99. 慌ただしい夏のはじまり
――カラーン
短く鳴り響く鐘の音に、私は写本していた手を止めて窓の外に視線を向けた。学舎の三と半の鐘。ここ、神殿図書館まで届くその響きが、今日の授業の終わりを告げていた。
(そろそろお嬢様が出てこられる頃だね。片付けて出迎えに行かないと……)
窓の外では、まばゆい日差しを浴びた植え込みが青々と茂っていた。今は夏の初月の第一週。ティート村を離れて、約二年。私は十三歳になっていた。
村にいた頃は背も低くてガリガリだったけれど、今ではそれなりに背が伸び、体つきも少しは肉付きが良くなったと思う。かつての姉のような女性らしい姿にはほど遠いけれど、今はまだそれでいい。
火の州へ戻る方法は、旦那様のつてで信頼できる客船に乗せてもらえることが決まっているけれど、帰郷の旅は男装で臨むつもりだ。出発は夏の終わり。準備は着々と進んでいた。
(ここでの写本も、あとひと季節分と思うと、やっぱり寂しくなるね)
紙の感触とインクの匂いに名残惜しさを覚えつつ、筆記具を片付けて書き写した紙をバインダーに挟む。最後に忘れ物がないことを確認し、写本していた本を司書に返却した。
そして、受付で退館手続きを済ませると、神殿図書館の扉を押し開け、日差しの眩しい外へと出た。
ちょうどその時、図書館へ向かって歩いてくる一人の少年が目に入る。確か、お嬢様と同じ学級の子で、名前は……。思い出すより先に、その少年がこちらに声を掛けてきた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
社交的な笑みを浮かべて挨拶を返すと、少年は少しもじもじした様子で言葉を続けた。
「あの、俺、ヴィオラさんの同級生のジョナって言うんだけど、君、ヴィオラさんのメイドのアリーチェだよね? 今、少し良いかな?」
「先ほど終業の鐘が鳴りましたから、お嬢様が出てこられるまででしたら大丈夫です。何かご用でしょうか?」
頷きながら返事をすると、ジョナは視線を彷徨わせながら言葉を発した。
「用ってほどじゃないんだけど、よく図書館に来てるって聞いて……。本が好きなの?」
「そうですね。好きだと思います」
私は端的に答える。
「たまに私服で来てるって聞いたけど、休みの日にも来てるの?」
「ええ。足を運ぶこともあります。不定期なので決まった曜日というわけではありませんが……」
「それじゃ、次の休みは? 次も図書館に来る?」
「次の休みは別の予定がありますから、おそらく来ないと思います。その次はまだ分かりませんが……本は一人で静かに読むのが好きです」
ジョナの様子から、どういう意図で声をかけてきたのかは何となく察せられた。そういうこともあり、余計な期待を持たせないよう、言葉を選んで返す。
「そっか……」
あからさまに肩を落とすジョナ。少し胸が痛んだけれど、これで彼が気持ちに区切りをつけられるのであれば、その方がいいと思う。まぁ、私の勘違いという場合もあるかもしれないけれど……
そうこうしている間に、学舎から生徒たちがぞろぞろと出てくるのが見えた。今のところ、お嬢様の姿はまだ見えないけれど、ジョナが新たに口を開く様子もないので、私の方から軽く声をかける。
「特にご用がなければ、そろそろ失礼してもよろしいですか?」
「あ……うん。呼び止めてごめん。話をしてくれて、ありがとう」
「はい。それでは」
軽くお辞儀をし、学舎の方へと足を向ける。学舎の前にはすでに何台かの馬車が並び、フィオルテ家の馬車もその中に止まっていた。御者のオリンドと合流した私は、馬車の前に立ってお嬢様が出てこられるのをしばし待つのだった。
「……それで私は声を掛けられていたわけね」
学舎を後にし、馬車に揺られながら先ほどの出来事をお嬢様に話すと、なるほどといった表情でそんな言葉を漏らされた。
「声を掛けられた……とは?」
「授業の終わり際に、ジョナの友人が私に話しかけてきたの。別に親しいわけでもないのに、取り留めのない話を延々としてきて……不思議に思っていたけれど、アリーチェに話しかけるための時間稼ぎだったのね」
「そんなことがあったのですか。私に用があるのかと思っていたのですが、もしかして私ではなくお嬢様のことを知りたがっていたのでしょうか……? そうであれば、お恥ずかしい限りです」
話しかけてきた様子から、てっきりそうだと考えていたのだけれど、私の勘違いだった可能性が出てきた。
「……いつものことだけれど、あなたはこういう時に浮つかないわよね。騎士様と会った時の反応もそうだったけれど……」
「確かに、性格的にそういう感情が起きにくいのは確かですね。相手や自分の置かれた立場や状況を理解していると、一線引いてしまうというか……」
少なくとも、二ヵ月後に州都を離れる身としては、なおさらその手の感情は持ちにくい。ルキス様については、関わり方が特殊すぎて一概には言えないしね……。
「まあ、それは置いておいて……少なくともジョナは私ではなくアリーチェ目当てだったはずよ。前にもあなたのことをいろいろ聞いてきたことがあったもの。もしかしてとは思っていたけれど、まさか行動に移すほどとはね」
「私、目当て……ですか。孤児院あがりだということはご存じないのでしょうか。それを知っていれば、わざわざお嬢様に絡んでくることもなかったと思うのですが」
これまで、私のことを尋ねてくる人はいたけれど、大抵は孤児院出身だと知った途端、興味をなくす人が大半だ。
「知ったうえで声を掛けてきたのだから、それなりに本気だったんじゃないかしら」
「それはまた奇特な。彼が私を選ぶ利点はないでしょうに……」
以前お嬢様から聞いた話では、彼は小さな商会の跡取り息子だったはず。将来商会を背負う身なら、もう少し打算的でも良さそうなのに……。やはり、恋というものは理屈ではないのだろうか。
「そうとも言えないわ。あなたは私のメイドなのよ。フィオルテ商会の跡取り娘のお気に入り。その肩書だけでも、小規模な商会にとっては十分な利点になるわ」
「そうなのですか?」
「お気に入り」という言葉にくすぐったさを覚えながらも、予想外の返事に私は目を丸くする。
肩書についてそこまで深く考えたことはなかった。けれど、私が思っている以上に「お気に入りのメイド」という立場は大きな意味を持つらしい。
「それにあなたは商会の見習いとしても働いているもの。うちの情報に明るい者からすれば、将来の私の秘書候補と考えられていても不思議ではないのよ?」
「えっ……他の方からそんなふうに思われていたなんて、驚きです」
「アリーチェが水の州に残るつもりだったなら、遠くない未来で本当にそうなっていたかもしれないわよ」
「そんな、冗談が過ぎますよ」
私が苦笑混じりに受け流すと、お嬢様は小さく肩をすくめて、「本気なのだけど……」と呆れ声を漏らされた。
「あなた、この一年半でどれだけ自分の有益性を証明したと思っているの? 私なら、それくらいの立場は用意するわ。お父様だってきっとそう。……お父様から、そういう話は出なかったの?」
思わぬ問いかけに、私は一瞬考え込んだ。お嬢様からはもちろん、旦那様からも引き留めの言葉はいただいている。
そういえば、水の州に残る意思があるのなら、今以上の立場を用意する考えがあると旦那様から言われたことがあったけれど、あれがそういう話だったのだろうか。
とはいえ、帰郷の気持ちに揺らぎはなかったから、具体的に聞くこともなく丁寧に断らせてもらったのだよね。
私の反応から察したのか、お嬢様は肩をすくめて、ふうっとため息をこぼした。
「……まあ、あなたのことだから。話を聞いたとしても、考えは変わらなかったのでしょうけどね」
その声音には、少し自嘲めいた響きがあった。けれど次の瞬間には、話題を切り替えるように表情を変える。
「ところでね。親族が経営している商会や、知り合いの商会から何人か見習いが来る話が出ているの」
「見習い、ですか?」
話題が仕事のことになったので、私は思わず姿勢を正した。そういえば今朝、旦那様の執務室に呼ばれていたけれど、その時に話されていた件なのだろうか。
「見習いといっても短期よ。商会の息子が経験を積むためと、商会同士の交友を兼ねて、半年くらい在籍する予定なの。本当はもう少し先の予定だったのだけれど、少し早まったみたい」
「何か前倒しになる理由があったのですか?」
素直な疑問を口にすると、お嬢様はぴしっと私を指差した。
「早まった理由は、あなたよ」
「わ、私ですか?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「萌水祭で商会の露店が好評だったでしょう? それで他から探りが入ったみたいなの。しかも、いろんな発案がアリーチェによるものだって広まったらしくて、親族の間でもあなたの名前が話題に上がっているらしいわ」
フィオルテ商会はそれなりに歴史ある商会だけあって、親族の中にも別の商会を経営している者は多い。互いに競い合いながらも、本家であるフィオルテ商会の動向には常に敏感だ。
最近、確かに視線を感じることが増えていたけれど、気のせいではなくそれが理由だったみたいだね……。
「一応、親族から問い合わせがあった時点で従業員には口止めしたみたいだけれど、『私のお気に入りのメイドで、商会でも優秀な企画者。でももうすぐ辞める予定』――そのあたりは、もう広まってしまっているようね」
お嬢様の言葉を聞きながら、そこまで伝わっているのかと驚かされた。
萌水祭が終わった後、商会の従業員には夏の終月の半ばに辞めることは伝えてある。
予想はしていたけれど、イヴァンをはじめ仲良くしていた人たちには強く惜しまれた。けれど、帰郷のためだと理由を伝えると納得してくれて、夏の終わりには送別会を開こうと言ってくれていた。
一方で、屋敷の使用人たちには冬のうちに辞めることを知らせてある。多少なりとも家人の生活に影響するため、早くに伝えておいたのだ。
お嬢様付きのメイドは、私の後をゼータさんが引き継ぐ予定なので大きな支障はない。とはいえ、半年以上前から新しい人材を探しているのに適任が決まらないのは問題とも言えるけれど……。
お嬢様ご自身も、どうしても私と比べてしまうから、私が州都を去った後にゆっくり決めたいと仰っていた。
「辞める今だからこそ勧誘してみようと考えているのか、あるいは単純に能力を確かめたいだけなのかは分からないけれど……」
お嬢様は小さく息を吐き、私を真っ直ぐ見つめた。
「私もお父様も、アリーチェの意思を尊重しているから、無理強いするようなことはしないわ。でも……今度来る見習いがそうとは限らないし、出向先で問題は起こさないと思うけれど、一応気をつけておきなさいね」
「はい……」
小さく頷きながら、その忠告を心に刻んだ。
この様子だと、少なくとも一ヵ月半くらいは見習いたちと時期がかぶることになるだろう。厄介なことに巻き込まれないように、しっかり気を引き締めておかなくては……。
始まったばかりの今年の夏は、慌ただしくなりそうな予感がして、私は小さく息をこぼした。
夏になり、アリーチェは十三歳になりました。
州都を立つ日も刻一刻と近づいています。