step.2 一冊の本
僕の部屋であったはずの景色は、崩れ、ガラガラと音はしないものの、破片となって落ちていく。
立っているのは地面のはずなのに、破片はそこを通過し、更に下へ落ちていく。
落下してる訳でもなく、同じ位置にいたのだけれど、全てが落ち切る頃には、辺りは真っ暗闇となっていた。
何が起こっているのか分からず、ただただ、僕はその光景を見ているだけだった。
暫くして、上部からスポットライトのような光が降り注ぎ、目の前には、いつの間にか、一冊の本が、宙に浮いていた。
丁度、僕の胸の辺りの高さ。
その本は、見えないブックスタンドに置かれているように、浮かんでいる。
暗闇は、ただ恐怖心を煽るが、一筋の光が灯れば、それも和らぎ、いつの間にか、その本に、興味が湧くのだから不思議なものである。
一歩、一歩、ゆっくりと近づいて、利き手である、左手を伸ばした。
指先が本に触れた瞬間、息を吹き返したように、本が勝手に、パラパラと捲れていく。
何も書かれていない、真っ白なページ。
急に、ぴたっと、意思があるように、中心部で止まる。
開いた状態のままのページに、まるで、吸い込まれるかのように、触れる。
ページが急に光り出して、僕までも包んでいった。
意識が一瞬遠退いて、はっと我に返った時には、いつもの見慣れた、僕の家。
居間に、〈全員揃った〉、家族団欒の風景が、そこにはあった。
そう、そこには死んだはずの義理の父さんも、僕が赤子の時に死んだ本当の父、母、妹、弟、ここにいるのに、僕さえもいる。
そんなことは絶対にあり得ず、異常な光景なのに、みんな幸せそうな笑顔で、コタツを囲い、乱れのない綺麗な円になって、座っている。
一体、これはどういう訳なのだ。
チクッと心臓に小さな針が刺さったような感覚で、思い出す。
これは、僕が、ふとした瞬間に、心の片隅で思い描いた、真っ赤な虚像。
そう思った瞬間、ドクン、ドクンと、急に心臓が、異常なくらい跳ね上がり、苦しくなって、視界が揺らぎ、グラグラとして、頭の中はパニックで、頭を抱えた。
いつもの癖が、出た。
膝を抱え、身体をぐっと丸めて、意識を遮断するように目を閉じる。
どうしてもという時がやはりあって、一人、心を落ち着かせるため、この体勢になる。
自身が落下する感覚はあるものの、案外、しーんと、やけに静かで、やけに心地よく、落ち着くのだ。
心が落ち着くと、停止した思考は、エンジンが掛かったスクーターのように、ト、ト、トとゆっくり動き出す。
そうして、まずは、僕の家族のことについて、思い出してみることにした。
僕の家族は、自他共に認める仲良し親子だが、実情は少し複雑。
僕の本当の父は、僕が母のお腹の中にいる時に、病気で亡くなっている。元々病弱な人だったらしい。
整った甘い顔立ち、背が高く、資産家の次男という自由度がある、好条件でモテそうなものだが、病弱ゆえか線が細く、白い肌が女性より儚げで、艶のある黒い長い前髪で、黒目を隠し、更に眼鏡を掛け、自信がなさそうに丸まった猫背が余計に陰鬱そうに見え、実際にはモテなかったと、義理の父さんが言っていた。
ただそれだけではなく、父は、母や義理の父さんみたいに、親しい人にしか笑顔を見せなかったと、義理の父さんから聞いていた。
もしかしたら、アルバムの写真で時たま見る、近寄り難い雰囲気が、最大のモテない理由だったのかもしれない。
資産家というだけあり、家には家政婦さんがおり、その家政婦さんというのが、母の母、僕からしたら祖母。
昔からの付き合いで、そこで働くのが代々の勤めみたいな感じだったらしい。
父の家族は温厚で、母方の家族とも良好な関係であったらしい。義理の父さんと結婚するまでは。
だから、小さい頃、あまり外へ出られない父の元へ、そういう関係性と、同い歳ということもあり、祖母の提案で、父の遊び相手として、ちょくちょく家に通たから、兄妹のように仲良く育ったらしい。
父の方が、母にベタ惚れであったと、義理の父さんが、こっそり教えてくれた。
小さい頃は、友達は母だけ。小中高と同じ学校で、ずっと長い時間一緒にいたのだから、親密なるのは、必然的、と言うのが母の話だ。
父は、絵本が大好きだったらしく、絵本コレクターでもあった。
更に、好きが高じて、絵本作家になった。可愛らしい絵を描き、温かみのある話を作る、知る人ぞ知る、有名な絵本作家。
父は〈不思議の国のアリス〉と〈鏡の国のアリス〉が大好きだったらしく、自分で絵本にしてしまったくらいだ。
その〈アリスシリーズ〉は、好評で、僕も父の絵本の中で、〈一番好き〉であった。
母は、肝っ玉母さんという言葉が似合う。
弱音なんて聞いたことがないほど強く、豪快で、おおらかで、ちょっと抜けている。身長は150センチに満たず、小さいのに、力持ち。
少しふくよかで、どちらかというと、美人というよりは、小動物的な可愛さ。くしゃっと笑う顔が、とても可愛らしい。
笑顔が絶えず、優しさが滲み出て、思いやりがあり、面倒見の良い人。
母も一時、父の家の家政婦をしていたから、家事はお手のもの。特に料理が、すこぶる美味しい。うちがカフェ経営していて、人気なのも、そのお陰だろう。
そんな母だからこそ、二人の男、旦那に愛されたのだと思う。
義理の父さんが、母さんは太陽な人で、太陽のような温もりと、香りがするというのが、今も、忘れられない言葉だ。
僕の外見は父似で、背の高さもそうだけど、特に顔が父に似ている。
唯一、母と同じなのは、栗色の柔らかい髪だ。この髪を見るたび、母との繋がりを感じて、ほっとする。
そういえば、〈不思議の国のアリス〉と〈鏡の国のアリス〉は、元々は母が大好きで、小さい頃の父に、児童文学書を読み聞かせしていたのがきっかけと、母が、ぽろっと漏らしたのを聞いた覚えがある。
父が大好きになったのは、母が好きだったからというのも、大きな要因ではないだろうか。
義理の父さんは、お巡りさん。見た目爽やかで、真面目そうな顔付き、清潔感のある健康的な黒々とした短髪と、屈強な体は、いかにも警察官、という印象。
いつも、警察官の制服をびっしっと着こなし、それが良く似合うから、誰にでも好印象だった。
性格は豪快で、あっさりしていて、情が深く、優しくて、正義感溢れる、警察官になるために生まれてきた、ヒーローみたいな人。
父と母とは、家が近所で、小学校からずっと一緒。いわゆる幼馴染だ。
義理の父さんも、母を小学校の頃から好きだったと、話してくれたことがある。
父の母への愛情の深さ、父が長く生きられないことを知っていたからこそ、気持ちを隠し、二人をむしろ応援していたと、他の人から聞いたことがある。
けど、父が他界し、母が悲しむ姿を間近で見ていたからこそ、押さえていた気持ちが溢れ、母への気持ちが抑えきれなくなったと、義理の父さんは、どこか、申し訳なさそうに言っていた。
いつも、僕達兄妹の目線になって考え、僕達を分け隔てなく、大事に見守ってくれていた。
だからこそ、義理だったとしても、僕は大好きで、受け入れられていたのだと思う。
義理の父が、僕や妹弟が小さい時によく、読み聞かせてくれたのは、そう、父の〈アリスシリーズ〉の絵本だったと、思い出す。
双子の妹と弟。義理の父さんと母との間にできた二卵性双生児。小さい時は、二卵性のはずなのに、一卵性のように瓜二つで、見分けがつきにくかった。
成長過程で、二人の体つきは変化し始め、瓜二つという感じは無くなった。
ただ、弟は料理や裁縫や可愛いものが好きな乙女な一面を持ち合わせ、双子の姉と同じものを共有することも多く、男らしいとは縁遠く、小学生までは、女の子と間違われていた。
中学頃から背が伸び始め、高校生になる頃には、義理の父さんのようにガタイが良い、好青年となった。
優しいが大人しく控えめ、姉の後に隠れてしまうような内気だが、慣れれば人懐こい性格。
そこが、男臭くなく、姉からも、女生徒からも可愛がられる理由なのかもしれない。
それに対して、母に似て背が小さく、義理の父さんに似て、運動神経抜群で、スタイルも良く、可愛らしい顔をしているのにも関わらず、姉の方は、男のように負けん気が強い。
ああいう弟だから、ちょっかいを出す輩は少なからずいて、小さい時から弟を守ってきたから、かもしれない。
意志が強いのは、母に似たのではと、母を見て思う。
双子も、僕の父の〈アリスシリーズ〉が大好きで、僕も双子にせがまれて、よく読み聞かせていたことを、思い出す。
僕の家族は、こんな感じだ。
現在は、僕、母、双子の四人家族。
僕は、少しでも早く母を楽にしてあげたいという〈気持ちが強く〉、高校を出てすぐに就職をした。
人当たりは良い方だったし、口下手でもな
いし、〈人と合わせるのは、得意〉で、何かを勧めることも、嫌いではなかったから、営業職を選んだ。営業成績で給料が上がるというのが魅力的で、一番に選んだのはそれが理由だ。
僕は、気さくだというのが周りの評価で、営業成績も、有難いことに良好。
ただ、その分、出張が多く、〈彼〉とも〈家族〉とも、一緒にいれる時間が少なくなってしまった。
今思えば、それが〈一番の後悔〉だ。
家族のことを一通り思い出して、僕は〈アリスシリーズ〉がこんなに身近で、大好きだったんだと改めて思い出した。
「やっと、〈形になった〉。おいおい、君、いつまでそうしているつもり?」
先程、頭の中で聞こえてきた声が、今度は普通に耳から聞こえた。
声の主は、親しげに、僕の肩をポンポンと軽く叩く。やけに軽いタッチなのが気になり、僕は姿勢を崩して、目をゆっくり開ければ、声の主の方に視線を向けた。
そこには、一匹の白ウサギがいた。〈不思議の国のアリス〉で、一番最初に出てくる、〈時計ウサギ〉、そのものだ。
僕は、驚きで声も出ない。
一体、何が起こっているのか、理解が追いつかず、ただ、時計ウサギを見つめるしかできない。
「おやおや?大丈夫かい?これから、君には〈自分で〉、動いてもらわないとなのに。まあまあ、いいけどね。とりあえず、急ごう、急ごう!〈第一ステージは、クリア〉だ!さ、立って立って!次へ行こう!」
時計ウサギに急かされ、理解できないまま、立ち上がり、四本足で軽快に、ぴょんぴょんと先に行く時計ウサギを、小走りで追い掛ける。
するとどういう訳か、カレンダーを捲るように景色が変わって行く。
走れば走るほど、景色が変わる。
景色といっても、〈彼〉、〈家族〉、友人、同僚との、何らかの思い出の一部が切り取られた、といった感じだ。
例えるなら、僕の頭の中の記憶を辿っているみたでもあった。
ぴたっと、時計ウサギが止まると、景色も止まった。
じわじわと止まった景色が、周りを侵食し出し、僕は、その景色に飲み込まれた。
視界がはっきりすると、そこは、手入れが整った青々とした芝が広がる場所。
そこにはなぜか、小さい透き通った美しいクリスタルガラスのテーブルと、黒いダイニングチェア、外食先で見る小さな子供が座る子供用の黒い椅子がある。随分、アンバランスな家具が、置かれている。
テーブルには、ティーポットとカップ、クッキーが乗せられた皿が置かれ、それらを乗せるので精一杯な大きさ。
そして、なぜか、二人分きっかり用意されていた。
「さ、座って。まずは、お茶と、お菓子を食べながら、話をしよう!〈この世界〉に、ついて」
そう言って、時計ウサギは、器用に子供用の椅子に座り、にーいっと不気味な笑みを浮かべた。