103. 闇に沈む祈願
一部、暴力表現があるため、苦手な方はご注意ください。
「やった!」
壁に叩きつけられ、崩れ落ちる男を見て、私は思わず喜びの声を上げた。呻き声を漏らし、動けずにいる男の横をすり抜け、私はすぐさま通路へと駆け出す。
松明の炎に照らされ、通路の突き当たりに石造りの階段が上に続いているのが見えた。
(上への階段!)
あそこを上がれば、外に出られる……そう思った瞬間、背中に強い衝撃が叩きつけられた。
「っ……!」
受け身を取る暇もなく、私は前のめりに石床へ倒れ込む。肺の中の空気が一気に押し出され、一瞬、呼吸が止まった。頭が真っ白になり、喉の奥からかすれた咳が漏れる。
「ゴホッ……ッ、は……っ」
涙で視界がにじむ中、顔を上げると、靴音を響かせながら男がこちらへ歩いてくるのが見えた。その余裕のある足取りが、余計に恐怖をかき立てる。
「まったく……活きが良いのも困りものだな」
男のなぶるような嗤い声が耳に届く。逃げなきゃいけないと頭では分かっているのに、脚が鉛になったように上手く力が入らない。せめて少しでも距離を取ろうと石床に手をつき、身体をねじろうとした瞬間――
――バチッ
私に向けられた男の手から空気を裂くような音が響き、鋭い痛みが全身を駆け抜ける。骨の髄まで震えるような衝撃に、指先の感覚さえも一瞬で失われた。叫ぶ声すら上げる暇なく、私の意識は暗闇へ引きずり込まれていった。
ずきりとした鈍い痛みに意識が引き戻され、重たいまぶたを持ち上げる。私の視界の先に広がっていたのは、先ほどまでいた石牢ではなく、また別の見知らぬ部屋だった。
意識が覚醒するにつれて、自分のおかれた状況に愕然とする。腕を左右に広げ、両足は一纏めにして十字の姿勢で台に括りつけられていた。手足はもちろん、腰や首までもがっちりと固定され、まるで見世物の人形のように身動きが取れない。
身体を無理に動かそうとすると背中に痛みが走り、これが夢ではなく現実だということを否応にも理解させられた。
(……なんで、こんな……)
混乱する頭を必死に働かせ、唯一自由に動かせる顔を傾けて周囲を観察する。そこは先ほどの石牢よりも広い部屋だった。薬っぽい匂いが鼻を刺し、執務室というよりは研究室といった印象を受ける。
壁に並んだ棚には書籍や紙束が山積みされ、標本や薬品らしき瓶などもところ狭しと並ぶ。部屋の薄暗い明かりを受け、濁った液体の中に浮かぶ影が不気味に揺れていた。
必死に他にも視線を走らせていると、不意に足元の方に人影を見つけ、びくりと身体が強張る。苦しくない範囲で頭を持ち上げてよくよく見ると、そこには虚ろな瞳をした青年が立っており、じっと遠くを見つめていた。
その視線の先を確かめようとした瞬間、青年の瞳がゆっくりと私に向く。虚ろな目と正面からぶつかり、背筋に冷たいものが走る。心臓が激しく鼓動し、額にじわりと汗がにじんだ。
「旦那様、目を覚ましたようです……」
青年の掠れた声が響いた直後、聞き覚えのある男の声が頭の上の方から降ってきた。
「そうか、目覚めたか」
靴音を響かせて私の視界に現れたのは、忘れもしない、目の下に深いクマを刻んだ男だった。手に一枚の紙を持ち、男はにやりと笑みを浮かべながら、私の顔を覗き込んで言った。
「こちらの準備も整った。さて……始めるか」
「……何を、するつもりなの?」
気丈に問い返したつもりだったけれど、押さえようもなく声が震える。心臓の激しい音が、耳の奥に響いていた。
「なあに、今から至高たる神の寵愛を賜るための儀式をするだけだ。君にとっては苦しい試練になるだろうが、良い結果になるよう頑張ってくれたまえ」
男は恍惚とした表情を浮かべ、手に持った紙を高く掲げる。その紙には幾重にも複雑な魔法陣が描かれ、中央には神殿図書館で目にした闇の女神の御印がはっきりと刻まれていた。
けれど、その文様をのんびりと眺める余裕は私にはなかった。これから自分に降りかかる凶事を想像し、全身がかたかたと震え始める。
虚ろな瞳の青年が手にナイフを持ち、ぎこちない足取りでこちらに近づいてくるのが見えた。薄暗い部屋の光を受けて、刃がぎらりと冷たく光った。喉がひゅっと鳴り、息が詰まる。
「やめて……」
反射的に声が漏れたけれど、青年の手はぴくりとも止まらない。
迫る刃から視線を逸らすこともできず、刺される――そう身構えた瞬間、ビリッと布を裂く音が響いた。
(……服を、裂いた……?)
痛みを感じない所を見ると、どうやらナイフは服の襟元を切っただけのようだ。胸元が少しはだけ、外気に晒される。
一瞬だけ強張っていた緊張が緩んだけれど、安堵する間もなく冷たい革が口に押し当てられ、強引に口枷が嵌められる。声を封じられ、次いで頭に荒い麻袋がかぶせられた。
「……っ!」
視界が闇に閉ざされた途端恐怖が増し、早鐘のように心臓が一層暴れ出す。麻袋の中、自分の荒い息遣いが反響していた。
胸の上に何かが置かれたような違和感があり、びくりと全身を強張らせる。かさりとした音がしたことから、先ほど男が手にしていたあの紙だろうと察した。
その紙の上に別の重みが加わり、さらに上から手のようなもので押さえられる。
「安息と知識を司る、闇の女神プルケルオプスよ……」
くまの男の声が、麻袋の中に低く響き渡る。恍惚と狂気が混じった声色に、血の気が一気に引いていく。
「我が願いを聞き届け、閉ざされし神々の門を開き給え」
その言葉と同時に、胸にざわりとした違和感が生まれ、呼吸が乱れる。
最初は軽いちくりとした痛みだった。けれど、それは瞬く間に鋭さを増していき、内臓を切り刻まれるような耐え難い激痛へと変わっていく。
(痛い……痛い……心臓が灼き切れる――)
声にならない呻きが喉の奥から絞り出され、私はなりふり構わず悲鳴を上げた。
痛みは一秒たりとも収まらず、取り繕う余裕などどこにもない。胸の奥が焼けるように熱く、閉ざされた暗闇に赤黒い靄がじわりと広がっていく。涙が流れ落ち、こめかみを伝って冷たく滴った。
男の何かの言葉が耳に入るのを感じたけれど、それを理解する間もなく私の世界は痛みで塗り潰され、ただ「痛い」「苦しい」という言葉だけが頭の中を支配していく。
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
痛みから解放されたい一心で、反射的に謝罪の言葉を繰り返す。時間の感覚もなくなり、一瞬にも永遠にも感じる痛みが続く。
こんな苦しみが続くくらいなら、いっそひと思い終わらせてほしい——そう思うようになった頃、痛みの輪郭がぼやけはじめた。あれほどの激痛が嘘のように溶け、やがて温かみすら感じるまでになった。
死にたくない――そんな願いさえも次第に薄れ、私は諦めるように遠ざかる感覚に身を預けた。
(ああ、これが、死か……)
死は恐ろしいはずなのに、不思議と怖くはなかった。それよりも、痛みが消えたことが何よりも嬉しかった。
男の声も周囲の物音も、すべてが透明な膜の向こうに遠ざかっていく。
どこからともなく、男の激しい高笑いを感じた。狂ったような嗤い声は、ただ私の安寧を破る雑音でしかない。
さらに周囲が騒がしくなり、怒号や何かが砕ける音が交錯する。けれど、厚い水底を眺めた時のように、私にとってそれらすべてが遠くぼやけていった。
――ふと、誰かが私の名前を呼んだ気がした。
その声は遠く霞の向こうから届き、不思議な温かさを帯びていた。
けれど、私にはもう、その声に応える力は残っていない。
温もりに満ちたまどろみへと、私はただ静かに身を沈めた……。




