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探偵と助手の日常  作者: 藤島紫
第1章 「本日のおやつは、さつま芋パイです」
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クライム・スタンプス

「エンジンオイルが何なのかを説明すると長くなるから省くが、その正体はその名のとおり、エンジンを満たすオイルだ。これは車を走らせていると汚れるから定期的に交換する必要がある。ちなみにこの車はもう前回の交換から三千キロメートル走っているからそろそろ交換しないといけないんだが……」

「あ、でもミニクーパーは奥さんの車ですよね? 奥さんあんまり乗らなかったって言ってませんでした?」

「エンジンオイルは走行距離がないからといって交換しなくても良いものではない。オイルは劣化するから走行距離が少なくても時期が来たら交換する方がいい」

「乗ってなくても汚れ……あ、汚れじゃなくて、油が古くなるのか」

「そう言うとだ。エンジンオイルは、かなり汚れた状態でも、良好とはいえない状態ではあるが、走ることは可能だ。だから変えない人は相当酷い状態でも変えない。これは想像だが、あのミニクーパーはだいぶ長いこと汚れたエンジンオイルのままだったのだろう。それが、先月車検に出したときにフラッシングされてオイル交換もされた」

「じゃあ、キレイになってよかったんじゃないですか?」

「そうだ。エンジンの中はずいぶんきれいになった。しかしこれに問題があった」

「キレイにしてればいいんじゃないんですか?」

「フラッシングされても、即座に全ての汚れが取れるわけではない。分解して磨くわけではないからね」

「んー……歯磨きで、マウスウォッシュだけだと汚れが取りきれない感じですか? 歯ブラシ使うのと違う感じでしょうか」


 面白い表現だと頷いて、紗川は話を続けた。


「新しいオイルで走行していると、フラッシングで取りきれなかったエンジン内部に張り付いていたゴミが浮いてくる。浸透にも似ているな。そのうえ、あのミニクーパーは古い車だ。エンジンも年を取っている。どれほどしっかり作ったとしても、振動を与え続ければ隙間ができてしまうものなんだ」

「隙間って……エンジンに、ですか?」

「そうだ。それまではその隙間にゴミが詰まっていたから、ある意味で問題はなかった。しかしオイルを交換したために、詰まっていたゴミが浮いてきて、今度こそ隙間ができてしまったんだ。それでオイルが漏れた」

「キレイにすればいいってものじゃないんですね」

「まめにメンテナンスをするべきだったと言ってほしいところだ」

「キレイになったら、ゴミで塞がれてた穴からぽたぽたこぼれたわけですか。なるほど……」

「穴というわけではないぞ。エンジンもパーツとパーツを組み合わせて作られている以上、振動を与えられればゆがみが生じる」

 

 被害者のミニクーパーは可愛らしいが古い車だ。ゆがみ、隙間ができてしまったのだろう。

 ポタポタと零れ落ちるエンジンオイルを想像しているうちに、よくここまで爆発や火災を発生させずに来られたものだと思ってしまった。


「あっ! そうだ。今日の天気予報は雨でしたよね。午後から雨。俺が事務所に着いた時はまだ振り出す前でしたけど。事務所を出る時は振り出してたし……」

「そうだな」

「雨の日を狙ったんじゃないでしょうか。雨なら証拠を洗い流してくれそうですよね。なんらかの証拠が出ても、雨が流してくれるんじゃないかって気もするし。例えばタイヤの跡とか」

「まあ、アスファルトにタイヤ痕をつけようとするほうが悪目立ちしてしまうだろうが……痕跡を消せるのではと考えたと言うほうが自然だ。あとは、カフェのオープンだな」

「カフェ?」

「大宮駅に向かう道は渋滞がひどいが、駅から離れてしまえばそうでもない。どうしても今日にしてくれと、強引に約束を取り付けてきたのは、カフェのオープンのせいだろう。時間が経てば、渋滞を解消するために警備員を手配するはずだからな」

「強引に約束って……なんだかその辺ですでに怪しかったんですね?」


 紗川は苦笑いしているだけだった。

 言われて思い起こすと岸の様子はいろいろと不自然だった。犯人だと思って振り返ると、彼の言動の全てが「自分が犯人です」と言っていたような気がしてしまう。


(変なの……あの時は……奥さんを亡くして苦しんでいるように見えたのに)


 いや、苦しんでいたことに間違いはないのかもしれない。

 殺したくて殺したようには見えなかった。大切な人を失った悲しみの感情は確かにそこにあったと思う。

 心臓が痛むような錯覚を、三枝はラテを飲むことで飲み下した。


「そういえば、奥さんの死に方、家族とかでなきゃありえない気がしてきました。他人が部屋に入って来たら、フットバスとかマニキュアとか、やってられないですよね」

「岸さんは子供がいないといっていた。夫婦二人だけだと言っていたよ」


 少し寂しそうだと思ってから、それならば彼以外にはやはり考えられないのだと思った。


「フットバスに浸かって、マニキュア塗ってるところに、後ろから近づいてスカーフで首を絞めたんですね……。手も足もあまり自由が利いていないところを狙って……」

「あるいは、スカーフを巻いてあげようといって近寄ったのかもしれない。気づいたか? あのときの彼女の着ていたワンピースに、とてもよく合う色合いのスカーフだった。つめの模様はピアスに合わせたのだろう。象牙で作られた小さなバラだった。非常におしゃれな人だったんだろう」

「それは気づきませんでした……。っていうか、先生、死体の女性のこと褒めなくても良いと思いますけど」

「ただ思うのは……岸さんは後ろからでなければ殺害することはできなかったのではないかということだ」

「どうしてそう思うんですか?」

「彼はとても彼女に惚れ込んでいた様子だったからさ。恐れてもいただろう」

「どうしてそれだと後ろからなんですか?」


 紗川は黙ったまま目をすがめると、再びアメリカーノを傾けた。








 翌日、事件は解決した。

 夜明け前に岸俊夫本人が自首して来たのだそうだ。

 事務所のソファで一泊した三枝は、寝ぼけ眼でそれを聞いた。

 道の状況を確認した紗川は、眠気に負けてふらつき始めた三枝を事務所に送ると、その足で警察に向かい、当直刑事にそのことを伝えたそうだ。約束の4時より早かったが、問題はなかったらしい。

 三枝はソファに倒れ込みそのまま眠ってしまった。家にメールを送るのが限界で、制服の上着も脱がずに横になってしまったせいでシワだらけだ。上にかけてあった毛布は紗川が用意してくれたのだろう。

 紗川は一睡もしないまま、警察とやりとりを続けていたようだった。

 眠るタイミングがずれてしまったせいで、三枝はぼんやりしていたが、紗川は意識がクリアなようだ。ソファに座っている三枝に、コーヒーとフレンチトーストを用意してくれた。

 天気のせいだろうか、いつも流れているユウセンの音楽が止まってしまっている。その代わりに、雨だれの音が絶え間なく聞こえていた。

 岸の自供によると、当初、アリバイの証人として紗川を選んだのだという。

 探偵をしているという事も、味方にすれば強みとなると考えたらしい。ところが、その紗川が何度も自分が走ったルートを走っているのに気づいて怖くなったのだそうだ。


「そんなに気が小さいなら殺人なんかしなきゃよかったんだ」


 三枝は深く考えずにそう思った。意図せず、それが口からこぼれていたのだろう。紗川が「目的を遂行した後だからどうでもよくなったのかもしれない」とつぶやいたのが、なぜか強く記憶に残った。

 たとんっ、とんっ、と大きな雨粒が落ちる音が響いた。

 古い建物だ、防音などされない。

 ふと、天気のせいで音楽を受信できないのではなく、紗川は雨の音を聞いていたいのかもしれないと思った。


「ところで先生、雨が降ってたとき、どうしてツイてるって言ったんですか?」


 こうして音を聞くだけなら雨も悪くはないが、外出にはやはり向かない。


「路面がどれほど汚れていても、あんな色で光るものはそうはない。雨で通常の汚れが流れ隠される一方で、オイルは浮かび上がる」


 外を見るよう促され、カーテンを退けて路面を見た。

 昨日、岸が止まっていた辺りの水たまりに、虹色のシミが浮かんでいる。


「エンジンオイルの跡はこの程度の雨では消えない」


――まるで犯罪の足跡みたいですね


 三枝は小さく呟くと、カーテンを閉じた。


この章はここで終わりです。

少しでも楽しんで頂けたのであれば幸いです。


次の章からは、また別の事件のお話です。

よろしくお願いいたします。

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