98. ラクリマーレアに込める願い
大盛況のうちに萌水祭一日目は幕を閉じ、迎えた二日目もまた、フィオルテ商会の露店は朝から人で溢れていた。
限定百個の七宝の口紅ケースは、昨日だけで三分の二以上が売れ、残りも午前中にはなくなってしまいそうな勢いだ。鮮やかな七宝のきらめきに惹かれ、手に取るお客さまの顔は皆とても楽しげだった。
生花で彩られた香水売り場の売上も順調だったけれど、その中で今勢いを見せているのは、今年の春の新作――とある男性用香水だった。
売上げ好調なその香水は、実は私の提案によって生まれたものである。従来の、ただ男性が好む香りではなく、女性が心地よく感じる男性的な香りを形にしたものだ。
試作の過程で、百人以上の女性から好ましいと思う男性の香りに関する意見を集め、分析を重ねて完成させたものだった。
昨日、その香水をまとって告白した男性が成功したらしく、早くも「恋を招く香水」として噂が広がっているらしい。
あまりの噂の広まりの早さに、もしかすると旦那様が裏で手を回しているのでは……なんて考えが頭をかすめた。ただ、男性一人で売り場を訪れる姿は珍しいため、露店を賑わす男性客の多さに、噂の影響の強さをひしひしと感じていた。
他と違ってこちらの大躍進は予想外だったけれど、生花の飾りによる集客、七宝ケースや男性用香水の売上げを思えば、発案者として十分に胸を張れる結果になったのではないだろうか。
売上はこれ以上ないくらい好調で、従業員たちの間では「これは特別手当が出るに違いない」と期待の声も高まっている。昨日までの苦労が、こうして目に見える形で報われていくのは、素直に嬉しかった。
(そういえば、特別手当は私も対象なのかな……?)
そんなことを考えながら倉庫から商品の入った箱を抱えて戻っていると、後ろから声を掛けられた。
「おーい。アリーチェ、迎えに来たぞ」
声に振り返ると、商会の裏口からナリオが入ってきたところだった。
「あれ、もうそんな時間なのね。忙しくて時間を気にする余裕がなかったわ。今準備をしてくるから、悪いけれど少し待っていてちょうだい」
今日の私の仕事は午前までで、午後からはお嬢様が萌水祭を散策されるので、その付き添いをすることになっている。ナリオはその護衛役として商会に来たのだ。
私は商品の入った箱を露店へと届け、店番をしていたメリッサに声をかけた。
「メリッサ、私はそろそろ上がるね」
「アリーチェ、お疲れ様。萌水祭、楽しんできてね」
「ありがとう。メリッサもね」
従業員は交代で萌水祭を散策する時間を取ることになっているのだけれど、メリッサは午後にガスパロ様と一緒に回るのだと聞いている。
そのことを軽く匂わすように言うと、メリッサは頬を赤く染めてはにかむような笑みを見せていた。
他の従業員にも挨拶をした後、お嬢様を迎えに会長室へ向かった。そして、そのまま二人で商会の更衣室へと移動する。
商会の後継者として顔見せを行っていたお嬢様は、いかにも商談向きの華やかな衣装を身に着けておられた。そのままで祭を散策しては目立ちすぎてしまうので、ここでもう少し落ち着いた衣装へと着替える予定だ。
お嬢様が今日選ばれたのは、淡い紫を基調とした衣装。胸元や袖口には白いレースがあしらわれ、紫のやわらかさを一層引き立てている。華やかさを残しながらも、先ほどの装いよりずっと少女らしく、春祭りを歩くにはぴったりだった。
衣装を整えながら、鏡に映る自分の姿を見てそっと微笑むお嬢様は、祭をとても楽しみにしているように見えた。今年初めての参加だから、無理もない。
お嬢様の着替えを終えると、今度は私が従業員用の制服から濃紺のワンピースへと着替える。華やかさはないけれど、お嬢様の隣に付いて回るならこれ以上ふさわしい装いはないだろう。
私が着替えている様子を見ながら、お嬢様がふと呟いた。
「そのペンダント……着けているのね」
お嬢様の視線は、私の首にかかった小ぶりのペンダントに向いていた。以前にルキス様からいただいた、花の彫金が施されたペンダントである。
「はい。せっかくの頂き物ですので、服の下に着けております。小ぶりですから、邪魔にもなりませんし……」
そこまで強い理由があるわけではないけれど、あのときのルキス様の口ぶりから、身に着けておいた方が良いような気がして、それ以来、普段から欠かさず着けるようにしていた。
ただ、メイドという仕事柄、仕事の邪魔にならないように服の下が定位置ではあった。
「いいんじゃないかしら。アリーチェによく似合っていると思うし。そうだ、せっかくだから祭を見て回る間は、服の上に出しておいたらいいんじゃない? 虫除けにもなるわよ」
お嬢様が軽く笑って言った。護衛のナリオが傍についている以上、虫除けは必要ないだろう。とはいえ、自分で見える場所に出そうとは考えたことがないのも事実だ。
確かに、祭の間くらいは出しておいても悪くないかもしれない。
「そうですね……では、せっかくですから」
そう答えて、まだボタンを留めていなかったワンピースの襟元からチェーンを引き出し、ペンダントを胸の上に飾った。
「うん、今の服にもよく合っているわ。それ、趣味は悪くないわよね」
少し複雑そうな声音で言うお嬢様に対して、私は思わず苦笑を浮かべる。
ルキス様から装飾品をいただいたことで、お嬢様も私に何か装飾品を贈りたいと言われていた。とはいえ、何かの褒美というわけでもなくいただくのはマズイため、申し訳ないけれど丁重に断らせてもらっていたのだ。
そのことに些か不満があるようで、ルキス様からいただいたペンダントについて話をする時は、いつもこんな感じだった。
贈りたいという気持ちはとても嬉しいけれど、使用人の間で不公平が起きてしまうのは、今後のことを考えても良くないからね……。
支度を終え、ナリオと合流すると、私たちは商会の裏口から外へ出る。
「アリーチェ、ナリオ。早く」
お嬢様が数歩小走りに進んで振り返った時、淡い紫のスカートがふわりと春風に揺れた。私とナリオは慌ててお嬢様の側に駆け寄ると、三人で並んで通りへと出る。すぐに人混みに飲み込まれてしまったので、はぐれないように私はお嬢様と手をつないだ。
「そろそろ四の鐘が近いので、少し急ぎましょう」
ナリオの声に促され、私たちは花飾りであふれた道を早足で進む。最初の目的地は小神殿。
しばらく歩き、小神殿の前の広場に入ったところで、ちょうど真昼を告げる四の鐘が鳴った。正面の大扉が開かれ、中から神官たちが花籠を抱えて姿を現す。
大扉の前に整列した神官たちは、群衆のひとりひとりに白い花を手渡し始めた。
「こんなにたくさんの人が集まっていたら、ラクリマーレアはすぐなくなってしまうのではないの?」
お嬢様が少し不安そうにナリオに問いかける。ラクリマーレアは神官たちが配っている白い花の名前だ。
「大丈夫ですよ。毎年、十分な量が用意されていますから。この時間に並んでいる人の分なら余裕であります」
ナリオが落ち着いた声で答えると、お嬢様は安堵の息を漏らした。
「それなら良かったわ。花自体は見たことがあるけれど、自分で受け取るのは初めてだから、とても楽しみだわ」
「私も初めてなので、楽しみです」
去年、私が萌水祭を見て回った時は、花を配る時間と被らなかったため、もらうことが出来なかった。そのため、お嬢様から散策の話を聞いた時、私も密かに楽しみにしていたのだよね。
「俺は子供の頃以来ですから、十年ぶりくらいかもしれないですね」
そんなナリオの言葉を聞きながら、私たちは人の流れに従って、列の後ろの方に並ぶ。老若男女、さまざまな人たちが花を求めて並んでいた。
「そういえば、ラクリマーレアは神樹の森に咲く神聖な花だと聞いているけれど、毎年決まってこの花を配るのは何故なの?」
「確か、健康を祈るため……だったかな?」
お嬢様がふと思い出したように尋ねると、ナリオが首をかしげながら答える。私はそんな二人を見ながら、さりげなく口を開いた。
「大切な人の健康や幸せを願う花と言われていますから、毎年の縁起物として配っているのだと思います」
そう口にしたあと、お嬢様とナリオがこちらを興味深そうに見ていたので、「以前、神殿図書館で読んだ本の中にラクリマーレアについての伝承があったのですが……」と切り出しながら、少しだけ声を落として話を続けた。
「――はるか昔、水の神樹に祈りを捧げた一人の女性がいたそうです。その女性には死の淵に瀕している恋人がいて、どうか助けてほしいと一昼夜にわたり神樹に祈りを捧げ続けたのだとか。そして祈りの果てに、水の神からお告げを授かったと伝えられています」
黙って耳を傾けてくれている二人を軽く見回しながら、一息ついて話を続ける。
「膝元に咲く花にたまった雫を恋人に飲ませなさい――そう告げられた女性はその花を持ち帰り、雫を飲ませました。するとたちまち恋人は回復し、命を取り留めたそうです。雫をためたその花こそがラクリマーレア。花に宿る雫は、女性の祈りの涙だとも、神樹の朝露だとも言われているそうです」
そこで一旦言葉を止めると、私は話の最後を結んだ。
「白い花弁の中心にだけ鮮やかな青色が宿っているのは、雫により染まったのだと――本にはそう書かれていました」
話し終えると、お嬢様とナリオは「へぇ〜」と感嘆の声を上げた。私としては、ただ読んだ本の内容を話しただけなのだけれど、二人の反応に少し照れくささを感じた。
「アリーチェは博識だな。図書館に通っていたのは伊達じゃないな。何度ももらっていたのに、全然知らなかったよ」
「でも、私が以前に見たラクリマーレアの中心は淡い水色だったと思うけれど……」
「確かに、昔俺が受け取ったのも水色だった気がするな」
二人が不思議そうに首をかしげる。本の中ではそう描かれていたけれど、実際に花を見たことがあるお嬢様とナリオが言うなら、その通りなのだろう。
「もしかすると、伝承で語られるラクリマーレアと、今のラクリマーレアは少し違うのかもしれませんね」
「確かに。伝承と同じ癒やしの効果を持つ花なら、人がもっと押し寄せて大混乱になっていたはずだわ」
お嬢様の冗談めいた言葉に、私とナリオも思わず笑みをこぼす。確かに、そんな貴重な花が配られるとなれば、今のように皆が粛々と順番を待つようなことにはなっていないだろう。
そうしているうちに、私たちの番が回ってきた。神官から「あなたに健康と幸福が訪れますように」と言葉を添えられて渡された白い花を、私は丁寧に受け取る。
先ほど話していたように、手の中のラクリマーレアの中心は、淡い水色に染まっていた。伝承とは異なるけれど、重なり合う白い花びらと淡い水色は、まるで爽やかな春の空を閉じ込めたように愛らしかった。
「アリーチェ。この花、あなたにあげるわ」
花を受け取り、私たちが人混みから少し離れたところで、お嬢様が私にラクリマーレアの花を差し出した。
私は軽く目を見開き、お嬢様と花を見比べる。
「旦那様や奥様に差し上げなくて、よろしいのですか?」
「いいの。お父様たちには来年あげればいいから。これなら、受け取ってくれるでしょう?」
小首を傾けながら見上げてくるお嬢様の眼差しは、どこか確信めいていた。
お嬢様が「これなら」と言ったのは、お嬢様からの装飾品を私が断ってしまったことを指してのことだろう。それがわかるからこそ、私はそれ以上何も言わず、柔らかな笑みを浮かべて「もちろんです」と答えた。
お嬢様は軽くコホンと咳払いをした後、改めて私にラクリマーレアの花を差し出した。
「……アリーチェに健康と幸福が訪れますように」
「ありがとうございます、お嬢様」
お嬢様から差し出された花を恭しく受け取る。同じラクリマーレアの花なのに、お嬢様から受け取ったそれは、神官から渡される花よりもずっと特別に思えた。
そして今度は、代わりに私が持っていた花をお嬢様に差し出した。
「では、お嬢様にこちらを。ヴィオラお嬢様に、末永い健康と更なる幸福が訪れますように」
「……ありがとう、アリーチェ。大切にするわね」
お嬢様はぱっと明るい笑顔を浮かべると、大事そうにラクリマーレアの花を両手で包んだ。
その後は、お嬢様の希望に従って、露店で花をかたどった砂糖菓子を頬張ったり、花の品種改良の品評会をのぞいたり、広場で歌劇の一幕を観たりと、めまぐるしくも楽しい時間を過ごしていった。笑顔を浮かべるお嬢様の横顔を見ていると、こちらまで胸が弾むように感じた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、気づけば太陽が傾きを増して六の鐘が鳴り響いた。
お嬢様が散策を許されているのはこの鐘が鳴る頃まで。これ以降に遅くまで残っていると日が落ち始めるため、帰途を促すにはちょうどいい時分だった。
同じことを考えていたのか、ナリオがお嬢様に声をかけた。
「お嬢様、そろそろ戻り始めましょうか」
「……戻る前に、最後に内門に行きたいのだけれど、いいかしら?」
お嬢様は少し考えると、微笑んで言った。お嬢様が希望した場所は、商業区と市街区を分ける内門だった。
「行くのは構いませんが、旦那様から商業区の外へは出てはいけないと厳しく言われていますから、市街区へは行けませんが……」
「分かっているわ。用があるのは内門そのものだから、問題ないわ」
意図が分からず不思議に思っていると、お嬢様が内門へ行きたい理由を知っているのか、ナリオが「大丈夫、行ってみれば分かるさ」と笑って言った。二人の様子に押されるように、私は了承を返した。
そして、少し歩いた後に辿り着いた内門で、私たちはなぜか内門の上にある見張り台に上がっていた。
基本的に平時は閉ざされている場所だけれど、萌水祭の間だけは特別に開放されるらしい。ナリオが内門の警備兵に声をかけ、私たちはそこに上がることができた。
「わぁ……ここからだと、湖まで一望できるのですね」
高みから眺める街並みの奥に、鮮やかなリナ・アズルの湖が広がっていた。上流居住区の川から見る湖とはまた違った美しさがあった。
「もう少し暗くなれば灯籠が湖に流されて、とても幻想的になるらしいわ」
「なるほど、ここから眺められるのですね」
「ええ……。でも、その時間まで残るのは、さすがにお父様が許してくれなかったから」
お嬢様の声音に、わずかな落胆がにじんでいた。
灯籠流し。萌水祭の二日目の夜、灯籠に願いを込めて湖に浮かべ、水の神に祈る習わしだ。夕暮れから八の鐘まで催されているらしいけれど、そんな時間にお嬢様が出かけることを旦那様が容認するはずもない。
「せっかくなら、灯籠が湖に浮かぶ光景をアリーチェと一緒に見たかったな……」
その一言で、お嬢様がここに来たいと望まれた理由を悟った。灯籠が流される時間までは残れないけれど、せめてその光景の一端を私に見せたかったからなのだろう。
「ありがとうございます。そんなふうに思っていただけていたなんて……。灯籠は見えなくても、お嬢様とここで眺めた景色はきっと忘れないです」
「……それなら良かった。私も、きっとこの光景は忘れないと思うわ」
そう呟くお嬢様の横顔は、どこか寂しげに見えた。
その時、ひゅうと風が吹き抜け、彼女の金の髪を揺らす。太陽が分厚い雲に隠れたのか、視界が一瞬だけ薄暗く沈んだ。
そのわずかな陰りの中、湖面に数えきれぬ灯籠の光が揺らめく光景が、浮かんで見えた気がした。