step.1 手紙
幼稚園か、小学校の低学年くらいの幼い少年が部屋で一人。ぽつり、胡座を描いて床に座っている。
手に中には、二冊の絵本。
よく見れば、これは、僕だ。
「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」を知ってるだろうか?
イギリスの作家の作品で、世界中で愛されている児童小説だ。
僕は、このアリスの物語が大好きだ。
特に、家にある絵本がお気に入り。
何度も、何度も読み返し、寝る時でさえ、枕の裏に忍ばせていたほどだ。
僕はそこで、〈父〉の絵本を広げて、無言で魅入っている。
沢山の個性的なキャラクターが、ページを捲るたび、魅力的に描かれていて、目を惹く。
〈アリス〉は〈言葉遊び〉しながら、愉快なキャラクターと出会い、一人冒険していくさまは、幼心に、世界がキラキラして、ワクワクして大興奮した。
大好きで、大好きで、〈とても大切な絵本〉。
読み終えると、二冊の絵本を抱きしめて、僕は幸せそうに笑った。
そして、
〈あんだぁすたぁんどぅ?〉
その中の絵本にしか書かれていない、〈オリジナルのセリフ〉を、僕は口遊んだ。
ふっと、何かが途切れて、パチっと、目が覚める。
心がじんわりと温かく、幸せな夢を見ていたような気もするが、内容までは覚えていない。
いつも通り、自室のベットで目が覚める。
まず始めに目に入るのは、天井の染み。どこか、人の顔のように見えて、気持ち悪いなと、微かに眉根を寄せる。
それを見ると、いつからか、胸の奥の奥、どろりと、何かが溢れて流れ落ち、不快感、に近い感情を胸に抱く。
はぁっと、ため息一つ。いつも通りに溢れて、掛け布団を捲り、ベットから上半身だけ起こす。
ゆるゆると頭を振った後、ベットボートに付いた棚に置かれた、眼鏡を、掛けた。
ベットの上で半回転、地面に足をゆっくりと下ろせば、目の前にある丸いテーブルに、視線を落とした。
ベットより若干低く、アンバランス。アンバランスな物といえば、これだけではなくて、部屋の至る所にある。
小さい頃から使って、年季が入っていて、所々に傷や染みがあるが、愛着もあるし、ここまでくると使い勝手がいい。
なにしろ、父さんが与えてくれた物だから、〈手放せない〉という〈強い感情〉がある。
父さんといえば、中学一年の時、不慮の事故で他界している。
父さんは僕と違い、がっしりとして体格が良く、日に焼けた浅黒い肌が健康的で、病気知らずが、自慢の頑丈な人だった。
けど、サッカーボールを追いかけ、車道に飛び出した子供が車に轢かれそうになるのを目撃、咄嗟に助けたまではいい。
だが、その時、頭を強く地面に打ちつけ、それが原因で、亡くなってしまったのだ。
学校にいた僕は、呼び出され、駆けつけた時には、父さんは、病院のベットに横たわり、顔を白い布で覆われていた。
夏のやけに暑い日、外の蝉の声がやけに響いて煩い霊安室で、言いようのない不安と、悲しみで胸がいっぱいになり、頭も真っ白になる。
いつもの、落ち着いて、笑顔を浮かべるなんてことは、全くできずにいた。
無の表情で、現実を受け入れられず、ただ一目散に走り、息をみっともなくゼェゼェと切らし、汗をだらだらと垂れ流して、やっと辿り着いた。
父さんの、その光景を目の当たりにした瞬間、ひゅっと全身冷たくなって、実感し、ドアの側で、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
漠然と、その時、思ったのだ。
あんなに元気で頑丈でも、死ぬ時は、呆気なく、逝ってしまうのだと。
やけに、父さんに被された布が白白しくて、不気味できみが悪く、夏の暑さもあってか、急に、込み上げてきて気持ちが悪くなり、その場に倒れたのを覚えている。
目が覚めた時は既に夜で、辺りは暗かった。
自室ではなく、この家の中で一番広い居間で、側には妹弟がいた。
一緒に寝かされていたのは、互いに寂しくないようにという、母の配慮だったのかもしれない。
妹弟は、小さい体を更にぎゅっと猫みたいに丸め、僕にがっしりとしがみついていた。
きっと、小学一年でまだ幼いからといって、何も理解していない訳ではなく、僕と同じ言いようのない、不安と、悲しみと、怖さを、感じていたのかもしれない。
いつも通りに起きると、そのことがふと、頭をよぎるのだ。
だから、起き抜けの数分間は嫌いなのだ。
あの染みを見ると思い出すから、見ないようにしたいのに、目が開いた先にあるのだ、どうしようもない。
そういえば、あの染みは幼い頃からあったが、人の顔に見えるようになったのは、父さんが亡くなってからだろうか。
誰かの顔というほど、はっきりしていないが、睨んでいるようでもあり、馬鹿にしているようにも見える。
それが、僕の心を乱し、やけに不快にするのは、確かだ。
深く長いため息で、不快感を外へ押し出し、眼鏡を掛ければ、〈別の誰かになれる〉、そんな気がして、心がリセットされる。
いつもと同じ、いつもの朝だ。
規則正しく、同じ時間。
下では、母が台所で朝食を作っているはず。
いつも通り、手伝いに部屋を出ようと立ち上がった瞬間、先程まで気にならなかった、違和感を感じる。
何、と言われても、分からない。レンズ越しに、目を細め、凝らす。
テーブルの上に、〈真っ白な封筒が一通〉、置かれていた。
こんなはっきりと分かるものが、目を凝らさないと分からないとは、疲れているのだろうか。苦笑いが、自然と漏れた。
違和感を感じたまま、テーブルの上の封筒を手に取った。
糊付けはされておらず、中にはこれまた真っ白なカードが入っていた。何も書いていない。
カードだけ抜き取り、封筒はテーブルに置いた。
ひっくり返して裏を見て、元に戻し、今度は、もっと目を凝らし、じっぃと見てみる。
ぼんやりと徐々に見えきて、ジリ、ジリと火で炙ったみたいに、文字が徐々に浮かび上がった。
D o L
焼け焦げたような文字で、そう書かれている。
それだけしか書かれていないから、何を示しているのかは、分からない。
暗号だろうかと閃いて、考える時の癖で、顎に左手を添え、徐々に小首を傾げた。
文字を、じっいと見つめ、暫し考える。
何も、浮かんでこない。それはそうだ、心当たりも無ければ、ヒントも何もないのだから。
いつの間にか緊張していて、肩の力を抜くために、ふぅーーと小さく息を吐き出し、今度は文字を直接、触ってみた。
何か、仕掛けがあるかもしれない、そう直感したのだ。
【君は、どちらを選ぶ?】
直接頭の中に、知らない声が響く。あまりに唐突で、驚きを隠せず、持っていたカード式の〈手紙〉をぱっと、手放してしまう。手紙は、ぱたり、と床へと落ちた。
【おやおや、そんな驚くことかい?】
心臓は、ベクバクと早く打ちつけて、煩いくらいで、冷静さなんて、今は、持ち合わせておらず、声の主がどこにいるのかを必死に見つけようと、部屋中を焦って、必死に見回した。
【おや、私が見えない?おやおや?】
部屋をいくら見回しても、〈初めから〉、僕しかいないのだから、見つけられる訳がない。だから、余計に恐怖を感じるのだ。
【〈手紙〉をよく見て!集中、集中!答えは、そこにある!】
頭の中で声がやけに響き、高々と良い音でパンパンと手を叩く音が更に響いて、僕の中のどこかのスイッチが、目覚めたように、カチッと入った。
言われるがまま、手紙を拾い上げ、両手でしっかり持つと、一点集中し、痛いほどに凝視する。
ジリ、ジリ、ジリジリ
目が焦げていくような、頭の中に回路があるならば、それが焦げ付いているような、変な感覚に襲われていく。
吐き気が込み上げて、もうやめてしまおうか、そう思っても、手紙を強く握りしめた手は、一向に離れない。
僕の手のはずが、僕のものではない、そんな感覚。
「うあぁぁぁぁ!!!」
もう訳がわからず、頭が、狂いそうだ。
叫んで、叫んだが、それも、僕ではない誰かの声に聞こえる。
もう、だめだと、諦めかけた。
〈いつものように、諦めれば〉、そう、思った瞬間だった。
『こっち、ほら、こっち』
遠くの方から優しく囁くように、懐かしく、〈愛おしい〉、〈ずっと、ずっと、求めていた〉、別の声が、耳元から聞こえた。
パァァァァァァァァァ
光の道が開けたような、曇り空の隙間から、光が降り注いでいる、天使の梯子と呼ばれるあの光景が広がった。
暗くドロドロと、底なし沼にでも堕ちた心は、たった、それだけで、輝いて、晴れやかになった。
ふと我に返り、強く握り締めていた手紙に、視線が落ちた。
Die or Live
死ぬ か 生きるか
紙がすぅっと息をするように、文字は、英語から日本語へ変換される。
眼鏡を、外す。床に、カタンと、音を立てて落ちた眼鏡。
なぜか、活力に満ちて、鼓動は高鳴り、興奮気味。
「生きる!」
迷いなど一ミリもなく、一人、その言葉を、強く言い放った。