プロローグ
はじめに
令和五年は大河ドラマ『どうする家康』が放映され,徳川家康が脚光を浴びることになった。
松潤が演じる家康は苦悩と迷いに翻弄される,人間味溢れる家康となって話題を呼んだ。
家康と言えば狡猾な古狸と言う印象が定着しているため、
松潤演じる家康に違和感を感じる方も多いと聞く。
歴史に登場する人物は残された古文書や資料をもとに,このような人物であったのだろうと決定づけられる。
当然,ドラマや映画でもそれに基づいて
もっともらしい家康像を演出して放映されるのである。
しかし実際に生きていた時代の本人はどうであろう?
一寸先も闇、しかも今と違って少しの誤断が自分だけで無く一族郎党も巻き込んだ破滅を産むことになる。
やはり大いに悩み苦しんだのでは無いだろうか?
そう考えると松潤の家康像も案外的をえているのかもしれない。
固定化された他の大名や武将の人物像も然り…
とかく悪者扱いされる石田三成や明智光秀も全く違う印象の人柄だったかもしれない。
彼らは彼らなりの正義を信じて突き進んだ挙句選んだ道を見間違えたのかもしれない。
彼らの行動は悪人の業ではない…彼等の正義が突き動かした行いだったのだ。
人は皆な道を間違える…
昔聞いた話だが、ある有名な芸能人が言ったそうだ…
「若い時の決断はなぁ,七割は間違っとるもんだっ」
そう、その苦い経験が糧となってもう一歩前進できると言うもんなのである。
しかし戦国の世はそんな失敗を修正する意図間も無くこの世から退場させられるのである。
そして時代を動かした『正義』側の人間から悪人として扱われていくのだ。
家康においても、豊臣家を滅ぼしたと言う悪のレッテルを貼られている。
これは豊臣家から見た家康像である。
何の罪もないものを滅ぼすのは、理由が何であれ、悪人という性善史観から来るものである。
では家康から見たどうであろう?
はたまた他の大名や武将らは家康をどのように見ていたのだろうか?
さらに現代人がいろんな書物を読んで感じた家康像は如何なものなのだろうか?
つまり人の数だけそれぞれの家康像があると言うものだ。
私の描く家康像…実はこの検証文は十年ほど前に書き上げたものだが、私の中の家康像は今も変わっていない。
紆余曲折の人生を送りながらも、若い頃から持ち続けた『想い』に忠実に生きて来た家康…
人の部下になったからには上司に対して誠意を尽くそうと奮迅する家康…
そんな思いが私のペンを走らせたと思う。
さて、私の想う家康は如何なる人物なのか…
狡猾さなど微塵もない,真っ当に人生を歩み続ける家康を読み取って頂きたいと思うのである。
1
戦国の三英傑といえは、信長 秀吉 家康である。
その三人の性格を表したホトトギスのたとえは有名である。
鳴かぬなら殺してしまうえホトトギス・・・信長
鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギス・・・秀吉
鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス・・・家康という類いである。
当時にそう言われていたわけではなく、後世の造作であるが
三英傑の性格を端的に表現しているということで
昨今の映画やドラマでも俳優が演じる時は、この性格を引用していることが多い。
信長など、その残虐性を表しているが実際には
非常に家族思いだったり、人を公正に扱う器量の持ち主である。
信長は魅力的な人物なので、おいおい詳しく検証してみたい。
また秀吉は、この例えから非常に豪快な専制君主の顔を垣間見る。
ドラマなんぞも明るく子煩悩のイメージで描かれることが多いが、
歴史に見る秀吉は専制的ではなく、むしろ有力大名に媚びへつらう姿がままあるし、
それとは反対に邪魔者には徹底的な粛清を行うなどかなり陰湿な一面も持っていた。
ならば家康はどうであろうか・・・
鳴くまで待つというのは、自分の元に政権が転がり込むまで
忍耐強く待っていたという主旨でとらえたのだろうが、
確かに若かりし頃から忍耐の連続であっただろうから、
家康に関してはホトトギスの例えは的を得ていると思う。
しかし、家康にはそれとは別の評価がある。
古だぬき・・・狡猾・・・陰湿というもので、あまり良い評価とは言えない。
なぜそのような評価が下されるかといえば、豊臣秀吉亡き後、豊臣政権の簒奪者としての
イメージが強いからだろう。
おまけに大坂夏の陣では豊臣家そのものを滅亡に追い込んでいる。
ドラマでも津川雅彦さんが好演するが、まさにぴったりの家康像を捉えている。
悪い家康のイメージは、もっぱら豊臣政権下での内府としての家康である。
それでは若かりし頃から狡猾、陰湿という性格の持ち主だったのであろうか・・・
いや、違う・・・
それどころか、こんな殺伐とした世に生を受け、それを嘆き悲しむ真面目な青年だったのではないだろうか。
その証拠に、徳川家の軍旗には『厭離穢土欣求浄土』の文字が刻まれている。
(こんな世はもうタクサンだ、早く平和で心休まる極楽浄土に行くことを願っている・・・)という意味の旗なのだ。
信玄の孫子の旗のように、教訓や戒めを自分の旗に刻むことが多かったこの時代、
こんな旗を軍旗として取り入れた家康には狡猾さ、陰湿さは微塵も感じられない。
若輩の頃から今川家に人質に取られ、当時敵対していた織田家との戦いには
常に損害の大きい先手を仰せつかってきた。
信長時代にも、常に信長の陣中にはあったが所詮は織田家の戦いである。
家康にとっては何の益もない戦いに駆り出されるだけであった。
また、三河武士というと家康を中心に精強で一枚岩の軍隊というイメージがあるが
三河は一向宗や浄土宗の勢力が強い所である。
歴代の領主は、配下の武将に反乱を起こされ、度々寝首をかかれたこともある土場で、
貧困な領民が一揆をおこすことも多々あったという。
それを苦労して何とかまとめあげた家康の手腕あってこそ一団を成せたともいえる。
どちらにしても忍耐と努力の連続で、とても心休まることがなかったのではないかと思うのである。
そんな人物が歴史の表舞台に上がれたのも信長のおかげであろう。
信長との同盟がなければ・・・
今川が滅びなければ・・
たぶん三河一国の領主で生涯を全うできればいい方で、歴史という大きな流れの中に埋没して後世に名を覇すことはなかったのではないかと推察するのである。
人の性格は、人生の有り様によって変わるかもしれないが、
その人の持つ本質はあまり変化しないものだ。
優しい人間が、置かれた環境によって粗暴になったとしても心にある情けは忘れない。
雑な人間が几帳面になろうと努力しても、ふっと粗野な部分が垣間見えてしまう。
それが人間の持つ質だと思うのだが、
家康の場合、若い頃の家康像と豊臣政権下の家康像とがあまりにもかけ離れているように思う。
まるで別人のようにも思える二人の家康は、どちらも家康なのだろうか?
それとも通説とはまた違う家康の思いがあったのだろうか・・・
今回は徳川家康を検証してみたいと思う。