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徳川家康を検証してみる  作者: 山脇 和夫
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秀吉と家康

3

1582(天正10年)本能寺の変において天下統一目前の信長が急逝する。

信長配下の武将たちの政権争いは史実にある通りだが、家康はその頃何をしていたのだろう?

上杉景勝は北信に進攻、北条氏政も甲斐や上州を席巻して信濃に進攻している。

まさに領土の草刈り場だったのだが、家康は信長領であった信濃、甲斐に進攻はしたが

あくまで北条の侵略から領地を奪還するための出撃ということになっている。

後に柴田勝家からその手柄を賛美されているからだ。

もちろん織田家から正式に返還を求められたなら、家康ならそれに応じたことだろう。

結果的には羽柴秀吉が大部分の織田領を領することとなり、織田領が消滅したことから

返還は行わず自領となしたようだ。


かくして織田家の旧領は羽柴秀吉による乗っ取りという形で大部分が秀吉のものとなった。

織田家の子らはことごとく滅ぼされ、ライバルたちも排除されていく。

そんな中、バカ殿で有名な織田信雄だけが残った。

バカとはさみは使いよう・・・の例えのごとく、利用されるだけ利用された信雄だったが

流石にどんな馬鹿でも秀吉のたくらみに気が付く。

そんな信雄が家康の所に助けを乞いに転がり込んできたのだ。


後に小牧長久手の戦いと言われる激戦となるのだが、

歴史を知っている我々は、家康の勝利を知っている。

しかし、当時秀吉は飛ぶ鳥を落とす勢い・・・信長の家臣のほとんどを糾合し

その兵力動員数は約7万と言われている。

対する家康は1万6千・・・同盟のはずの信雄軍は全くあてにならない状態だった。

家康としてはとんだ人物が転がり込んできたものだと迷惑至極と言ったところであったろう。

特に家臣団はそうだ。

せっかく新領地(駿河)を得て安堵した矢先に圧倒的寡兵をもって対処しなければならなくなった。

本来なら信雄を体裁よく追い出して、秀吉との戦いは回避したいところだ。

しかし家康は信雄と共に起つ決断をした。

お兄ちゃんの息子を助けなくっちゃ男がすたる・・・

策謀家なら絶対に取らない決断をした家康、今まで築いたものをすべて失いかねない戦いに義をもって挑戦したのではないかと思うのである。

実際の戦いは史実のごとく秀吉陣営の功名心争いから来る作戦ミスを、家康が上手くつくことが出来たおかげで戦術的勝利を得た。

しかしあくまでも局地的な闘いであって本軍が全面戦争になったわけではない。

秀吉が本腰を入れて攻めかかれば、数の差は補いきれず勝敗は分からない。

しかし、ここで信雄が秀吉と単独講和をしてしまう。

家康としては大義名分を失ったばかりか、このまま戦が長引けば絶体絶命のピンチとなる。

この後の家康の判断は実に明快であった。

私はここに家康の実直な姿を見て好意を感じるところなのだが、もちろん家康が掛け値なしの本心として行動したと、好意的に見てのことなのだが・・・。

それは、「自分の同盟者として織田家には大変な恩義がある。その子信雄様が助けを請うてきたので、私は義を感じて立ち上がっただけだ。

その信雄様が秀吉殿と仲直りしたのなら、私としては戦う道理がない。

そもそも秀吉殿とは信長様時代、共に戦った仲で個人的な恨みなどない。

今後、秀吉殿が太平の世を実現するのなら、喜んで臣下の礼を取りましょう。」


実際にこのように言ったかは定かではないが、休戦協定は滞りなく行われ、二年後

家康が大阪に上って臣下の礼を取ったのは事実である。


天正17年、小田原征伐を行って北条氏を滅ぼし、三年後にはほぼ全国を平定した秀吉は

年号を文禄と変えて日本の頂点に上り詰めた。

通説では絶対権力者として覇を唱えたことになっているが、上り詰めてゆく経過を見てみると、別の面が垣間見えてくる。

九州の島津や四国の長曾我部には、圧倒的兵力で屈服させたが、中国の毛利や越後の上杉には柔軟姿勢で懐柔している。

長年のライバルでもあった佐々成政においても屈服させるどころか肥後に増加転封までしてゴマをすっている。

家康に至っては妹の朝日姫を正室に、母親を人質にだして臣従を誓わせたことになっている。

どうも秀吉の絶対的武力で各大名をひれ伏させたというよりは、

領土を安堵するから、または加増をするから、はたまた妹を差し出して親族と致すからと

まさに秀吉の人たらし戦略で、各大名に臣従してもらったという印象がぬぐえないのだ。

いくつか例を挙げると

毛利家に跡継ぎ問題が起こり、秀吉は好機とみて自分の養子を送り込もうと画策した。

しかし名家毛利家が、はっきり言って元はといえば下級武士出身の木下家の養子をもらうのをはばかり、身代わりになることで小早川家がその養子を貰い受けた。

後の小早川秀秋である。

秀吉はまんまとはぐらかされたわけだ。

また上杉景勝を越後から転封させる折、120万石まで加増させて会津に移させるが、佐渡の金山権益だけは景勝に残した。

威勢を誇るのならそんな配慮は無用なはずである。

家康においても、武力を警戒し駿河、三河、遠江を譲らせるため250万石という大増加をして転封させた。


文禄慶長の役では、宇喜多秀家を元帥として、主に九州の軍勢を朝鮮に派遣している。

しかし派遣された顔ぶれを見ると、秀吉の子飼いの武将や制圧した島津や長曾我部などの面子が並ぶ。

そう・・・自分の威勢が及びやすい面々が選ばれているのだ。

やはりいろいろ気を使わなければ維持できないような、意外と脆い政権ではなかったかと思うのである。

鳴かぬなら、(餌やるから)鳴いてください ホトトギス

これが秀吉の本性ではなかったかと思うのである。


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