100. 闇を灯すランプ
予想していた通り、慌ただしい夏が幕を開けた。
もっとも、メイドとしての私の日常に大きな変化はなく、慌ただしいのは、あくまで商会の方だった。
お嬢様から見習いが来ると聞かされてから一週間後には従業員全員に通達があり、さらにその翌週には二人の見習いが商会にやって来た。
二人はどちらもお嬢様の親戚筋にあたる商会の息子で、それぞれ別の商会から一人ずつやってきていた。
最初に聞いた話では、知り合いの商会からも見習いの話が持ち上がっていたけれど、どうやらそちらは時期をずらすことになったみたい。確かに、見習いばかり増えても仕方がないものね。
そして、件の二人はというと、お嬢様の言葉通り、少し注意が必要な相手ではあった。
商会に来た初日、事務室に来た彼らにイヴァンが事務仕事の説明を始めたのだけれど、二人はその説明をそっちのけで、私に話しかけてきたのだ。
「ねえ、君がアリーチェ? 聞いていた以上に可愛いんだね」
「君がいろいろな発案をしてるって聞いたけど本当? 露店の企画は実際どうやって考えたの?」
私のことを可愛いと言った短髪の男の子がマヌエル、もう一方のメガネをかけた灰青髪の男の子がセスト。二人ともお嬢様と同年代になるのだけれど、話しかけてくる様子はお嬢様と比べて落ち着きがなく見えた。
その後、イヴァンが釘を刺したことで話を聞く姿勢にはなったけれど、それも長くは続かない。
「もうすぐ辞めるって聞いたけど、本当?」
「フィオルテ商会の雇用条件はいいはずだけど、もしかして引き抜きだったりする?」
一通りの説明が終わった後は、そんなふうに質問攻めにされ、立場的にないがしろにもできない相手のため、私は内心ため息をつきながら応じるしかなかった。
この二人は、見習いといっても、ただの新人ではない。彼らの目的は、親交と下積みを積むことである。だから店舗の実務や事務仕事を一通り経験したり、旦那様やお嬢様に同行して視察や交流に出かけたりと、短期間で幅広い経験を積むことになっている。
本来なら、私と関わる機会は事務仕事と接客の時くらいなのだけれど、その時間全てを使って私に絡んできている感じだ。
お使いに行くにも「道が分からないから案内してほしい」と頼んでくるし、質問もイヴァンを差し置いて全て私。
目に余る行動ではあるけれど業務範囲内ではあるし、二人の立場を考えれば強く言えないということもあり、イヴァンの機嫌は下降の一途をたどる。結果、不機嫌さを隠そうともしないイヴァンと、妙に積極的な二人に挟まれて、私は板挟み状態になってしまっていた。
(正直、今までの仕事の中で一番疲れるかも……)
肉体疲労よりも、精神的な消耗。こうして、私は予想していた以上の慌ただしい夏の日々を過ごすことになったのだった。
「……随分と疲れている様子ね」
商会からの帰り道、馬車に揺られていた時にお嬢様が不意に声をかけられた。
「表に出してしまい、申し訳ありません」
口から溢れそうになるため息は飲み込んでいたけれど、疲れた表情は隠しきれなかったみたい。
「あなたのその疲れは、やっぱりマヌエルとセストが原因?」
先週から来ている見習い二人の名を、お嬢様が口にする。
「……はい。顔を出した日には必ず絡まれてしまい、少しばかり困っております。二人ともお嬢様の親族で、そのうえ年齢も近いということもあり、互いに敵対心を抱いているようで……。どうやら私からどちらが多く有益な情報を引き出せるか、競っている節もあるため、余計に拍車がかかっているようです」
言葉を選びつつ説明すると、お嬢様は頬に手を当て、小さくため息を漏らした。
「それは……少し難儀ね。私の前でも張り合っている様子だったわ」
「それはまた……」
お嬢様のため息に釣られるように、私も苦笑いを返す。
親族ならお嬢様の婿候補でもあるだろうに、これでは早々に候補から外されそうだ。
「夏の終わりまでの付き合いですから、あまり深入りせずに静かにやり過ごそうと思います」
私が諦めを含んだ声で告げると、お嬢様はちらと私を見て爽やかな笑顔を浮かべた。
「酷いようなら、私に言いなさいね。こちらで対処するから」
その言葉に、肩が少し軽くなる。同時にその良い笑顔が少しだけ心配になったけれど、まあ親族だし、余程のことをしない限りは大丈夫でしょう。私は気持ちを切り替えると、静かに頭を垂れた。
次週の水の日。お嬢様と共に商会へ向かった私は、やっぱりというべきか、相変わらずマヌエルとセストに絡まれていた。
先週までは私の提案についての質問や雑談が主だったけれど、今週は手法を変えてきたらしい。
「アリーチェは読書が好きって聞いたけど、よかったら今度家に来ないか? 珍しい蔵書もあるんだ」
「アリーチェは甘い菓子は好き? よかったら今度、一緒に菓子店にお菓子を食べに行かないか?」
やんわり断ってもしつこく食い下がられ、内心ぐったりとする。作り笑顔でのらりくらりと躱し、愛想笑いで頬が引きつりそうになった頃、別の従業員が接客手伝いで二人を呼びに来て、ようやく私は解放された。
私の口から思わず大きなため息が漏れ、向かいで注文書をまとめていたイヴァンも、苛立ちを隠さずため息をついた。
「……ようやく静かになりましたね。本当に何しに来ているんだか」
「有益な情報の収集も、彼らの仕事なのでしょうね。とはいえ……流石にさっきのようなしつこい誘いは本当に困る。今日にでも、お嬢様に相談してみようかしら……」
「ええ、それがいいと思います!」
イヴァンはぱっと顔を明るくして即座に同意の声を上げた。あの二人の態度に閉口していたイヴァンからすれば、その反応も仕方がないだろう。
とたんに機嫌を良くしたイヴァンだったけど、ふと我に返ったように顔を曇らせた。
「あれ? そういえば……そろそろ出発しないといけないんじゃないですか?」
「……あっ! まずい、忘れてた。早くしないと約束の時間に遅れちゃう」
フィオルテ商会の業務のひとつに、外出を控えがちな病人や年配の顧客に、定期的に商品を届けるというものがある。件数は少ないけれど、私もいくつかを担当させてもらっていた。
そして今日は、その顧客への訪問日――市街区の上客への定期納品の日だった。準備を急がなければ間に合わない。
「時間を忘れるなんて、アリーチェにしては珍しい。これも、あの二人の弊害ですね。あとは私がやっておきますから、急いで準備してください」
「ありがとう、イヴァン。本当にごめんね」
確かに、普段の私なら準備の時間を失念するなんてことはなかっただろう。私はまとめていた注文書をかき集めると、イヴァンに手渡した。
「行ってきます!」
「はい、気を付けて行ってきてください」
イヴァンの声を背に受けながら、私は足早に事務室を飛び出した。
「いらっしゃい、アリーチェ」
「お久しぶりです、奥様。お元気にお過ごしでしたでしょうか」
「堅苦しい挨拶はいいわよ。さあ、座ってちょうだい」
あれから準備を急いだおかげで、無事に約束の時間には間に合った。市街区の顧客の邸宅に到着すると、すぐにメイドに案内され、杖をついた優しげな老婦人が私を迎えてくれた。
かれこれ半年以上にわたるお付き合いになるご婦人で、お年を召して足が悪いため、こうしてフィオルテ商会の定期納品を利用している方だ。
「今日は何を持ってきてくれたのかしら?」
テーブルにつくや否や、ご婦人がにこやかに尋ねてくる。
「本日は、いつもお届けしている化粧水と……そろそろ香油が切れる頃かと思い、そちらもご用意いたしました」
「あら、ちょうど今日注文しようと思っていたのよ。助かったわ、ありがとう」
私は手持ちのカバンから商品を取り出し、テーブルの上に並べていく。定期的に納品しているものはもちろん、それ以外にもご婦人が好みそうな色味の口紅や、手肌用の保湿クリームなども添えて並べる。
この訪問は、ただ商品を届けるだけが目的ではない。外出を控えがちな顧客の気分転換も兼ねていて、世間話の相手を務めるのも大切な役目だった。
紅茶をいただきつつ、一つひとつの商品を説明しながら、ご婦人とゆったりと会話に花を咲かせていく。
今日の納品についての話がひと段落したところで、私は夏の終わりにフィオルテ商会を辞めるため、次回からは別の者が訪問することを伝えた。
「まあ……アリーチェに会えるのは今日が最後になってしまうのね。あなたとお話しできなくなるなんて、寂しくなるわ」
ご婦人の顔がふっと曇り、私の胸の中にも寂しさが広がる。
「私も奥様とお話しできなくなるのは、とても寂しく思います。ですが、次に担当いたしますのは、以前このお宅を担当していたエンマですので、ご安心いただけるかと存じます」
「まあ、エンマなのね。懐かしいわ……。確かに、彼女なら安心できるわね」
「そう言っていただけて、私もほっといたしました」
表情を和らげたご婦人を見て、胸の奥の緊張がゆっくりと解ける。ご婦人が私たちの訪れを楽しみにされていることを知っているから、安心できる相手に引き継ぐことはとても大事なことだった。
「今日が最後だというのなら、たくさんくつろいでいってちょうだい」
そう言ってご婦人は、そばに控えていたメイドに追加のお菓子と紅茶を持ってくるよう指示を出された。いつも以上に手厚い歓待を受けた私は、改めてご婦人と過ごす最後のひとときをかみしめた。
「かなり遅くなってしまった……」
二軒目の定期納品を終えて外に出ると、あたりはすっかりと夕暮れに染まっていた。既に七の鐘も鳴り終わり、急がなければ程なく夜の帳が下りてくる頃合いだろう。
二軒目も今日が最後の訪問だったこともあり、話が弾んで帰る時機を逃してしまった。テーブルいっぱいに並べられたお菓子はとても食べきれず、包んでもらった分がカバンの中に詰め込まれている。化粧品で膨れていたはずのカバンが、今では甘い香りを放つお菓子で一杯になっているのは、なんとも不思議な感じだった。
(さて……急いで帰らないと)
私はカバンを持ち直し、頭の中で乗合馬車の路線を思い浮かべながら、足早に歩き始めた。
同じように家路を急ぐ人々とすれ違いながら市街区を抜けていく。しばらく進んだ頃、私の横を二つの影が駆け抜けていった。姉弟らしい大小の子供が小走りで私を追い越し、そのまますぐ先の路地へと入っていく。
(あんなに急いで……転ばなければいいけれど)
そう思った矢先、路地の奥からドタッという大きな音が響いた。
私は立ち止まり、警戒しつつ路地を覗き込む。案の定、先ほどの子供の片割れが地面に倒れ込んでいるのが見えた。
「姉ちゃんが、早く走るから……」
「走り出したのはあなたが先でしょう。それに、大切な荷物まで落として……」
「だって……だって……」
うずくまって泣く弟を、姉と思しき少女が慰めている。そのまま見て見ぬふりをするのも気が引けて、私は小さく嘆息し、路地へと足を踏み入れた。
「あなたたち、大丈夫?」
警戒しながら距離を取って声をかけると、灰色の髪の少女が振り向き、無言のまま青い瞳でじっとこちらを見据える。ガラス玉のような瞳に私は一瞬たじろいだけれど、少女は口角を上げてにこりと微笑む。
路地を抜ける風が、ひゅうと吹き抜けた。
「弟が転んだだけだから、大丈夫よ。優しいのね、あなた」
「……怪我はしていない?」
気づけば、無意識に足を踏み出して尋ねていた。少女は弟を確かめながら「擦りむいているけれど、血は出ていないわ」と答えた。弟の方は泣き止み、私をじっと見上げている。
「そう、怪我がなくて良かった」
「でも、荷物が……」
少女の視線の先には、地面に転がった小箱があった。彼女が拾い上げ、布に包まれた中身を取り出すと、それはランプのような形をしていた。魔法陣らしき紋様が描かれているところを見る限り、おそらくこれは魔術具なのだろう。
少女がそれを丁寧に持ち上げると、カランと軽い音が響いた。その音を聞いた瞬間、姉弟の顔が青ざめる。少女が再びそれを軽く振ると、先程と同じように内部で何かが転がる音がした。
「……叱られる」
弟が小さく縮こまりながら震える声でつぶやいた。少女も同じような真っ青な顔で、肩を震わせて固まっていた。その怯え方は尋常ではなく、日常的に折檻されているかもしれないことを私に思わせた。
二人の怯える様に胸が締めつけられる。
「そのランプ、少し見てもいい?」
気がつくと、自然とその言葉が口をついて出ていた。
カバンを地面に置き、逡巡を帯びた眼差しを向けてくる少女からランプを受け取る。改めて軽く振ると、カラカラという音は台座の内部から聞こえてきていた。
(あの時のランプと同じ構造なら……)
以前、神殿図書館で見た光景を思い出しながら、底と上部を両手で掴んでねじると、カパッと底が外れ、中から黒い魔石が転がり出てきた。どうやら、音の正体はこれだったみたい。
形を確認しながら本来あったと思われる位置に押し込んでみると、魔石はぴたりと中央部分に収まる。底を元に戻し、試しにランプの台座にあるスイッチを押すと、カチリという音と共に指先に微かな違和感があった。
(……?)
疑問に思いながら指先を見つめていると、ランプは薄黒い光を放ち出す。そして、その光は路地の壁に影を落としながらゆっくりと回転を始めた。
(……なんだろう。綺麗だけれど……どこか怖い)
薄黒い光に目を奪われる私の腕を、少女がそっと掴んだ。
「あなたは、本当に優しいのね……」
何の感情も映さない空虚な瞳が、間近に私を見上げる。なぜかぞわりとした寒気が背筋に走った。
(……おかしい……)
そう気づいたのも束の間、もやがかかったように視界がにじみ、意識が急速に闇へと沈んでいく。
消えゆく意識の中、少女が掴んだ腕の感覚だけが最後まで強く残っていた。
恐れていた事態が起こりました。
アリーチェの安否は……。