重たくなる。背筋を冷たい指でなぞられたような感覚が走り、思わずごくりと息を呑んだ。
ルキス様が苦しげに眉をひそめ、殿下の表情もどこか暗い色をたたえていた。
「あの実験には、どのような意味があったのですか?」
不安と緊張が胸の奥を締めつけ、思わずその問いを投げかける。
「……あの男が行っていた実験は、今は禁忌とされている魔術。人の手で“神紋者”を生み出す禁術だ」
「神紋者を……人の手で、生み出す……?」
その言葉が胸に突き刺さり、ぞわりと全身が粟立つのを感じた。
(嘘……)
思わず寝衣の上から胸元をぎゅっと握りしめる。実験の時、胸に乗せられた紙に描かれていた闇の女神の印。さっき、ちらりと視界に映った胸元の黒い影。そして、その時のルキス様の過剰な反応……。
(そんな馬鹿な……)
頭の奥で否定の言葉が浮かぶけれど、現実は冷たく私にのしかかる。
「御印を身体に刻む魔術は、行われた者のほぼ全員が命を落とす危険なものだ。そのため、随分昔に法律でその魔術を研究すること、使用することを厳しく禁じられている」
殿下の静かな声が、耳の奥にこだまする。
私は“最後まで実験されなかったから”助かったのだと思っていた。しかし、そうではなく、実験の末に“運良く”生き残っただけだとしたら、私は……。
喉の奥からせり上がるものを必死で飲み込み、震える声で絞り出す。
「魔術を施された者がほぼ全員亡くなってしまうなら……私が生き残れたのは、なぜでしょうか? 運良く……魔術が完成する前に助け出されたのですか? それとも……」
その先は怖くて口にすることができなかった。けれど、その答えは殿下から無常に告げられる。
「其方の胸元には、闇の女神の神紋が、はっきりと刻まれていた。私も確認したから、間違いはない」
その瞬間、全身の血が凍りついた。呼吸も思考も停止し、耳の奥で、きーんと耳鳴りが鳴っていた。
(禁術に手を染めた男。そして、その手によって神紋を刻まれた……私)
重く、冷たい絶望が、じわりじわりと私を押し潰していく。焦りに駆られながら、私は震える唇を開いて、辛うじて言葉を紡いだ。
「禁術により、神の理に背いた私も……牢に入れられるのですか?」
殿下もルキス様も、ただ哀しげに私を見つめる。静寂が刃物のように胸に突き刺さり、目の前がすうっと真っ暗になっていく気がした。




