step.16 誰にでもあるinferiority complex
ゾクっと、急に背筋が凍るような感覚がして、僕は自身の腕をぎゅっと、抱きしめた。
誰かが、見ている、見られている、もうそれは、確信へと変わった。
だから、慎重に、辺りを伺うように、注意深く、視線を動かした。
「アリス?何やってんの?」
「うわぁぁぁ!!!」
「え?アリス?大丈夫?あなた、変、よ」
「「アリスが〈変〉なのは、いつものこと!」」
「ちょ、あんたたち...遠慮ってもんがないわね。にしても、アリスは、何に、そんなに警戒してるの?この気球に乗っている限りは、攻撃されないわよ、安心して?」
僕は、マッド・ハッターの言葉で、ハッと、警戒心を解く。
何に、僕は、こんなに警戒していたのか、怯え、なのかすら、よく、分からなくなってしまった。
マッド・ハッターが、僕の肩を優しく、数回撫でてくれただけで、そんなことは、どうでも良くなって、自然と、笑みが溢れた。
「ふっ、大丈夫そうね。......でも、ここをどう、攻略すればいいか、よね?ここをただ、通る方法はある。私達は、レクスの配下だしね、一応。だけど、それだと意味ないし、かと言って、アイツをボコボコにして、戦意喪失させたら勝ちでもない、ってことくらい、もう、アリスなら、分かってると思うけど。攻略方法が、見つからないのよね」
「そんなの、簡単。空寝ヤマネと、直接話せば、いいだけ」
先程まで死んだように眠っていた三日月rabbitが、僕の横に、音もなく、急に立っていた。
ぼんやりしていて、目をゴシゴシした後に、ふわぁぁと大欠伸し、腕を伸ばしながらの、独り言みたいな言い方での、言葉だった。
「え?......ん......まぁ、クソマジメも、それなら、手は出してこない、確かに、戦うよりは、先が、見えそうね」
「「それだと、アリス、一人で、行かないと、ダメ、だけどね!」」
全員が、僕を見ている。
できるのか、という念を押すような視線が、重圧を感じる。
滲み出る緊張で、一度、唾をゴクリと鳴らして、飲み込み、〈恐怖〉を、胃に流し込む。
小さく、静かに吐き出した、息と共に、小さく、頷いた。
万里の長城を辿る気球、海に近い方へ行けば、石で造り上げられた、竜の頭のような城壁が海へ突き出ている場所、へと飛んでいく。
城壁の先端へ、静かに降りた。
海は、夕陽が海へ落ちて、海面を橙色に染め、キラキラと照らして輝き、小波で揺れる海は、とても穏やかだ。
まるで、先程まで繰り広げれていた、激しい戦闘など、無かった、そう、感じさせる。
竜門の前、僕は、一人、そこに立っている。
竜の口の中へ入れば、長い暗い、小さなトンネルで、ジメジメして不快だ。
そこを、目を細めながら、転ばないよう、慎重に、手探りで一歩、また一歩と、歩みを進める。
キラっと眩しい光が視界を遮り、一瞬、目をグッと閉じ、そこから開けば、そこは、夕陽が山の頂きに頭を隠そうとしている時分。
トンネルを通り抜け、一歩、地面を踏みしめれば、夜。
目の前には、ライトアップされた桜と、紅葉に囲われ、凛々しく聳え立つ、五重塔。
そして、石畳できた一本道。
ライトに照らし出され、塔へと誘うように続く。
僅か、眉に皺が寄り、静かに、溜まった息を深く、長く、吐き出す。
道を真っ直ぐ見つめ、意を決し、一歩を踏み締めた。
質素だが、重々しい大きな石造りの扉が、ギ、ギギギギと、大きな渋い音を立て、向かい入れるように、開いた。
中は、薄暗い。
でも、不思議と、周りが見えないということはない。
息を吸い込んで、中へと入る。
バァン!!
大きな音を響かせて、一気に扉は閉まってしまった。
ひやっと、部屋の温度が下がる。
ポツ、ポツ、っと、電球のような小さな光が床を照らして、それに連れられて奥へ、奥へ。
パァっと、部屋が広くなり、青白い光が、ポッ、ポッと、淡く呼吸しているように、点滅しながら、飛び交う。
更に奥へ続く一本道より、数段下には、澄んだ水が溜まった池。
そこからは、無数の手が絡み合って、もがくように池から伸び、所々に、骸が無惨に転がる、冷たい、石で彫刻されたオブジェが、覗く。
ドク、ドク、ドク
静かに、でも、じわじわと息苦しく、キュッと、胸を締め付けるように、心臓が跳ねるのを、自分の左手で押さえ、その先へ。
顔は強張って、冷気が、余計に冷たく、痛い。
すっかり凍えた身体を、腕を擦りながら温め、立ち止まることも、引き返すこともできず、真っ直ぐ、進む。
ぱぁっと、今度は一変して、真っ青な空に、黄色掛かった空、赤紫一色の絨毯のように規律よく並ぶ、ラベンダー畑。
その先には、所々、黒く薄汚れてはいるが、味のある古い質素な修道院が、若草色の山々に囲まれて建っている。
一枚の絵画のような、美しい場所。
それを見てしまえば、凍えた身体も、心も、溶けた感じがした。
一時、その場所を、見惚れるように、ぼんやり眺めていれば、穏やかな気持ちで、ラベンダー畑の横の、細道を通り抜け、修道院中へと向かった。
ゴーン、ゴーンと、大きな鐘の音が数度鳴った後、部屋に蝋燭の火が灯る。
部屋の中央には、グランドピアノが、ぽつんと置かれ、ピアノのランプ台には、巧緻な細工が施された、木製アンティークの、小さな置き時計がある。
その針は、三時手前で、〈止まったまま〉だ。
グランドピアノを囲うように、大きな四角錐の髑髏の燭台が四機聳え、その頭上には大きな人骨で模られた紋章と、部屋中を多くの人骨で飾られた、悪趣味にもほどがある部屋に繋がった。
そこのグランドピアノのイスは、二脚、イスが用意され、一方のイスには、くるっと丸まって寝ているネズミのような者がいる。
背中に黒い線が一本ある、ふさふさした毛に覆われた、ネズミ色のハムスターに一見似ているが違く、尻尾が特に、ふさふさもふもふで、目は閉じているが、それがヤマネ、だと気づいたのは直ぐ。
ぽろんと、ピアノの音がして、辿々(たどたど)しくも、美しい音色が響く。
それは、
Twinkle Twinkle Little Star。
ワンフレーズ、弾き終わって、すっと、静かに、横目で僕を見たのは、アサド。
僕を捉えたはずなのに、興味がないように視線を戻し、鍵盤から両手を下ろした。
シンっと、部屋が静まり返る。
気づけば、僕は、硬直したみたいに、そこから動くことが、一歩もできなくなっていた。
呑まれたと、焦っても、どうすることも出来ず、刻々と時は過ぎて、冷や汗が、たらりと一筋、脳天から首筋にかけて、這うように流れて落ちる。
ゾワっと、全身が痺れたような小刻な、震えがきて、目が、キーンと、覚めた。
身体も、呪縛が解けたように、ほどよく、力が抜ける。
「ヤマネ、起きているんだろう?」
なぜ、そう思ったか、〈空寝〉と呼ばれていたから、もあるが、寝息が全くせず、完全なる置物だったからである。
「......ふっ、少しはヤルようだ。脳筋赤ゴリラを仕向けてきた時は、ただの、阿呆かと思ったがな。ここまで、〈一人〉、来れただけでも、賞賛に値する...か?赤のレクス様に、楯突く愚か者は、少なくない。この世界には、我らのテリトリー外であれば、愚かな者、無気力の者、生きるだけに必死な者、野心に燃える者と様々だ。その中には、救いを求める熱心な信者もまた、多いのも事実。その全体の数パーセントは、牙を剥き、武器を持ち、ここへやってくるのだから、私が、彼の方をお守りしないといけないのだ。彼の方は、私にとっての、神、だ。神は常に美しく、気高く、傷一つ付けてはいけない。私は、赤レクサ様直々に、お守りするための武器を、賜わった。だから、無礼者は、容赦しない。だが私は、慈悲深い。この納骨堂で、レクイエムが代わりに、綺麗な音色を鳴らしてやっている。イカれた他の連中とは、別格なのだ。分かるか?アリス。お前が、こうして、ここに、無事立って居られるのも、お前が礼儀を重んじ、私を敬ったから、こそ!」
眠っていた振りを止めた空寝ヤマネは、静かに、目を開いた。
まん丸、くりくりの、愛くるしい目で、ジィーと、僕を見つめる。
一拍して、椅子から少しJUMPし、ぴょーんと、半円書くように、僕の肩へと飛んで、背中を上手く使って、クルッと半転、ズンっと、肩に乗った。
遠目は小さくとも、小型犬よりやや小さくらいで、見た目よりも、重く感じる。
それは、乗ってるというより、のし掛かっているに近く、小さな手で、怨念でも込めるかのように、グッと肩を押しているから、かもしれない。
顔も、笑みなど、微塵もなく、空虚。
ガラス玉みたいに澄んだ瞳で、じっと、微動だにせず、間近で、僕を見つめる。
ゾワっと、小さいが、寒気がきて、不気味さを感じる。
「分かったか?」
そう言った空寝ヤマネは、グッと、顔を更に、近づけるので、生暖かい息が掛かる。
額と額もくっ付いて、目と目も近く、一直線、重なり合う。
「そう、私は、選ばれし、ニホン、ヤマネだ」
静かに、空寝ヤマネがそう言えば、カチっと、時計が動く、音がする。
空寝ヤマネの瞳しか見えないはずなのに、時計の針がゆっくり、時針と、分針が動き、丁度、三時を刺す、のが見えた。
そう、空寝ヤマネの瞳の中に、時計が映り込んで、僕は、それを共有してる。
はっと、気づいた時には、世界は急激に変化した。
「さ、皆さん、おやつの時間ですよ。さぁ、さぁ、手を洗って、きてください!」
学校の先生だろうか、ただ普通と違うのは、皆、ネズミである。
それも、大きな丸い耳、人間みたいに豊かな表情を見せる顔はふくよかで、小さい体、細長い手足をし、二本足で立っている、どこかのアニメのキャラクターのような、黒いネズミ達だ。
もこもこした白い手袋は、共通。
洋服と靴は、それぞれ個性なのか、色、形が違うし、女の子には、まつ毛がついて、ワンピースを着ていると、見た目だけでも、はっきり違いが分かる。
その中に、対照的な、二人が、いる。
一人は、トップスター性を持って生まれたかのような輝きで、明るく元気で、可愛い仕草、丸っこい赤い単パンと、丸みのある黄色い大きな靴も目立ち、コミカルな動きで、歌もダンスも上手い。
周りがチヤホヤするのも納得で、手洗い場は、黄色い声と、ハートマークになった目をした女子ネズミ達で、ごった返している。
それに比べ、ポツンと隅の方、一人の、暗い顔をした、鼠色の毛に、背中に黒い太い線が一本通った、ふっさふさのしっぽが生えた、ネズミ、いや、ヤマネがいる。
この子が、幼い時の、空寝ネズミだと、すぐに気づいた。
黒ネズミに対し、空寝ネズミは、何も身につけておらず、動物本来の可愛さはあるものの、彼の前では、霞んでしまっている。
「やぁー!ニホンヤマネ君。おやつの時間だよ!みんなと一緒に、食べようよ!」
空寝ヤマネは、むっとした顔をして、顔を逸らした。
「何、この子!汚い色して、手を洗わずに、あっち、行きなさいよ!!シッシッ」
「そうだそうだ、お前は、仲間外れ、学校くるな!」
人気者のネズミと、隣にいる大きなピンクのリボンをしたガールフレンドのようなネズミは、困った顔で、顔を見合わせているが、助けることもできない。
他のネズミ達からの野次は、ヒートアップ。先生すら、知らんぷり。
終いには、空寝ヤマネに、水をぶっかけ、ゲラゲラ笑っている。
その表情は、皆、笑ってるのに、邪悪で、恐ろしい。
ブルブルと、小刻みに、小さな手を震わせ、小さく縮こまった体も一緒にブルブル震え、段々と、その揺れは大きくなって、空寝ヤマネは、噴火の前の火山。
ピタっと震えが止まって、両手と、しっぽを、ピンと真上に上げて、大噴火。
爆発と共に、獣の雄叫び上げ、弾丸の如く、生徒達を跳ね除け、そこから、走って抜け出した。
走って、走って、石に躓いて転んで、泥だらけになって、また走って、走って、そうして見えてきたのは、海。
木漏れ日のような優しい光が降り注ぐ、穏やで、小波が子守唄のように響いて、心地よく、母の温もりを感じる海。
サラサラの砂浜に、黒松が海岸を囲って群生し、その少し後には、山頂に雪が綺麗に降り積もって、帽子を被ってるような、美しい青に身を包んだ、富士山が見える。
「ここは?ここは、どこだ?」
はぁ、はぁと、走って荒くなった息を、整えながら、空寝ヤマネは小さく、呟いた。
歩く度に、キュ、キュと、小さく可愛らしく鳴る砂浜。
不安がって、キョロキョロしていた空寝ヤマネだが、だんだん楽しくなり、鼻歌まで歌い出して、スキップしながら、黒松の森へと迷い込んでいった。
森の中、木漏れ日が溢れ、小鳥の声がどこからか聞こえ、会話しているようでもあり、歌っているようでもある。
どこか、御伽の国でも迷い込んだかと、空寝ヤマネは、楽しい気持ちで溢れた。
晴れ晴れ陽気で、泥んこ濡れネズミだったのが、乾いて、汚れはあるものの、毛がもこもこし出し、ちょっと動きずらそうではあるが、傍目からしたら、可愛いらしさ倍増で、動きもコミカルで、あの人気者の黒ネズミに劣らず、愛らしい。
そうして、黒松の森を抜けてしまえば、富士の麓には、雪化粧した湖と、常緑針葉高木の、ドイツトウヒの森に囲まれた、ロマネスクと、ビザンチン様式で建てられ、石灰石を化粧張りした、真っ白な外観と、屋根は真っ青で、神々しく、美しいのに、どこか寂しい感じがする、城が聳え立っていた。
空寝ヤマネは、雰囲気に呑まれ、落ち着きを取り戻し、静かにその城の入口まで、ゆっくりと、慎重に歩みを進めた。
扉は固く閉ざされて、開く様子もない。
それでも空寝ヤマネは、どうも、気になるらしく、扉の前で立ち止まったままだ。
暫くして、扉の向こうから、ピアノの音。
美しい旋律で、エレンの歌第三番が、聴こえてくる。
空寝ヤマネは、扉に寄り掛かると、耳をあて、うっとりとした顔で聴き惚れている。
暫くしてから、ピアノの音が、ピタッと止まり、扉が内側から、静かに、開いた。
空寝ヤマネはまだ夢現で、気がついていない。
その扉から出てきた一人の青年に、ポンポンと、肩を優しく叩かれて、やっと気づく。
相当驚いたらしく、ぴょんとアニメみたいに飛び跳ね、足を踏み外して、後ろに、スッテンコロンと、ひっくり返った。
それを見て、上品に口元を片手で隠し、クスクスと、小さく笑いを漏らし、優しそうな目で見ているのは、チェシャ猫。
よく見れば違く、あの薄紫のチェシャ猫に、そっくりな顔の青年だった。
猫耳、尻尾は無いし、全体が紅の八塩色をしているという、大きな違いがある。
その青年は、空寝ヤマネに手を差し伸べ、立たせると、部屋の中を指差して、招き入れた。
室内は、青年と一緒の、紅の八塩色を基調としたいた。
赤なのだが、どこか上品で、落ち着いた感じがする。
それは、空寝ヤマネも同じく感じていたようで、お上りさんみたく、くるくる回りながら、物珍しそうに、辺りを眺めている。
そこがあまりにも綺麗なので、自分の薄汚れた体が気になり始めた空寝ヤマネに対し、クスッと小さく笑って、パチンと、指を鳴らした青年。
空寝ヤマネは、すっかり小綺麗。
それから時を重ね、空寝ヤマネは、この城に居座りついた。
青年はマイペースで、光沢のある朱殷色の大きなグランドピアノを弾くか、雪のように、真っ白で、上等な革でできた大きなソファーに眠っているかが、多かった。
空寝ヤマネが居座っても、特段、自分のペースを崩す訳でもなく、最初からいた者として受け入れているのか、何も、変わらない。
その青年の近くには常に、アサドが後ろに控え、ただ黙って、静かに二人を見守っている、そんな生活が続く。
そう、アサドがいるということは、この青年こそ、レクス、ということだ。
「レクス様、夜空の星が沢山輝く時に、必ず弾いている、可愛い曲は、なんですか?」
「ん?あれは、Twinkle Twinkle Little Starっていう曲だよ。ヤマネは、...それが、好き?」
「え!あ、はい。あの曲を聴いていると、母の、子守唄を聴いている、そんな気持ちになって、心が温かいのです」
「...そう」
レクスは考えごとをするように、ピアノの鍵盤の上に手を乗せたまま、少し上を見る。
暫くして、地べたに、あぐらをかいて座るヤマネに、視線を落とした。
「なら、ヤマネ、弾いてみる?」
「え?...で、でも、私の指は、短いので」
「いいから、おいで」
長イスの真ん中に座っていたレクスは、横にずれて、空寝ヤマネが座れるだけのスペースを空け、手招きしている。
空寝ヤマネは、戸惑った感じで、そのイスへ立った。
「いいかい、ヤマネ。指が短くても、一本の指でゆっくり弾けば、鍵盤は鳴り響いて、続ければ曲になる。さ、僕に指を貸して?」
空寝ヤマネは、右人差し指をレクスの方へと、出す。
レクスは、空寝ヤマネの背中へ左手を回し、密着させる。
空寝ヤマネのグウの手を、そっと、上から右手で覆ってから、鍵盤に近づけ、空寝ヤマネの人差し指で、鍵盤を押す。
一音、高らかに、鳴り響く。
二人は顔を見合わせ、嬉しそうに笑い、また、違う一音を鳴らせば、楽しそうに笑う。
そうして、二人は、何度も、何度も、Twinkle Twinkle Little Starの曲を、ゆっくり、ゆっくり弾き続けた。
「レクス様、赤のレクス様!」
僕は、空寝ヤマネに服を引っ張られて、ふっと意識が戻った。
だが、なぜ、僕が、レクス、なのかと、ピアノに映る自分を見た時に、目を見張る。
僕は、レクス、そのものだったのだ。
「どうか、しましたか?具合でも、悪いですか?」
心配そうに見つめ返す空寝ネズミを、僕は見下ろした。
僕は、ピアノのイスに座り、空寝ヤマネは斜め後ろに控えていたのか、イスに手を付いて、僕の顔色を伺うように、見上げている。
「...大丈夫だよ。ただ、少し、考えことをしてただけだ」
「そうですか、なら、よかったです」
ほっと、胸を撫で下ろし、空寝ヤマネはイスから離れた。その時、ようやく、空寝ヤマネの背が、大きくなっているのに、気づく。
時が進んでいる。
一瞬の間、知らないうちに、入れ替わって、いや、また、入り込んでしまったのかもしれない。
「では、定例の時間です。よろしく、お願いします」
定例とは何かと焦ったが、ピアノの前なのだから、ピアノを弾けば問題はないはずと、思い直す。
今は、明るく、日差しが入ってきている。
ならと、僕は、エレンの歌第三番を、ゆっくりと奏で始めた。
「さすが、レクス様!今日も、美しい音色でした。今日も一日、素晴らしい日になりそうですね」
曲が一通り終わり、そう言った空寝ヤマネは、目を輝かせ、小さな手を、はち切れんばかりに叩いている。
これは、素の空寝ヤマネだ、と感じた瞬間、ストンと腑に落ちた。
僕は、できるだけ自然に、柔らかい笑みを作り、空寝ヤマネに、左手を差し伸べた。
「さぁ、私と、一緒に、奏でよう」
「はい!」
そう言った空寝ヤマネは、疑いもせず、僕の手を取った。
瞬きした、その瞬間、一面、真っ白な世界。
僕はまた、扉の前。
鍵はと思えば、扉には鍵が刺さったままだ。
僕は手慣れたように鍵を回し、扉を開いた。
バゥアァァァァっと、木枯らしが吹き上げ、枯れ葉で視界は覆われ、目を保護するために腕でガード。
どれくらい経っただろうか、一枚の枯れ葉が、僕の手にひらり、落ちた。
気になって、腕を下ろせば、そこはどこかで見たことのある家の、白い扉の前。
僕はそこに立っているが、いない人。
写真で見た、背が小さい、幼稚園の年長くらいの、幼い母と、若かりしき頃の祖母が、手を繋いで扉の前に立っている。
母は学生時分は、痩せていて可愛く、愛嬌があって、結構モテたと、義理の父が言っていたのを思い出す。
確かに、痩せていて、結の小さい頃と少し似て、可愛らしい。
祖父母は、背が低く、見た感じ、百五十センチ以下。ふくよかで、洒落っ気がなく、肝っ玉母さん風。
今の母は、ここまで太ってはないが、こう見ると、母は、祖母似だと、改めて思う。
祖父母は、シックな黒のメイド服、母は、白のワンピースを着ている。
「本当に、私で大丈夫かな?」
心配そうな声と目で、祖母を見上げた母。
ふふと小さく笑って、優しい笑みを、母に向けた祖母は、繋いでいない方の手で、優しく母の頭を撫でた。
「大丈夫、花苗なら、できるよ」
目と目が合って、互いにニッと、笑みを零す。
仲良し親子、そんな感じがした。
桜の花びらが三枚舞って、くるりと反転。時は切り替わる。
「叶護君って、すごい、本、いっぱい持ってるね。図鑑と...漫画も多い!こっちの棚は、アニメのディスク?」
母は、さっきよりは若干背が高くなって、成長している。
「...うん」
「でも、絵本はないね。叶護君は、絵本は、読まない?」
「そう...だね。絵本は、花苗ちゃんのお母さんが持参して、読んでくれるし。大概、父さん、兄さんと一緒に、アニメ見たり、小学生向けの漫画読んだり。一人の時は、色んな外のものが見れる図鑑かな。眺めてると、外に行ってるみたいで、楽しいし」
「あ......そっか。そういえば、うち、絵本、いっぱいある。特に、お母さんが、読み聞かせの会?っていうボランティア?してるから」
「花苗ちゃんのお母さん、読み聞かせ、上手だもんね」
「うん、そう!お母さんが、寝る前に読んでくれる、〈不思議の国のアリス〉の絵本、大好きなの!」
「〈不思議の国のアリス〉?」
「あれ、叶護君は、読んでもらってない?」
「うん。魔法使いの話とかが、多いかな」
「じゃ、今度、私が読んであげる!」
「うん、楽しみにしてるね」
ふふっと、仲良さように、二人は向き合って、笑う。
父は、まだ、ベット生活だ。
桜の花びらがニ枚舞って、くるりと反転。時は、切り替わる。
「最近、英語習い始めたの?」
「うん。本物のの、〈不思議の国のアリス〉が読みたくて。でも、なかなか、英語、難しくて読めないね。だから、まずは児童向けの絵本から、少しずつ読んでるんだ。こういうの」
「へぇ~......これ、なんて、読むの?」
「Understandかな?」
「... あんだぁすたぁんどぅ?」
「え?なんて?」
「...もう、言わない」
「ごめん!怒らないで」
仲睦まじく、猫が戯れあってるみたいな、そんな雰囲気の二人。
ここでも、父は、ベットの中だ。
桜の花びらが一枚舞って、くるりと反転。時は、切り替わる。
「えぇ?私、ピアノ弾けない...弾いたことないし。それに、今日は、風邪で休んだんだから、大人しく、寝てた方が、いいんじゃない?」
ピアノのイスに座っている母は、困った顔をしている。
冬服、ラインは白で、黒いセーラー服を着ている。
母は、父と同じ小学校へ通うように言われていたらしく、私立の学校に通っていて、指定の制服がそれだ。指定の黒のクレマン帽子と、シックな茶のランドセルもある。
部屋の角、床には、ランドセルの上に、帽子という形で、母らしく、キチンと整頓して置いている。
「大丈夫、大丈夫。顔色も、いいでしょ?寝てたら、治った。ずっと寝てるのも飽きたし、ね!それに、僕と一緒に弾けば、いつかは弾けるようになるから、ね!お願い」
渋る母の背後に立って、にこにこしながら、強引気味にそう言って、弱々しくも抱き締めるような形で、鍵盤に乗っている母の手に、そっと両手を重ねた父。
シルクの白いパジャマを着て、中学年にしては、少し痩せ気味な気もする。
ただ、顔色は、確かに、良好。
笑顔だし、頬は、ほんのり桜色。
写真が嫌いな父は、殆ど笑っている写真は、なく、目を隠すほどの長い前髪が邪魔して隠れているし、下を向いていることが、多かったからだ。
ただ、本当に一度だけ、突然撮られたのか、隠し撮りか、笑っている写真を見た覚えがある。
そう、母と父が幼い時、そういえば、小学生四年の時に、やっと一緒に学校に通えるようになったと、母に聞いた覚えがある。
その時の記念と言って、アルバム整理をする母に、見せてもらったのが、その写真だったような気がする。
白い百合の花びらが一枚落ちて、さっと景色を掃い去った。
母は、ダークブルー色の、白ラインのセーラー服。
僕達も通った、高校の制服だ。
「はぁ...、お似合いの、二人、だって」
母は、すらっと手足が長く、モデルのようで、少し冷たい感じのする、背中まである艶があって黒く、長い髪がよく似合う、少し吊り目だが、美人な女性と一緒に歩き、いつもの元気はなく、ぼそっと、そう言った。
「また、そんなこと気にしてるの?ひがみを、いちいち受け止めてたら、身がもたないわよ」
「...うーん」
「こらこら、火音、そんな風に言ったら、花苗ちゃんが、可哀想でしょ?」
「...心慈は、花苗に甘いわよね、いつも」
「そんなことは...ないと、思うけどなぁ~」
心慈と呼ばれる、ダークブルー色の白ラインのファスナー学ランを着ている、この青年は、〈彼〉の父親だと、すぐ、気づく。
〈彼〉の父親は、色素が薄く、茶の目と髪に、垂れ目の銀縁眼鏡で、物腰が柔らかく、垂れ目なのもあり、優しい感じの顔付きで、温かい感じの人。
僕の家に〈彼〉を迎えに来るのは、決まって、〈彼〉の父親で、だから、鮮明。
そうだと、今、思い出した。
火音と呼ばれている女子高生は、〈彼〉の母親だ。
「あ...忘れ物。ちょっと、学校に取りに行ってくるから、二人は先に帰っててくれる?後から、走って追いつくから」
母と心慈は、小さく頷く。
火音が校舎の中へ消えると、後にいた心慈は、母の隣に並ぶ。
「火音、無神経で、ごめんね。あれでも、花苗ちゃんのこと想って、言ってるんだ」
「分かってるよ、長い付き合いだし。......ただ、心慈君は口が堅いから言っちゃうけど、叶護は近寄り難いオーラ出して、私達以外と話さないから、近寄って来ないだけで、女子にモテててる。顔隠してるけど、バレてるのよね、特に女子に。顔が良くて、ミステリアスで、頭が良くて、お金持ちとか、好条件だから仕方ないとは思うし、火音も、家がこの街で、一番大きな神社で、なんか、人離れしたは、言い過ぎかもだけど、美人過ぎるし、その二人が仲良いとなると、普通は、そう、思っても仕方ないかなって」
「...うーん...でも、叶護と付き合ってるのは、花苗ちゃんだし。むしろ、今日は病欠で休んでるけど、いつも、花苗ちゃんにベッタリなのを見て、火音とお似合いとか言う人の気がしれない。だから、ただ羨ましいとか?女子特有の〈嫉妬〉ってやつじゃないかな。僕は、花苗ちゃんと叶護は、仲睦まじくて、お似合いだと思うよ。二人が醸し出す雰囲気、優しくて好きなんだ」
「あ、ありがとう...まぁ、私が、二人に劣等感が、ちょっとあるのかな。私、平凡だし。二人揃うと美男、美女だなって思って、自分を見ると背が低いし、ちんちくりんだなって思っちゃう時もあって。叶護は、頭が良くて成績もトップクラス、運動はできなくても、色々卒なくこなすから、〈嫉妬〉しちゃうことも、全くないわけじゃないんだよね」
「それは、僕もそうさ。人間、自分より格上な人には、〈嫉妬〉してしまうもんだよ。自分にはないものだから、羨ましいのかもしれないね。花苗ちゃんだけじゃない、心配しないで」
「...うん。あぁ...きっと、つきものが近いから、ちょっと、気分がダウンしがちなのかも」
「あぁ...女の子って、大変だね」
「そうだよ!」
母は、話をしてスッキリしたのか、いつも通りのいい笑顔で笑い、心慈も優しく微笑んで、穏やかな光景となる。
ピンクのコスモスがひらり、一枚舞って、外の景色は、黄色く染まった銀杏並木。
母のお腹は少し大きく、暖かそうなマタニティドレスを着ていて、父は黒のジャケットとズボン、Tシャツと、ラフな格好だ。
「動いた?」
父は、大きくなった母のお腹に耳を当てて、本当に嬉しそうに、笑顔で、そう言った。
「そうね。元気そう」
母は、穏やかな顔で父を見て、父は、母のお腹を優しく撫でながら、母に、にこっと、子供みたいに微笑んだ。
雪が深々と降り積もり、辺りは雪で覆われた。
ここは、墓地。
母は、墓場の前で座り込み、顔を上げて、両手を両目に被せ、子供のように泣きじゃくっている。
その叫びは、悲痛で、心が痛くて、押しつぶされそう。
親子だからなのか、母の感情がダイレクトに流れ込んできて、僕の目からは、大粒の涙が、止めどなく、流れた。




