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徳川家康を検証してみる  作者: 山脇 和夫
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豊臣政権の実体

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さて、家康に話をもどそう。

正室に秀吉の妹、朝日姫をいただいた。

家康は喜んだだろうか?もちろん親族に列せられたからには当面は安泰だろうが、秀吉が百姓の出なのだから、その妹は秀吉の出世で野良着から十二単衣(十二ひとえ)に着せ替えられただけだ。

はっきり言えば百姓のオバサンをあてがわれたわけだ。

家康の気持ちは計り知れないが、あまりいい気持ちはしなかったのではないだろうか。

また加増されたとはいえ、住み慣れた東海の地を召上げられ、一度も訪れたことのない

関東に転封となった。

本来なら大都市を形成している小田原辺りに本拠を構えたいところだが、秀吉の警戒心を悟って、敢えて江戸を本拠にしたものと思う。

当時の江戸は、東京や八百八町の江戸ではない。

東京は山や谷の名が付くところが多いが、まさに山谷が続く農耕に適さない地であった。

現に江戸の地を巡る戦国期の争奪戦などという話は聞かない。

それほど価値のない土地だったのだろう。

家康が入府し、初めの事業は山を削り谷を埋めるところから始めなければならなかった。

住み慣れた東海の地とは雲泥の差であったが、家康は何の不満も漏らさず彼の地を去っている。

これらの事象を見ても大変な忍耐力の持ち主であることがわかる。


秀吉政権下では五大老の筆頭の地位にいたが、この地位も秀吉のゴマすりの一環だと思う。

そもそも大老職とはどんな仕事の内容だったのだろうか?

秀吉政権の実務を担当していたのは奉行たちで、秀吉の意向を反映させ実践する者たちだ。

大老は有力大大名で構成されていたが、奉行から上がってきた政策に裁可を下す。

つまりハンを押すだけだ。

政策は秀吉から奉行へのトップダウンだから、不裁可というわけにはいかない。

形式上、連帯責任のためだけに存在する。

現代風にいえば奉行が官僚であるならば、秀吉が総理大臣、しかし大老は大臣ではなく

連名者としての位置づけで、なんの決定権も持たない中途半端な役職であった。

ゴマすりというのは。有力大名に意味のない名誉勲章を付けただけということに所以する。

しかし。形式上とはいえ豊臣政権下に全国の有力大名が名を連ねる姿は

朝鮮への外征はあったものの、国内に敵というものが存在しない平和になった姿を連想させた。

家康も秀吉とは何のトラブルもなく、かえって秀吉から信頼すらされて

嫡男秀頼の後見人を託されたのだ。

若い頃より今川や織田、最後は豊臣と常に誰かの傘下におかれ、時には無体な条件に煮え湯を飲まさりたりと散々ではあったが、義をもってひたすら耐え、決して裏切ることなく今に至ったのだ。

そして最後に秀吉から後継者の後見を任された。

託された仕事は責任をもってやり遂げてきた男が請け負う仕事である。

そんな男が、今度は俺の番だとばかりに陰謀、策謀の権化と化し

自分の天下を不動ならしめるために豊臣家を滅亡させるだろうか?

次々と外様大名を潰し、いわれなき罪を着せて多くの命を奪うだろうか?

通説では語られていない家康の本当の実像があるのではないか・・・

今度は秀吉死後の家康に迫ってみたいと思う。


通説では、家康は秀吉が存命中も次の覇者となるべく虎視眈々と地位を狙っていたとある。

そのためには秀吉よりも長生きすることを心掛け、戦力を温存するために朝鮮出兵も断ったとか・・・

秀吉が亡くなると、待っていたかのように有力大名を味方につけ、秀吉の遺言を反故にし、専横を欲しいままにして豊臣家をないがしろにし始めた・・・ということになっている。

家康がこれほどまでの悪者扱いになったのはいつからなのだろう?

もちろん江戸時代に、家康の悪口を叩こうものなら命の保証はない。

関西人には太閤びいきの方が多いので秘かに陰口をたたいていたかもしれないが、家康の策謀化像が出来上がったのは、案外明治になってからではないだろうか・・・

天皇から政治を奪った幕府を悪と決めつけた皇国史観から由来するのではないかと思う。

創始者の家康を悪とすることで、それを倒す天皇を善とする放伐思想である。

そのおまけといってはなんだが、そんな悪人に滅ぼされてしまった豊臣家を憐れんだところから、家康の悪人像が出来上がってしまったのではないかと思うのである。

豊臣家を滅ぼすまでの家康は、本当に陰謀家の顔を持っていたのだろうか?

確かに秀吉亡き後、五大老の合議で物事を決めるようにとの遺言を反故にしているような印象は受ける。

奉行たちとの対立も顕著になって、次第に大きな派閥抗争に発展してゆく様も、克明に伝えられている。

しかし、先にも挙げた皇国史観から来る悪者というイメージで伝えられると、悪人家康のせいで・・・という偏った見方になってしまう。

もし同じ出来事を他方面から書いたものがあったとしたら、家康の人間像も全く違うものになるかもしれない。



秀吉の死は、せっかく統一を遂げた日本をもう一度戦国に引き戻してしまう危惧があった。

秀吉政権は、先にも挙げたように絶対権力王朝というには疑問附が付く。

豊臣家の石高が二百二十万石といわれているが、いまだに百万石を超える大大名が割拠し、どちらかというと、室町幕府のように大名らの『代表』のようなゆるい存在だったのではないかと思う。

また豊臣政権は、武士を統率した強固な政権というよりは、秀吉個人の栄華を讃える個人的なものであったといっても過言ではないと思う。

現に、秀吉は関白太閤まで上り詰めたが、関白自体が貴族の役職で、本来五摂家しかその資格がなかったものを、猶子になることで無理矢理入り込んだ。

しかし関白という役職は、所詮朝廷の臣下で制約が多いことから、太閤という『治天の君』をなぞって、より頂点を目指したのだ。

しかしその権力は国政に向くというよりは個人的な栄華のための色彩が強く、幕府を開いて武家の組織固めなどすることもなく、常に秀吉の意向によって政策を決め、奉行たちにトップダウンという形で実行された。

そんな中、秀吉の死によって突然日本の指導者が不在になってしまったのだ。

この時豊臣家の後継者秀頼はまだ3歳・・・次代を担うにはあまりにも若すぎた。


これが幕府で、次期将軍を決めるというのならわかるが、太閤は世襲ではない。

だからあくまでも秀頼は豊臣家の後継者ということで、天下の後継ではないということになる。

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