104. 三度目の目覚め
そよそよと優しい風が頬を撫で、甘やかな花の香りが鼻先をくすぐる。
重たく沈んでいた意識が、ゆっくりと水面へ浮かび上がるように覚醒していく。私は小さく息を吸い込み、静かにまぶたを開けた。
(……ここは……?)
視界に飛び込んできたのは、見慣れぬ天蓋だった。透き通るような薄い布が頭上でふわりと揺れ、柔らかな影を落としている。
(あの後……どうなったの……?)
どれほど意識を失っていたのか、張りついた喉が渇きを訴えていた。私は顔と視線を動かし、まだぼんやりした意識のまま周囲を見回す。
部屋の各所に置かれた明かりが、室内を静かに照らしていた。先ほどまで身を置いていた薄暗い苦痛の世界とはあまりにかけ離れた静けさに、私は夢の中にでもいるのだろうかと錯覚してしまう。
不意に胸の痛みを思い出し、胸の奥が苦しくなる。まだ痛みが残っているような気がして、腕を持ち上げ、恐る恐る胸元を撫でたが、そこに痛みはなかった。
その事実に全身が安堵に包まれる一方で、得体の知れない違和感を覚えた。そしてふと、手のひらにも痛みがないことに気づいた。
(……あれ……?)
両手を顔の前にかざして、しげしげと眺める。あの男の魔力障壁を破った時に、確かに裂けて血が流れていたはずなのに、今の私の手のひらには、傷ひとつ残っていなかった。
(やっぱり……夢なのかな……。それとも、誰かが傷を治した……?)
呟くような思考とともに、私はゆっくりと身体を起こす。かかっていたシーツがさらりと滑り落ち、その手触りが心地良いことに気づいた。さらに、身体を起こしたことで、自分の着ている衣服が寝衣に変わっていることにも気づく。
明らかに上質な布地が肌を包んでいたけれど、私は背筋が粟立つのを感じた。誰かが私をここまで運び、服を着替えさせた事実に、じわりと汗が滲む。
はっと思い出したように、寝衣の上から腰のあたりに手をやって指先で探ると、すぐに硬い感触が返ってきた。
(あった。私が隠したペンダント……)
それがここにあるということは、これは夢などではなく、紛れもなく現実だということだ。意識を一瞬で切り替えると、私は姿勢を正し、さらに注意深く辺りを見回した。
部屋の中にはソファやテーブルといった家具が一通り揃っていたけれど、どれもこれも優雅で品のある物ばかり。華美過ぎず、細部にまで気を配った意匠で、私が寝ていた天蓋付きベッドの木地の彫刻や、布地の縁飾り刺繍にも、その優雅さが溢れていた。
ベッドサイドに置かれた見事な花瓶には、美しい花々が活けられていて、甘やかな香りを放つ。夢うつつで感じていた香りは、きっとこの花のものだったのだろう。
お嬢様の側仕えをしている中で、多少の調度品は見慣れてきたつもりだったけれど、この花瓶ひとつを取っても、とても格式のある高価なものにしか見えなかった。
その気品に圧倒され、何かの間違いで迷い込んでしまったかのような居心地の悪さを覚える。場違いな場所に自分がいる――その事実に改めて疑問が浮かんだ。
(……どうして、私はこんなところに?)
理解の及ばない状況に、焦りが胸を締めつけた。私はベッドから静かに降り、裸足のまま薄く開いた窓へと近づいた。夜気が流れ込み、昼間の熱を僅かに残した風が頬を撫でる。窓辺に立って外の景色をのぞいた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
月明かりのもと、階下には見事な庭園が広がっていた。磨かれた小径が淡く照らされ、風に揺れる花々の影が影絵のように地面を彩っていた。まるで夢の世界に迷い込んだかのような光景。
けれど、その美しさよりも私を戸惑わせたのは、視界に他の建物の影がまったく映らないことだった。上流居住区ならそういうこともあるかもしれないけれど、それでも何一つ視界に入らないのは普通ではない……。
敷地が広大なのか、あるいは意図的にそう作られているのか、それとも、ここは州都ではないのだろうか……。見覚えのない景色に心臓がぎゅっと縮み、焦りだけが胸に広がっていく。
(これは本当に……現実? それとも……)
やっぱりこれは夢で、再びあの苦痛の中で目覚めるのではないかという恐怖が沸き上がる。もしこれが現実だとしても、この場が本当に安全かどうかも分からない……。
あの時の身体の内側を切り刻まれるような痛みを思い出すと、震えが足元から這い上がり、自然と呼吸が浅くなっていく。もう二度とあの痛みを経験したくない――その思いで頭がいっぱいになった。
(このまま……ここにいていいのだろうか……)
胸を抱くようにして固まっていた、その時――
――ガチャリ。
扉の開く音が響き、私は反射的に近くのカーテンの影に身を滑り込ませた。心臓がどくんどくんと激しく鼓動し、耳の奥でうるさいほどに鳴り響く。
「……そんな……どこへ……」
息を呑むような気配の後、女性の焦った声が漏れ聞こえた。衣擦れの音で、彼女がベッドに近づいて布を確認しているのが分かった。
鼓動の音が大きく響く中、私は息を殺し、どうかこのまま見つかりませんようにと祈る。やがて女性は「急いで知らせないと……」と小さく呟き、そのまま急ぎ足で部屋を後にした。
無事、見つからなかったことに、私はカーテンの影で安堵の息を吐いた。とはいえ、このままいつまでも隠れているわけにはいかない。さっきは運良く見つからなかったけれど、本格的に捜索されればあっという間に見つかってしまうだろう。
カーテンの中の暗闇が一層恐怖をかき立て、胸の奥で早く逃げなければと焦燥感を煽る。
(……落ち着こう。焦って動けば、かえって危険だ)
私はカーテンを握りしめながら深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせていく。
まずは身を潜め、この場をやり過ごして今の状況を探る。ここがどこで、私がどういう状況に置かれているのかを確かめなければ……。
カーテンの影からそっと抜け出し、窓の外のバルコニーに出た途端、湿り気を帯びた夜気が全身を包む。手すりから身を乗り出して下を確認すると、ここは二階で、飛び降りるのは簡単ではないことが分かった。
カーテンを引きちぎればロープ代わりにできるだろうけれど、そんな痕跡を残せば、すぐに逃げたと気づかれてしまう。
私はもう一度部屋に戻り、何か使えるものがないかと目を走らせたちょうどその時、廊下から複数人の話し声が聞こえてきて、私は慌ててカーテンの影に身を滑り込ませる。
私が隠れた瞬間、ガチャリと部屋の扉が開いた。
「こちらです。以前見た時は、お休みになられていたのですが、つい先ほど様子を見に伺った時には、既に姿がなく……」
「……そうか」
先ほどの女性の声と、低い男性の声が重なる。部屋に数人が入ってくる気配が広がり、緊張で心臓が締めつけられると同時に、その中にふと懐かしい気配を感じた。
胸の奥がじわりと熱くなり、目の縁に涙が滲む。安堵が一気に押し寄せ、膝が震えてその場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえる。
その気配の主は私の存在に気づいたのか、迷いない足取りでまっすぐに私の隠れているカーテンへ近づいてくるのを感じた。濃い気配が、静かに私の前に立つ。
――パサッ
布が揺れ、暗闇に光が差し込む。
「君は……こんなところで何をしているんだ?」
金色の髪を揺らし、懐かしさすら感じる気配をまとった青年が、まっすぐに私を見下ろす。間違えるはずもない――ルキス様だ。
「ここがどこで、私を連れてきた人たちが誰なのか分からなかったので……ひとまず身を隠して様子を見ようかと、思っていました」
「……実に、アリーチェらしい答えだな」
困惑しつつも、小さく笑みを浮かべるルキス様を見た瞬間、張り詰めていたものがふっと緩む。涙で滲んだ視界の中、私はルキス様にへにゃりと笑みを返した。




