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徳川家康を検証してみる  作者: 山脇 和夫
5/9

それぞれの思惑

5

ここで徳川家康が、筆頭家老の私が・・・というのはまだ尚早だろう。

それでは他の大名も我こそはと立てば、また戦国時代に逆戻りになるからだ。

ここで一つ押さえておきたいことは、秀吉の死を大名たちはどのように捉えたかだ。

あまりこの点に触れた書物はないように思えるので、私の想像の域を出ないのだが、

「あぁ、ようやく死んでくれたか・・・」ではないかと思うのである。

それも大多数の大名たちが・・・

戦国時代は下剋上を生み、下級者が上級者を滅ぼして大名になり上がったり、出世を重ねて平時では考えられない地位に上り詰めたり。

それどころか農民や商人、はたまた僧侶が武士になり、やがて大名に上り詰めたりと、何でもありの世界だった。

秀吉が良い例で、元はといえば農民上がりで、遂には天下まで取ってしまったのだ。

しかし本来名家出身であった武士たちには、どのように映っただろうか・・・?

ドイツにおいて、かつてヒトラーが台頭し、ついに総統の地位まで上り詰めた。

もちろんドイツ国防軍の総帥でもあるので、並み居る将軍たちは彼の膝元に畏かなくてはならなかったが、元々ドイツの高級将校は貴族の出身者であった。

つまり特権階級である。

彼らは事あるごとにヒトラーのことを「あの伍長めが(ヒトラーは第一次大戦では伍長として従軍していた)」と罵っていたようだ。


天皇家より下賜された名家の末裔としてプライドを持っていた武将たちは、下々とは違うのだというプライドは持っていたし、実力で生き残ってきたという自負もあったことだろう。

それがこともあろうに、農民という下賤出身の者に平伏しなければならなかった。

そんな武将たちから見たら、ウソのような馬鹿げた世がようやく終わったと安堵したのではないかと思うのである。

彼らとしては、本当の意味での武士の棟梁を望むもの、或いはまた戦国の世に戻り一旗揚げてやろうかと野心に燃える者など様々だったかもしれない。


しかし彼らとは別に、恐怖と不安に慄いた者たちもいたはずである。

今までは秀吉という虎がいたればこそ皮を着て威勢を誇った者たち・・・

奉行衆たちである。

秀吉に認められて立身できたが、元はといえば下賤の身であったり、縁者というだけで大名に取り立てられたりした者たちである。

その者たちは秀吉がいたればこそ仕事もあり、権威を振りかざして並み居る大名たちに裁可を下すことが出来たのだ。

しかし秀吉がいなくなった途端、彼らの仕事は無くなったのである。

今後自分たちはどのように振る舞えばよいのか・・・不安でいっぱいだったはずである。

彼らとしてはあくまでも豊臣家という衣にすがる他なかったのではないかと思う。


そしてもう一つの勢力・・・

秀吉によって育てられ、農民あるいは下級武士でありながら、己の実力を発揮して大名に上り詰められた者たちだ。

福島正則や加藤清正のような者たちである。

彼らから見れば、同じ成り上りでも筆やソロバンだけで大名になった者らとは違うんだぞという気概があったのではないかと思う。

この三派閥の思いが関ヶ原に至るまでの間、拭いきれない大きな確執となって戦いに発展してゆくのである。


秀吉の遺言では、秀頼が成人するまで後見すること。

何事も五大老の合議のもと、決定せよとのことであった。

よくこの当時の通説を読んで不思議とは思わないだろうか・・・

家康の独走に異を唱え、反目を露わにする石田三成ら奉行衆、それと仲が悪い福島や加藤らの逆襲という構図だが、建前では豊臣政権下の出来事である。その頃、主人である豊臣家は何をしていたのだ?

五大老の他の者たちは何をしていたのだと・・・(前田利家、上杉景勝 毛利輝元、宇喜多秀家)

秀頼はまだ幼少であるので何もできないのは当然だが、豊臣家の家老たちはいたはずである。

もし家康の専横を見て見ぬふりしていたというのであれば、とんでもない怠慢である。

また五大老の一人、前田利家は早い段階から家康に同調していたのが明らかだが、

他の者たちが、家康に事あるごとに異議を唱えて反旗を振り上げたとは聞かない。

異議を唱えていたのは石田三成ということになっているからだ。

そもそも、秀吉子飼いの武将たち以外は、上杉にしても毛利にしても、島津や長宗我部に至るまで、秀吉によって攻められ、愛着ある故郷を召上げられ転封させられたり、勢力を大幅に削られて減封になった者たちばかりではなかったか・・・

秀吉の軍門には下ったが、秀吉亡き後、豊臣家に義を尽くす必要などない者たちばかりではないのか・・・

各大名たちも自分の知行地があるので、次々と国元へ帰って行った。

五大老の面々も時を置いて国元へ去って行った。

しかし家康は伏見に残り、公務につき続けたのである。

時は慶長、朝鮮征伐の最中であった。

当然作戦は中止となり、その引き揚げ作業に忙殺される。

現在の韓国でも家康の評判が良いのも、家康の命で朝鮮からの撤退がなされたからである。


家康は五大老の合議なくして大名間の婚儀を取り決めたり、国替えを行ったりと、石田三成が異議を唱えることを行っている。

この時の模様が石田サイドの文献ばかりが残っており、家康の反論記事が無いところから

家康の専横であるとの批判が出るのだが、

そもそも大名間の婚儀をいちいち五大老の話し合いで決められるものなのだろうか?

電話も何もない時代、話し合いの度に参集するのは難しいし、婚儀とは派閥の増減にもかかわる。

不利だと思えば反対するし、自分が有利だと思えば相手が反対する。

これでは全く婚儀など決まるものではない。

そもそも国元に帰られてては話し合う術もない。

この時、家康は自分の縁者を大名の子息に嫁がせているが、宗家であるならごく普通の行為であると思うのだが・・・。

またこの件は、秀吉の許可を得た今井宗薫に話を通してあると釈明している。

また国替えの件は、朝鮮征伐の不覚で叱責された小早川秀秋が、減封され越前北の庄に国替えになったのだが、秀吉がいまわの際に秀秋を元の知行地(筑前30万石)へ戻してやってくれという言に従ったまでとしている。

実は秀秋転封で空いた地は代官として石田三成が入っていたのだ。

秀秋にしたら三成に乗っ取られたような気になるし、三成にしても今度は家康によって秀秋に取り上げられた気分になる。

なんだかすでに関ヶ原の裏切り劇を彷彿させるような一件である。

また、大阪城では北政所が西の丸を去った後、家康が西の丸に入って政務をとったが

その折、天守ともいうべき建物を勝手に築城したということになっている。

しかしもし家康が豊臣の大阪城をいつか攻め取ってやろうと思うのなら、防御のかなめとなる天守を敵の城になど築くものだろうか?

これではいっそう防御力が増してしまうばかりだ。

もしこれも専横というのなら、豊臣秀頼を本丸から呈よく追い出して自らが本丸に入る方が遥かに早い。

それにこの件で、豊臣の方から強い批判が出ていたのであろうか?

強く批判しているのは石田三成であった。

三成は豊臣家の意思として家康に迫ったが、豊臣の名を前面に出しては虎の威を借りようとしていたのではないだろうか。


そんな中、次々と事件が発覚する。

福島正則や、加藤清正、黒田長政ら七将による、三成暗殺計画である。

三成は折しも死に際の前田利家の屋敷にいたが、危うく脱出し、こともあろうに家康の屋敷に飛び込んだのだ。

もし家康に野心があるのなら、ここで三成を放逐してしまえばいい。

そうすれば先の七将が上手く片付けてくれるはずだ。

しかし家康は次男の結城秀康を護衛に付けて佐和山まで送り届けている。

この件も家康の、後のちの陰謀の布石だと断言する向きもあるが、確証はない。

次は前田家を継いだ利長が家康暗殺をもくろんだという事件である。

これは五奉行の一人増田長盛が持ち込んだ密告ということになっているが、ガセネタだったようだ。

家康は今後不穏なうわさが出ないように前田家と姻戚関係を結んでいる。


そして関ヶ原の直接の原因となった上杉の反乱事件が起こる。

上杉が武器を集め、道や城を修復しているというものである。

この嫌疑では直江兼次の『直江状』が明快に弁明している。

しかし家康は上杉征伐の軍を参集し、会津に進軍するのであるが、大阪では三成が家康討伐の決起をする。

この時の家康の立場は『豊臣軍総大将』であった。

つまり家康が率いる軍勢は豊臣軍だったのである。

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