表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
徳川家康を検証してみる  作者: 山脇 和夫
2/9

信長と家康


2

家康は、信長の同盟者として生涯の前半を共にする。

この同盟は強固なもので、一度も裏切りも反故もなかったという。

通説では同盟というより信長の配下的扱いだったというが、実質的にもそうだったのだろう。

しかしここに家康の不思議がある・・・

なぜ家康は信長を裏切らなかったのだろう?

実は信長を見限っても不思議ではない機会は何回も訪れていたのだ。

歴史の結果を知る者にとって信長は稀代の英雄ではあるが、

若かりし頃は尾張半国の領主に過ぎなかった。

それこそ当初は弱い者同士、供に手綱を取り合って・・・ならわかる。

しかし信長が頭角を現した当初は、周りはまさに敵だらけ!

いつ滅んでもおかしくない状況が続いた。

第一次、第二次織田包囲網ではまさに風前の灯火・・・

しかも双方とも足利将軍の扇動であるから、この場合賊軍扱いである。

付き従っている徳川も同罪ということになってしまう。

また、織田と同盟を結んでいた北近江の浅井長政も信長を見限った。

家康は信長が絶体絶命の時も身を挺して殿まで勤めている。


信長は美濃を制圧し次第に天下取りの最有力者としてのし上がってきたが

徳川家康はどうだったのか・・・

1568年に遠江を併合したが信長時代は自国の三河と二国にとどまった。

どうも信長は同盟者が大国になるのを望まなかったようだ。

家康個人はまだいい・・・

しかし配下の武将たちは、なんら実入りのない織田の戦いに命をかけなくてはならなかったのだから、たまったもんではない。

遠江は手に入れるが、これは信長が与えたものではなくて、

遠江併合は今川家の没落に乗じて、甲斐の武田と共謀して領地を分け合ったにすぎず

信長は黙認したというのが実情である。


信長と家康・・・彼らのつながりはどのようなものであったのであろうか・・・

そういえば?というほど、明確に答えたものは無いような気がするのが。

信長は猜疑心強くと伝えられているが、実は信じるとトコトン気を許してしまうようだ。

有名な話では、心許した浅井長政の小谷城に部下も連れずに出かけて行ったり

気に入った者は身分も問わず登用し身近に置いたりしていた。

家康の場合も、今川義元存命中は敵同士だったのだ・・・

確たる資料はないのだが信長が家康と接見したおり、「気に入った!」

ただそれだけの感情だったのではないだろうか?

家康にしてみても、そんなお兄ちゃん的な信長に好意を寄せた・・・

何の損得もなしにお互いの心が握手を交わした・・・もしかしたらそんな感じだったのかもしれない。

損得がないから裏切る必要もないのだ。

余談ではあるが、信長は終生いろんな人物に裏切られてきた。

浅井にしても将軍義昭にしても、本願寺や比叡山、松永弾正、荒木村重などなど、

終いには明智光秀(異論はあるが)にまで裏切られ寝首をかかれた。

信長が裏切るのではない・・・本当?と思われる方はよく調べてみるといい。

先に裏切るのは先方の方からなのだ。

私が調べたところでは、信長が裏切った例は一度もないと思う。

(将軍義昭を騙して使い捨てにしたとよく言われるが、信長との約束を守らなかった義昭に殿中御掟を突きつけたのを逆恨みされたとみている)

実は家康も人を裏切ったことがないのだ!

豊臣政権下では裏切りと陰謀の権化的な扱いになっているが、少なくとも

この時点ではそのようなことはなかったのである。

では、家康は心底信長に心酔していたのかと思うと、どうも疑問符がつく。

信長に付き従って従軍していれば、信長の優れた政策などは積極的に取り入れていてもおかしくない。

例えば兵農分離や楽市楽座、思い切った人材登用などだが

三河が楽市楽座で繁栄していたとか(私が知らないだけかもしれないが)聞いたことがないし、家康の部下にもよそ者が重要ポストに付いたことはないと思う。

そういえば織田に従軍する形で、徳川軍としての働きは史実によく出るが、

信玄のように公共事業を行ったとか、貿易を盛んにしたとかあったのだろうか?

どうもこの頃の家康は、とにかく地味なのだ。

一つ大きなニュースでは、嫡男信康の切腹事件がある。

一般には出来の良い信康を見て、織田信長が嫉妬をして切腹させたようなことになっているが、これは俗説らしい。

また、信康が武田と内通してという説もあるのだが、こちらの方はあり得なくもない話である。(酒井忠次の讒言で濡れ衣を着去られたとの説もある)

結局のところ、家康としては信長が行っていた、新時代を呼び込む大改革をあまり理解できていなかったのではないかと推察している。

要は家康も彼の家臣団も古い考え方の人間たちなのである。

どんなに理解できなくても信長のもとを去らなかったのは、ただただ自分を気に入ってくれるお兄ちゃんが好きだからぁ・・・

そんな感じだったかもしれない。

家康はそれでもいい・・・しかし、ただ働きを強いられる部下たちは?

違う考え方を持った嫡男信康は?

いつまでこんな冷や飯を食わされ続けるのか!


そんな鬱憤が信康の反乱に結び付いたのではなかろうか。

当時最大最強の部隊を擁していたのは甲斐の武田である。

信玄亡き後も武田勝頼の下、有力武将がしっかり脇を固めている。

いつまでも武田の侵攻を防ぐ楯代わりにされていては叶わない。

かつて武田との共謀で遠江を手に入れられたし、訳の分からない信長のやり方よりも

従来の様式にこだわる武田の方がよっぽどしっくりする。

信康はじめ、彼の家臣団は家康を排除する計画を持っていたかもしれない。

しかしこの反乱は未然に防げ、信康と正妻の築山御前の処罰で幕を引いた。

この件は家康も信長に相談したらしいが、「そちに任せる・・・」というのが

答だったようだ。

家康はこの後も実直すぎる位に信長に従う。

設楽が原の戦いを経て甲斐征伐で武田が滅ぶと論功行賞で信長より駿河一国をもらった。

結局同盟者として信長からもらったのはそれだけだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ