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【第三部】黒瞳少女は帰りたい 〜独りぼっちになった私は、故郷を目指して奮闘します〜  作者: 笛乃 まつみ
第七章 光の騎士

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101. 冷たい鉄格子の影

 重たいまぶたを持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、薄暗く照らされた石の床だった。

 手をついて身体を起こすと、手のひらにひんやりと冷たい石の感触が残る。頭の奥がぼんやりとしていて、思考が完全に戻るまで少しばかり時間がかかった。

 窓のない石の壁と頑丈そうな鉄格子、そしてそこに横たわっていた私……。どうやら、牢のような場所に閉じ込められているようだ。


(これは……誘拐されたみたいだね……)


 動揺で胸がざわつくのをぐっと飲み込み、まずは状況把握に努める。そう自分に言い聞かせると、ゆっくりと立ち上がって鉄格子の方へ歩み寄った。

 念のため鉄格子に手をかけてみるけれど、冷たい鉄の感触が指先に伝わるだけで、力を込めてもびくともしない。


(まぁ、そうだよね……)


 鉄格子はがっしりとした造りで、簡単に外れそうにない。格子に顔を近づけて外の様子を伺うと、牢の外側は通路になっていた。壁には松明がともされ、炎の明かりが通路を不気味に照らしていた。

 夏の昼間の暑さを思うと、ここはずいぶんとひんやりとしている。おそらく、この場所は建物の地下なのだろう。

 視野的に通路の先は見えないけれど、同じような部屋がいくつか並んでいるような雰囲気だった。


「誰かいませんか……?」


 鉄格子の隙間から外を覗き、耳を澄ませる。私の小さな声がかすかに反響して戻ってきただけで、返事もなく、物音ひとつも聞こえない。今ここに囚われているのは、私一人のようだ。


 格子から離れて、私は首元のボタンに手を伸ばす。今着ている服は、誘拐された時と変わらず商会の従業員服のままだ。

 服の下に隠していたチェーンが指先に触れた瞬間、張り詰めていたものが解け、胸の中に安堵がじんわりと広がる。チェーンを外してペンダントを取り出すと、ルキス様からいただいたペンダントが手の中に納まった。


(これがなくなっていなくて良かった……)


 カバンは当然なくなっていたけれど、ポケットの中の小物とこのペンダントは取り上げられずにすんだみたい。ルキス様が「いざという時に役に立つだろう」と言っていたのを思い出し、一縷の望みを託して手の中に握り込む。

 深呼吸を一つして、手の中に魔力を集めるように意識を集中させてみたけれど、ペンダントはただそこにあるだけで、特に反応は感じなかった。胸に抱いた淡い期待がしぼむ。


(ルキス様がわざわざ渡してくださったから、何かしらの魔術具かもしれないと思っていたのだけど、どうやら違ったみたいだね……)


 落胆はしたものの、完全に無駄とは限らない。私は気持ちを切り替え、ペンダントの扱いについて考える。たとえ魔術具でなくとも、何かの役に立つかもしれないし、いざとなればお金に換えることもできるだろう。

 私はスカートの裾をたくし上げると、ドロワーズの紐にペンダントを絡みつけて内側に隠した。こうしておけば、たとえ服を着替えさせられても、裸にされない限り見つからないだろう。

 少しでも、取り上げられるまでの時間を稼げればいい……。


 私はスカートを整えると、壁の近くに座り込み、石壁に背を預けた。背中に伝わる冷たい感触に気持ちを落ち着かせながら、今日の出来事について考えを巡らせる。

 あの路地での出来事は、明らかに不自然だった。最大限警戒して路地に入ったはずなのに、灰色の髪の少女に不用意に近づいた揚げ句、得体の知れない魔術具に躊躇なく触れた……。普段の私ならあり得ない行動だ。


(もしかして、判断力が鈍らされていた……?)


 思い返せば、あの路地は妙に静かだった。表通りの足音や人のざわめきすら聞こえない。遮音の魔術具が使用されていたと考えるのが自然だろう。そして、私の意識を奪ったと思われるランプも魔術具だった……。

 灰色の髪の少女に加え、魔術具を使用した誘拐となれば、私を攫った犯人はルキス様が追っている誘拐犯と見て間違いないだろう。

 もし、旦那様から聞いたメルクリオの誘拐事件と、ルキス様が追跡している事件の犯人が同一人物なら、彼らは魔力を持つ子供を標的にしているはず。

 そして、過去の新聞記事に書かれていた被害者の特徴は、全員が髪や瞳が黒系統だった。

 ルキス様は誘拐された子供たちについて詳しくは口にしていなかったけれど、ルキス様が以前から私を気にかけ、用心するように念を押していた理由は、私が標的の条件に合致していたからなのだろう……。


 ただ一番の問題は、誘拐犯がどうして私が魔力持ちであることを知り得たのか、という点だ。私が二人の子供と出会ったのが偶然でないとすれば、彼らは最初から私を狙い、私に魔力があると知った上で動いていたことになる。

 私が魔力を持っていることを知る人物は限られている。この街に限定するなら、その人物は一人しかいない……。


(ルキス様……)


 頭の中でその名前を呼ぶと、鉛を飲み込んだように胸が重たく沈んだ。

 ルキス様本人という可能性もあるし、ルキス様が他の人に話した結果ということもあり得る。どちらの可能性も完全に否定することができず、私はそれらを頭の片隅にそっと置いた。


 この誘拐が、例の誘拐犯の仕業だとすれば、少なくとも当面の間は身の安全は担保されるだろう。

 一定以上の魔力を持つ平民の子供は、ある意味で商品としての価値が高いと聞いた。嫌な話だけれど、女の子は特に高値が付くという噂もある……。

 少なくとも、売られるまでの間は安全だろうと、皮肉めいた考えが頭をかすめた。


 それに、この牢は長期監禁に向いた造りではない。窓もなく、寝台も寝具もない。排泄用の桶が辛うじて置かれているだけで、それも長い間使われた形跡はなかった。

 おそらく、ここは一時的に人を留め置く場所に過ぎず、いずれ別の場所へ移送するつもりなのだろうと考える。

 ルキス様たちが一年以上追っても手がかりを掴めないのは、強力な後ろ盾があるか、巧妙に隠されているからだと思っていたけれど、もしかしたら別の街へ連れ去られているため、手掛かりが断たれているのかもしれない。

 いずれにせよ、ここでじっとしていては状況は好転しないのは確かだ。


(移動のときが好機……)


 もし逃げるとしたら、鍵や人員の都合で乱れが生じやすい移送の瞬間が一番可能性が高い。だから今は体力を温存し、ほんの少しの好機も見逃さないように準備を整えるのが得策だろう。そう自分に言い聞かせて、私は周囲をもう一度丹念に見渡した。

 部屋の隅、石壁の亀裂、床の継ぎ目、鉄格子の隙間。顔を近づけ、何か使えそうなものがないか目を凝らす。小さな欠片でも紐でも、工夫次第で何かに役立つかもしれない。

 今私がする行動と判断の一つひとつが、今後を左右する。見つけたわずかな物が、私にとっての小さな支えになるだろう……。


 お腹の減り具合から考えて、おそらく誘拐されてからそれほど時間は経っていないはず。地下では鐘も聞こえないし、外の様子からも判断できない。時間が分からないことが、焦燥を募らせる。

 けれど、助けが来る可能性もゼロという訳ではない。商会の誰かが異変に気付いて、今まさに私を探してくれているかもしれない……。


(焦るな……。次に来る人間を見極めてから動く)


 そう自分に言い聞かせ、私は石壁に背を預けて目を閉じる。深く息を吐き、呼吸を整えて耳を澄ました。

 外の音に感覚を研ぎ澄ませ、少しの好機を逃さないように、私は静かにその時を待った。



 目を閉じ、うとうとと意識が揺らいでいたその時、かすかな足音が耳に届いた。思わず身体が強張り、意識が一瞬で冴えわたる。


(誰か来る……!)


 すぐさま鉄格子から距離を取り、背を壁につけて息を潜めた。通路を踏みしめる靴音は、重さとリズムの違いからおそらく二人分。

 松明の灯りが揺れ、やがて赤橙色の光の中に二人の姿が現れた。ひとりは痩せ気味で、目の下のくまが酷い壮年の男。口角を吊り上げたにたりとした笑みが、仮面のように顔に貼りついている。

 もうひとりは青年で、虚ろな瞳には生気がなく、ひと目で心の荒みが伝わってきた。


(……これが、子供を使って誘拐を企てた人間……?)


 私はどんな極悪人が現れるのかと想像していたけれど、目の前の二人は一見すれば街にいる市民のようでもあり、かえってその平凡さが恐ろしく思えた。


「おや、目を覚ましていたか。元気そうで何よりだ」


 くまの男が、世間話でもするかのような口調で私に声を掛けてきた。鉄格子越しにのぞく笑顔は、松明の灯りに照らされて、より不気味に浮かび上がる。


「……あなたが、私を誘拐したのですか?」


 努めて冷静に声を出す。胸の奥で鼓動が早鐘を打っていたけれど、それを悟られぬよう平静を装った。

 男は笑みを崩さぬまま、あっさりと言い放つ。


「ああ、そうだよ、アリーチェ」


 名前を呼ばれた瞬間、背筋にぞわりとした寒気が走った。どうして私の名前を知っているのか。その答えを探すよりも先に、嫌悪と恐怖が一気に込み上げる。


「メルクリオの街で逃した子供に、またこうして会えるとは……本当に私は幸運だよ」


 にたりと笑う男の声が、石造りの牢に重く響き渡った。


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