9. 彷徨い
私の頭上、天井のように広がる木々の隙間から、いくつもの小さな煌めきが私の瞳に届く。高く広がる漆黒の夜空には無数の星々がキラキラと輝いている。どこにいても、星の煌めきは変わらない……。
――あなたは、真夏の星降る夜に生まれたのよ。
幼い頃、夜空を見ながら何度も聞かせてくれた母の言葉。私が生まれたのは、月のない夜だったらしい。空には満天の星が瞬き、あまたの流星が夜空に軌跡を描いていたのだと、母が教えてくれた。
――流れ星があまりに多かったから、星が全部落ちてしまうのではないかと思ったのよ。きっとあなたへの祝福だったのでしょうね。
母は、冗談交じりに何度も語ってくれた。つい三日前に、この懐かしい話を聞いたばかりだというのに、随分前のことのように感じる。
木の枝に跨がり、星の煌めきを眺めながら、遠く離れた故郷を、母を、懐かしい気持ちで思い出す……。
峡谷に落ちて流されたのが今朝の出来事。川から這い上がり一日歩き続けたけれど、私は未だ深い森の中にいた。
夏ということもあり、服は日中のうちに乾き、川から上がった時の濡れ姿に比べれば随分とマシな格好になったと思う。びしょびしょになった靴も、乾いた草を入れたり、休憩のたびに靴を脱いで干したことで、今はほとんど乾いている。
(後で、ちゃんと手入れをしないと……)
数日のうちに傷だらけになってしまった靴を見ながら、私は小さくため息をつく。
(全ては、無事この森を抜けられればの話ではあるけれど……)
日が落ち、森がすっかり闇に包まれた中で、私が今日の寝床として選んだのは木の上だった。この森の生態が分からないから絶対安全とは言えないけれど、地上の獣を避けられる分、木の上は比較的安全な寝床と言えるだろう。
私の体重を十分に支えられる太い枝に跨がり、背を幹に預けた私は、瞬く煌めきをぼんやりと見上げていた。
「こんなことになるなんて、全く想定していなかったよ……」
カルロが白角のペンダントを貸してくれると言った時に、素直に受け取っておくべきだったのだろうか……。こんなにすぐ困難が訪れるとは、本当についていない。
幸運のお守りを放棄したことで、幸運の女神にそっぽ向かれたとか? いや、むしろ高い崖から落ちて流されても無事だったのだから、ある意味幸運だったのだろう……。
「それでも、星を見るのは、今夜が最後かもしれない……」
私のため息混じりの呟きは、深い森の中に溶けて消える。時折、風が梢を揺らす音や動物たちが立てる音、小さな鳴き声が聞こえる以外は、随分と静かなものだ。
今は行儀の良いこの森も、いつ牙を剥くかもしれない。私は両手を組み、額に手を当てて目を閉じた。
「夜を統べる闇の女神よ、どうか小さきこの身を、森の獣からお隠し下さい……」
今の私に出来ることは、神に祈ることぐらいしかない。どうかお願いします、と心の中で何度も祈った後、目を開けた。
そして、もう一度空を見上げて煌めきを目に映し、訪れる眠気に身を任せてまぶたを閉じた。
(どうか、明日は人に出会えますように……)
「人の痕跡が見つからないなぁ……」
翌朝、再び森の中を歩き始めた私は、一向に変わらない景色の中にいた。歩けども歩けども、人工物どころか人の手が入った形跡もない。この調子だと、人里を見つけるのにはまだ時間がかかりそうだ、と心の中で独りごちる。
幸い、木苺やベリーの実などの食べられる果実を見つけることができたので、暫くは何とかなると思う。とはいえ、このままずっと森を彷徨うのにも限界はくるだろう。
火を点けられればもう少し別のものも食べられるのだけれど、ないものは仕方がない。
見つけた物の中で、まともに食べられるのは、今のところ果実だけだ。食べられる木の実も見つけたけれど、そのまま食べるともの凄く苦いので、これを食べるのは最終手段になるだろう……。
(やっぱり、体力があるうちに人を見つけないとだよね……)
果実は見つける度に摘み取っているから、腰に引っかけた靴下は摘んだ果実でいっぱいだった。ちなみに、腰には他に、小銭の小袋と木の実が入った小袋が引っかかっている。
唯一の荷物を入れられるポシェットは、中に大きな石を入れて肩に掛けている状態だったりする。
果実が実っているということは、それを食べる動物がいて、さらにはその動物を食べる肉食動物もいるということを意味している。つまり、いつ何時、自分も獲物として襲われてもおかしくないのだ。
そういう理由から、いざという時の武器として、ポシェットに石を入れて持ち歩いていた。母と一緒に作ったポシェットをこんな風に使うことは不本意だったけれど、背に腹は代えられないよね……。
万一の時はこれを振り回して応戦するつもりだけれど、今のところ、石の出番はまだない。願わくばこのまま最後まで出番がないことを祈っている。
途中休憩を挟みながら、今日も川近くの比較的緩やかな斜面を選んで歩く。私がそれを見つけたのは、太陽が真上に差し掛かった頃だった。
川岸に転がる大きな岩、そしてその横に漂流物が溜まったくぼみがあった。おそらく、岩によって水の流れが変わり、漂流物が集まりやすい場所なのだろう。
川岸のくぼみに、私の視線が引き寄せられる。そこには、普段森の中にはない鮮やかな色があった。私は瞬きすることも忘れて、それを食い入るように見つめる。
「ニンファ……」
私は小さく名前を呼びながら、足元に気を付けつつ、慎重にくぼみへと近付く。
つい先日、同じ馬車に乗り、これから宜しくと言い合ったニンファが、物言わぬ姿でそこにいた。うつ伏せ姿ではあるけれど、特徴的な深緑の髪色と服装から見て、間違いはないだろう……。
無事でいて欲しいという願いも虚しく、容赦のない現実がそこにあった。まだ出会って間もないけれど、それでもニンファの明るい笑顔はすぐ思い出せるほど鮮明に覚えている。
無力感と喪失感に襲われながら、一歩間違えば私も命を落としていたという恐怖に血の気が引く思いがした。運良く這い上がっていなければ、誰にも見送られることなく、私も一人ひっそりと森に還ったかもしれない……。
一縷の望みをかけて、川から引き上げてみたけれど、ニンファの身体は冷たく、既に命はこぼれ落ちていた。
重くなる心を立て直しながら、ニンファの傍らに膝をつき、私は祈るように両手を組んだ。
「始まりと終わりをもたらす白き大神よ、解き放たれし魂に癒やしを与え、永遠の安息へとお導きください」
死出へと旅立つ者への祈りの言葉。今は亡き祖母を祈りの言葉で送ったのは、四年前のことだ。
(どうかニンファの魂が心安らかでありますように……)
伏せていた顔を上げて、再びニンファの姿を視界に入れる。本来なら、土に埋めてあげるのが一番だと言うことは分かっている。でも、道具も腕力もない私にはニンファが入れるほどの大きな穴を掘ることは不可能だった。
「このままで、ごめんね」
謝りながら立ち上がり、斜面に足をかけたところで、ふとある考えが浮かんだ。再びニンファの側に屈み込むと、ニンファの首に引っかかっていた橙色のリボンを解いて引っ張る。抵抗なく、リボンはすっと首から外れた。
「ニンファ、リボンを持っていくね」
立ち上がり、それを丁寧に腰の紐に結ぶと、今度こそ斜面を上へと登る。上からニンファを見下ろしながら、「バイバイ」と小さく呟く。
川から這い上がって最初に立てた目標は、帰るという漠然とした目標だった。それから幾度となく、「何処に? 奉公先に?」と自問自答していたことが今、自分の中ではっきりとした形になる。
(私は、家に帰る)
全ては家に帰ってからだ。奉公先のことはそれから考えればいい。
ニンファの故郷は、私がいたティート村の隣の村。ニンファも連れて帰ってあげるね。
「一緒に帰ろう、ニンファ。私たちの故郷に……」
私はそう言いながら腰に結んだニンファのリボンに触れ、家に必ず帰るという気持ちを一層強くした。
母親との幼い頃の記憶……。昔を懐古するくらい、森での放浪は精神力を削られてます。
アリーチェは厳しい現実に直面しました。