豊臣家
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遡ること1611年、8年ぶりに家康は秀頼との対面を果たした。
ここでも家康は秀頼の気丈夫さを見て攻め滅ぼす気持ちになったと伝えられている。
どこまでも家康が悪玉という立場の話しか伝わっていないので、何をかいわんやという感じなのだが、この対面は和やかな形で終始したらしい。
家康が自分の子『義直』を紹介し、よろしくと頼み秀頼も快諾したという。
この会談は、北政所や加藤清正、浅野幸長らの説得で秀頼が了承して実現したもので、
淀君の猛反対を押し切ってのことだったらしい。
本当に残念なことなのだが、淀君がいなかったら豊臣家は滅びていたのだろうか?
案外、小大名とはなっても残っていた可能性があると思うのだ。
淀君は浅井長政の娘だが、母親はお市の方、そして叔父に織田信長を持つ。
名家の出というプライドもあっただろう・・・
しかし淀君の父を自害に追い込み、母親の再婚先である柴田勝家を死に追いやったばかりでなく母親をも自害に追いやった秀吉の・・・憎さ余って余りある仇敵の・・・
あろうことか側室となった我が身!
もしかしたら豊臣家は憎くて憎くて仕方がない存在だったのではないだろうか?
いっその事、息子共々豊臣の血を完全に抹殺してやりたいと思って、家康に徹底的に反抗の姿勢をとり続けたとしたら深読みのしすぎだろうか?
しかし、それとは別に家康は参勤交代に応じて淀君を江戸によこすか、少なくても国替えをするのなら矛を収めると伝えている。
随分な譲歩ではないだろうか?
参勤交代は言わば強制事項である。
本来ならこれを拒否しただけでも討伐の対象になるし、国替えも巨大な大阪城は豊臣家の身代には手に余るものなのだ・・・220万石の歳入でやりくり出来ていたのが、今は65万石しかないのだから・・・
家康は戦争を回避できるのなら、豊臣家という特例中の特例を作って存続させてやるつもりだったのかもしれない、
かつて大老職を授かって盟主として仰いだ豊臣家に対する最大の恩返しをしようと思っていたのかもしれない。
案外、家康は豊臣秀頼には好感すら抱いていたのではないだろうか?
こう書くとあまりにも逆説に聞こえるだろうが、それなら秀頼を恨む理由は何だろう?
これもまた明快な答えはないのではないだろうか?
かつて大老として支えてきた豊臣家の御曹司である。
その成長は頼もしい限りだし、今は立場が逆転して豊臣家の方が一大名に成り下がってしまったが、臣下の例さえ尽くしてくれればこの国はようやく一つになれるのだから・・・
幕府開設から12年の間、ご法度破りを大目に見てきたのも、かつての主筋であるからという思いもあったかもしれない。
とにかく家康は最後の最後まで豊臣の存続を願っていたとも思えるのである。
しかし時代の流れというものは非情なものである。
そんな家康の願うとは裏腹に、大阪城を取り巻く環境は異様な空気に満ちていた。
豊臣家は、特に淀君は何かにつけて家康に反抗的な態度をとり続けていたが、
淀君は、かつては我が豊臣の家来であった者の言うことなど聞けるかという、言わば強情を張っているだけで、もとより合戦をしてまで対立したいとは思っていなかったに違いない。
しかしそんな淀君の風評が尾ひれを付けて浪人たちの耳に入った。
徳川に楯突く豊臣家を旗印として担ぎ上げ、一泡吹かせてやりたい・・・
そんな浪人たちが大阪城に集まり始めたのだ。
始めは少人数だったものが、次第に膨れ上がり、毎日のようにぞくぞくと列をなして
入城するようになった。
淀君にしても秀頼にしても、初めは傍観していたものの、事の重大性に気が付いたときには対処できないほどに膨れ上がってしまったのではないかと思う。
しかしここに大野治長という豊臣家家老が歴史上に現れる。
彼は淀君の乳母の息子という立場で秀吉の馬回り衆に属していたが、秀吉の死後、豊臣家の側近として、また豊臣家家老『片桐且元』が失脚するとその後釜として主導権を握った男だ。
一説では反家康派の急先鋒ということになっているが、元々家康陣営の武将で関ヶ原では功績があって加増されたり、豊臣家へ家康の書簡を届けたりと、それなりに活躍していたようだ。
それはともかくとして、ぞくぞくと大阪城に入城してくる浪人衆を見て、大野治長は自分の裁量もまんざらではないと気を良くしたのではないだろうか・・・
彼が浪人衆を束ねるということは、結果的に豊臣家が深くかかわらざるを得なくなる。
ここに来て豊臣秀頼の意向とは関係なく、大阪籠城衆は豊臣という旗頭を上げ
家康に反旗をひるがえし始めた。
徳川政権になって13年が経過し、ようやく世の中が平穏になろうとした矢先、
家康の温情がかえって仇となり、再び戦火の火種が燃え上ろうとしていた。
しかしこの火種は豊臣だけのせいではない・・・
元はといえば、鎌倉型の幕府を目指すため厳しい御法度を作り、次々と大名家を潰して浪人を大量発生させた政権側の失策にも端を発している。
この問題に決着を付けなくてはならなかった。
つまり反乱を起こした浪人たちをこの機に乗じて一気に粛清してしまおうということである。
家康は1614年10月1日、全国の大名に陣触れを出した。
ここに大阪における決戦(冬の陣)が生起するのである。