幼いころの夢がかなうなんて思ってもみなかった。
会場をでた二人は一度着替えに屋敷へと寄ってからそのまま国へと帰るつもりだった。
様々な手続きのためにマグダレーナの父、リコーサ公爵は留まることになるが、エマニュエルとマグダレーナはパーティが終わり次第出国できるように朝のうちに帰国の準備は済ませてある。
先ほどの宣言によってリコーサ公爵の身に危険が及ぶということも考えられるが、そこはルナプレナグラティア国内でも精鋭を集めて守りを固めていた。
そもそもソルフィデースには前もって忠告をしており、その忠告を無視した結果このような事態に陥ったのだから感謝こそされ恨まれるゆえんはないし、彼らもそれどころではないだろう。
これから彼らは王太子の再選定や被害令嬢への対応に追われるはずだ。
ヒロインとカルロスの動向を逐一報告にあげ、今後の懸念を指示していたというのに、ソルフィデースの国王や重鎮たちはそれを一度一蹴した。
たしかに自国の王子、それも王太子に任命されたものがこんなバカげたことをするなんて思いもしないだろう。
突拍子のないエマニュエルの話を真剣に聞いたルナプレナグラティアの面々が特殊なのだ。
しかしそのせいで窮地に立ったのだからせわもない。
ソルフィデースが外交が弱いと言われているのは、こういうところのことを言っているのだ。
それなりに信頼し合わないことには友好など築けるはずもない。
今後彼らがどう動くかはわからないが、ルナプレナグラティアに一つ貸しができてしまったことだけは確かだった。
その貸しをどう使うかはリコーサ公爵とルナプレナグラティアの重臣たち次第である。
「ようやく終わった……」
「ええ、ようやく終わりましたわ」
乗り込んだ馬車の中で、それまできっちりと背筋を伸ばしていた二人は糸の切れた人形のようにぐったりとお互いにもたれかかった。
それはこの数時間の疲れというのもあるが、この一年通しての疲れが一気に圧し掛かったようだった。
このあと、屋敷に待たせた使獣に乗って早速帰国するので、国に帰るまでは屋敷までのこの馬車の中くらいでしか体を休めることができない。
使獣は始祖神獣と同じ御姿をしているために神獣の遣いとされ、ルナプレナグラティアでは王家や一部の高位の貴族しか使役することが許されない。
幸運にもマグダレーナは彼らに認められたために背に乗ることができるが、他の使用人たちは馬での移動となるだろう。
残念ながら使獣は全長5メートル以上あるために馬では到底並走はできないだろうけれど、その代わりソルフィデースの追手にも捕まることはない。
追手などあってほしくはないが、ないとも言い切れないのが悲しいところといえた。
一応先立ってルナプレナグラティアから連れてきていた使用人はほとんど帰国しているし、あとはリコーサ公爵を守る護衛だけなのでこれからソルフィデースを立つのはエマニュエルとマグダレーナのみだ。
マグダレーナは少しはしたないと思いつつも足を休めようとヒールを脱ぎ、エマニュエルに至っては上着を脱ぎ、シャツのボタンまでも二つほど外してしまっていた。
本当のところをいうとマグダレーナもこの一年お仕着せだったためにほとんどつけることのなかったコルセットを緩めたい衝動に駆られていたがそこはなんとか堪える。
朝のうちは少しでも屋敷にいる時間を抑えようと中に着込もうと思っていたのだが、思っていたよりもこの一年で緩んだ体型に中に着込むことができなかったのだ。
今ここで緩めれば時間の短縮はできるかもしれないが、エマニュエルの前でだらしない姿を晒すことは女性としてのプライドが許さなかった。
エマニュエルとしては言うほどではないのではないかと思っているが、それを言うとなおさら彼女は自分を律しようとするのを知っているためにあまり深くは追及せずに窓の外を眺めた。
常よりも少し速い馬車から見える景色はこの一年で見慣れたものだ。
ヒロインというかゲームのことを差し引けばこの国で得られたものは多い。
カルロスのこともまだ彼女が絡み始めた最初のころはエマニュエルも毛嫌いするほどではなかった。
ヒロインが絡めば絡むほど、攻略者の男たちは理性を無くし知性を捨てた。
目に見えて堕落していく彼らを目にし、あの時思い出さなければ自分もこうなっていたのかと改めて恐ろしさを覚えた。
思い出せて本当に良かったと思う。
ふと隣に座るマグダレーナがエマニュエルの手に手を添えた。
それに視線を彼女へと移せば窺うような瞳でエマニュエルを見ていた。
黙ったまま窓の外を見つめる彼を心配したのだろう。
「大丈夫。何でもない。ちょっと、この一年を思い返していただけ」
「……本当に、お疲れ様でございました」
「マギーもお疲れ様。そして、ありがとう。あの時君が信じてくれなければ、そして一緒になって一生懸命考えてくれなければここまで来ることはできなかっただろう」
今こうしてエマニュエルがエマニュエルとしていられるのはマグダレーナのおかげだと彼は本当に思っている。
彼女が傍にいて協力してくれなければ、彼女が一緒に考えてくれなければ、彼女が真剣に信じてくれなければ、エマニュエルはなすすべもなくシナリオに取り込まれていただろう。
それほどにはゲームの強制力はあった。
例え前提が崩れていようとも修正しようとするほどには、強制力は働いていた。
「君にはたくさん迷惑をかけたね。傷つけるようなことも言ったかもしれない。僕のせいで、数ある未来を一つに絞らせてしまった」
留学前、マグダレーナはエマニュエルの婚約者という立場にあったけれど、それはお互いに好きな人ができれば解消することのできるそれほど強制力のあるものではなかった。
生涯唯一のパートナーとなれば、やはり好いた人が相手のほうがいいだろうというのがルナプレナグラティアの考えだったからだ。
だから本当ならば相談を受けた時点でエマニュエルと婚約を解消することもできたし、それも前提崩しの手としては有効だという話も出ていた。
二人の婚約を解消してしまえば、エマニュエルは『偽りの愛に縛られた状態で真実の愛を見つける』ことはないし、マグダレーナも『王子の婚約者という立場を利用して悪行を重ねる』こともない。
これが一番手っ取り早くできる前提崩しだった。
けれどどうしてもエマニュエルはそれだけはできないと拒否した。
マグダレーナは贔屓目に見ずともとても魅力的な女性だ。
婚約者のいなくなった彼女を他の男が放っておくはずがない。
もしも無事シナリオから逃れられたとしても国に戻った途端にマグダレーナと再婚約することは難しいだろうし、その一年で他の男と婚約してしまっている可能性だってある。
それだけは絶対に我慢ならなかった。
だからエマニュエルはリスクがあるとしても、留学前にマグダレーナと始祖神獣の前で愛を誓った。
会場でジェームズの言った通り、始祖神獣の前での誓いは愛に限らず絶対のもの。
それを違えば天罰が下るだろう。
生涯唯一を尊ぶカニス・ルプスに誓ったのが愛ならば、その裏切りの罪は重い。
もしそれで強制力によりシナリオに絡めとられたとしたらエマニュエルは賠償金どころか地位も名誉も堕落したうえで命をも失うことになるかもしれない。
それを覚悟でエマニュエルはマグダレーナに愛を誓った。
けれど、そのマグダレーナを手放すのが惜しいというのはエマニュエルの利己心だ。
マグダレーナは解放されて他の男性と共に歩む道を望んでいたかもしれない。
そう考えるとシナリオ脱却に必死だったとはいえ彼女を巻き込んでしまったことが悔やまれた。
そんな自責の念にかられて膝上で握りこまれた拳を、マグダレーナは優しく撫でた。
「いいえ、マニー。よく聞いてちょうだい。確かに苦労したわ。傷ついたこともあった。でも、わたくしはあなたのせいで縛られただなんて思ったことは一度もないわ」
耳慣れた、穏やかな声色はいつもエマニュエルにいろいろなことを教え、時には窘めてくれていた。
世間との認識のずれも、他者との接し方も、目の前の人の動向も、思惑も。
完璧な王子の仮面を被れていたのは全部マグダレーナあってこそ。
本人は全く自覚していないけれど、いつだってエマニュエルの助けとなっていた。
彼女が言うのならば大丈夫だと、信頼のおける意見として安心して取り入れられた。
その声がまたエマニュエルを窘める。
エマニュエルが自分勝手に動いたと思い後悔していることを違うと否定する。
「独りよがりの愛だなんて、そんな悲しいこと言わないで?神獣カニス・ルプスの御前で愛を誓えば誰でも真実の愛と認められるわけじゃないわ。お互いにしっかりと愛を持たなければだめなのよ」
いくら始祖神獣と言えど、そこにない愛を認めはしない。
愛し合う二人がそう望むからこそそれを認め、確固たるものにするのだ。
エマニュエルの言う通り誓った愛を裏切ることは大罪だけれども、そもそも認められない愛は始祖神獣の前までたどり着くことはできない。
何かにつけて妨害され、そのうちに離れていくことになる。
二人が始祖神獣の前に立てたというのなら、それこそ二人が愛し合っている証なのだ。
それをエマニュエルだってわかっているはずなのに今更不安に思うなんて、しょうがない人とマグダレーナは苦笑して続きを口にした。
「わたくしがあの時誓った言葉に嘘偽りはない。わたくしはわたくしの意志であなたと契りを交わしたの。マニー、わたくしは」
「ま、待って!僕から、言わせてほしい……」
けれどそれは途中で遮られてしまう。
自分から言いたいと言いながら合わせた視線にはもう迷いはなくなっていて、マグダレーナは素直にエマニュエルからの言葉を待つ。
マグダレーナの手を取り両手をつなぎ合わせて、エマニュエルは深く息を吸った。
「私、エマニュエル・カニス・ルプスはマグダレーナ・リコーサを生涯のパートナーとして愛し、守り抜くことをここに誓う」
「……わたくしマグダレーナ・リコーサはエマニュエル・カニス・ルプスを生涯のパートナーとして愛し、守り抜くことをここに誓います」
一年前、始祖神獣の前で誓い合った言葉と寸分も違わぬ言葉をエマニュエルが誓えば、マグダレーナも同じように誓った。
あの時は神獣に誓ったけれど、今日この時の誓いはお互いに向けてのものだ。
繋いだ手をぎゅっと力強く握り、お互いに吸い寄せられるように唇を重ねる。
「愛してる、マギー。僕の唯一……」
「ありがとう、マニー。わたくし、あなたの唯一となるのをずっと夢見ていたの」
ルナプレナグラティアにあるリコーサ邸の自分の部屋。
初めにエマニュエルに言い当てられたベッドの下の隠し棚にしまい込まれた日記には出会ったころの幼気な少女の甘く拙い想いが綴られていた。
最初はそれを見られたかと思い焦ったが、見られていないことに安堵したとともに、これから先彼に邪険にされるかもしれないということに酷く傷ついた。
政略なのだから仕方がなく、解消できることが前提の婚約でもあったからいつかこの日が来ることだって覚悟はしていた。
覚悟をして、これ以上好きにはなるまいと常に冷静に客観的にエマニュエルと接することを心掛けていた。
それでも実際にそうなるだろうと突き付けられるのはとんでもなく胸が痛むものだった。
けれど、彼はそうしたくないとマグダレーナに言った。
絶対にそうならないように力を貸してほしいと、他ならぬマグダレーナに訴えた。
その他にも世間体などいろいろと鑑みた結果ではあっただろうけれど、マグダレーナとの未来を守りたいと思ってくれたことがどれほどに嬉しかったか。
始祖神獣の前で愛を誓うことができた時、これで彼は自分のものになったとほの暗い喜びがその身を駆け巡った。
エマニュエルはゲームのマグダレーナがどうして悪行なんてしたのかを疑問に思っていたけれど、マグダレーナ自身ならばよくわかる。
ゲームの自分は愛を求めて、その身を滅ぼしたのだ。
彼女が穏やかに微笑む淑女の胸の内ではエマニュエルが好きで好きでたまらなく、傍にいないことが寂しくて彼の動向を追い、彼の恋心を知ってしまったのだ。
嫉妬にかられどうにか彼の心を自分に向けさせようとするも、それらは全て失敗に終わるのだろう。
その暗い感情の矛先となったのがつもり重なる悪行の数々に違いないとマグダレーナは考えている。
彼が完璧な王子の仮面を被るのと同じように、マグダレーナもまた落ち着いた淑女の仮面を被っていたのだ。
あの日エマニュエルが記憶と共に心を晒しだしてくれていなければ、マグダレーナも自分をさらけ出すことなどできず、いつしかシナリオ通りのことをしでかしていたことだろう。
エマニュエルが愚行を犯すのを止めることでマグダレーナも救われたのだ。
ありがとう、ともう一度繰り返すマグダレーナをエマニュエルは抱きしめた。
もうすぐそこに見えた屋敷に待つ二匹の使獣が、夜空に輝く月に向かって遠吠えするのが聞こえた。