天然タラシ、有害指定
「ところで三枝君。君、昼食はまだだったのか?」
紗川は起きてすぐは食事をとらない。ここにグラタンがあるならそれは、三枝のためのものだ。
「そうなんですよ。先生も食べますか?」
「いや、いい。ただ、君はそれだけで足りるのか?」
どうやらお節介で用意した食事ではなく、男子高校生の昼食にしては量が少ないと案じていたらしい。三枝は笑って頷いた。
「来る時に肉まん食ってるんで平気です。あ、そうだ。先生はスープでも作って飲んで下さいね。お湯を沸かしてありますから」
「コーヒーだけで構わないんだが」
「空きっ腹にコーヒーだけじゃ毒ですよ。先生の彼女からも言われてるんで、せめてスープだけでも飲んでくださいね」
「一体、何で買収されたんだ?」
「買収はされてないですよ? うちの店でお中元とお歳暮を買ってくれただけです」
「やれやれ」
肩をすくめた紗川は「そういうことなら」と、コーヒーを置き、インスタントのスープをカップに入れた。
コーヒーとスープ、カップ二杯分の水分だ。寝起きにはちょうどいいだろう。
「先生。目は覚めましたか」
「だいぶマシだ」
「何割くらい起きてます?」
「八割方」
それだけ起きているなら大丈夫だろう。
文句を言っても届くはずだ。
よし、と気合を入れて睨んだ。
「どうした?」
「先生、何か言うことありませんか?」
「何か、というと?」
八割起きているというのなら、文句を言っても伝わるはずだ。
三枝は静かに息を吸うと、一気にまくしたてた。
「時間考えて電話してくださいっ! 夜中の一時過ぎてすよ? ものすごく非常識だと思うんですけど!」
「あー……そうだな、悪かった」
あっさりと謝られるとは思わなかった。
「もういいですけど……」
ため息をつき、立ったままグラタンを食べることにした。それにつられたように紗川もスープに口をつける。
「珍しいですよね、酔ってたみたいだったし」
そういった顔にはもう先ほどの不機嫌の表情はない。
「昨夜はオフ会があったんだ」
「オフ会? それって、よくネットで知り合った人たちが会う、アレですか?」
「そうだ」
「先生もそういうのに参加するんですね」
「オフ会と言っても、投資家の情報交換の集まりだからな。情報交換会だ」
紗川には投資家としての一面がある。探偵という仕事だけでは生活が成り立たないためとのことだが、趣味ではないだろうかと三枝は疑っていた。
少なくとも殺人事件に対応している時より楽しそうだ。
「それにしても意外です。先生って、仲のいい友達と静かに飲むタイプだと思ってました。盛り上がりました?」
「盛り上がったかどうかはわからないが……昨夜はトヨタ2000GTのオーナーがいたから車好きが集まった。エンジンを一度バラしてクリーニングしてから組み立てたらしいんだが、現代でも遜色のない走りだそうだ。ああいうこだわりは聞いていて心地がいい」
「つまり、楽しかったんですね。で、飲みすぎたと」
「残念ながら、飲みすぎた原因は幻の名車ではない。気にかかる人がいたからだ」
「美人ですか?」
「何が聞きたいんだ」
「美人なんだろうなって。気にかかったくらいだから」
「やれやれ。勘違いをしていないか?」
「どうせ口説いたんでしょ。自覚なしでタラして歩くから本当に立ち悪いんですよ、先生は」
「一体君は僕をなんだと思っているんだ」
「天然タラシ。違うんですか」
「違う」
「でも、女の人でしょ?」
「これから来客がある。自分の目で確かめてみろ」
「その言い方だと……」
「男だ」
「うわ、つまんなーい」
「何がつまらないんだ?」
「べっつに~、こっちの話でーす」
美人の来客なら大歓迎だったのに、とボヤいても、紗川には相手にしてもらえなかった。それどころか、やれやれとため息をつき、空になったカップを洗っている。
「わ、先生すみません。コーヒー飲むなら別のを使ってください。俺のが食べ終わったら一緒に洗うんで」
「君の洗い物はせいぜいフォーク一本だろう。こちらもカップ一つだ」
「すみません」
「気にするな」
日頃、家政婦がわりにされていることに不満を抱いてはいても、目の前でカップを洗わせてしまうと居心地が悪い。
三枝が冷凍グラタンの残骸を捨てようとしていると、背後で紗川がいれたばかりのコーヒーを飲んでいた。
「三枝君。上の棚は見なかったか?」
「上の棚、ですか?」
「昨日、焙煎してもらった豆がある」
「焙煎したて! それ美味しそうですね」
「手で落としたいところだが、来客中にそれはできないだろうからな」
「じゃあ、お客さんが来たらそっちは用意します。ところで、お客さんって、昨日会った人ってことは投資関係の人ですか?」
投資家同士の集まりで知り合ったのなら、そうだろうと踏んで尋ねた。
「そうだ」
「ふうん……じゃあ、俺、お茶とか出したら帰ろうかなあ……」
「何か用事でもあるのか?」
「そうじゃなくて、事件とかだったら――むしろ帰れって言われてもいますけど――経済とかの難しい話されてても、居づらいだけだし」
紗川はそれに苦笑しながら「帰れとは言わないさ。大切な記録係が居なかったら困るだろう」といって肩をすくめた。
「先生に人並みの記憶力がないのは神様の良心だと思います、俺は。人間何か欠けてるところがないと、人から好かれませんよ?」
「自分が不完全であることを自分で許すためにか?」
「どうしてそういうひねくれた捉え方しかしないんですかね、この人は!」
「それともねたみ根性というべきか?」
「うっわ、サイテー思考っ」
「ほめ言葉として受け取っておこう」
「誰もほめてません。全く……あ」
――ドンドン
ガラス戸を叩く音がする。二人はほとんど同時に振り返った。
すっかり色あせたカーテンに、人影が浮かんでいる。
「来たようだな」
紗川は自ら歩み寄り、カーテンの隙間から相手を確認した。
「お客様ですか?」
待っていた人なのか、と言う意味で三枝が問うと、紗川は肩越しにうなずいて戸をあけた。
「やあ、どうも、紗川さん」
陽気な声を上げて小柄な男が入ってきた。