通報から35分
紗川がゆっくり、静かに息を吐いた。
「では命の危険があったのは岸さんのほうではありませんか。どこから岸さんのメールアドレスが漏れたのでしょうか」
「送られてきたのは私の仕事用のアドレスです。あちこちで名刺を配っていますから、何らかの手段で私が美子の夫だと分かったんでしょうね」
「どのような経緯で岸さんのメールアドレスを知ったにしろ、脅迫は穏やかではありません。なぜ放置していたのですか?」
「羨まれて、気分が良かったんですよ。メールの送り主に対して、妻にのぼせ上がってしまった愚か者と哀れにすら思いました。ですが――美子を殺す、というものに変わり、放置できなくなりました」
「奥様とそのことについて話しましたか?」
「いいえ……。言わなければと思いながら、いざとなると、どう切り出してよいものか……」
「難しいと思っていたのですね」
紗川が非難しなかったことに岸は明らかにホッとしたようだった。
「そうこうしているうちに、脅迫はだんだん酷いものになってきました。郵便ポストに切手のない手紙が入っていたこともあります。妻自身に贈り物が届いたりもしました」
「それについて奥様は」
「モデル時代にもよくあったようで……喜んですらいました。こっそり読んでみましたが、気分が悪くなり、妻に隠れて全て破棄しました」
「確かに気分のいいものではないでしょうね。メールはどうしました?」
「同様です。あまりにも不快だったので届いてすぐに削除してしまいました」
「……そうですか」
紗川が言いたいことは三枝にもよく分かった。
証拠が全くない。これでは動きようがない。
岸も察したのだろうか
「こうなってから……軽率だったと後悔しています」
「脅迫メールはパソコンで見ていましたか?」
「はい」
「どこかにデータが残っているかもしれません」
岸は首を振って頭を抱えた。
「それが……先日、ウイルスにやられてしまって、OSを入れなおすはめになってしまいまして」
犯人が証拠を消すためにやったのだろうが、岸も注意が足りないのではないか。
紗川も呆れているだろうと思いながらみると、表情に変化はなく、ただ頷いているだけだった。もし三枝が同じことをしたら、きつい雷が落ちるだろう。
「ところで……」
と紗川は視線を遺体に移した。
「奥さんはよくフットバスを使うんですか?」
「ええ、夕方になると足がむくむといって……。実店舗には客がほとんど来ないので、夕方には閉めてしまうんです」
「では、夕方にフットバスを使うのは習慣になっていたんですね。その間にマニキュアを塗っていたようですが……これはよくあることなのですか?」
「フットバスを使っている時間は基本的に歩けませんからね。この時はいつも爪の手入れをしていました。それほど長い時間というわけでもないので、ちょうどいいのだといって……」
「なるほど。では、このスカーフは奥さんのものですか?」
「ええ、そうです。これはわたしが結婚記念日に送ったもので、一点物です。妻の特に気に入っていたものでした」
「これが凶器だったら――ああ、来ましたね」
岸が眉を寄せている。
突然話が変わり、何のことか分からなかったのだろう。
「玄関に行きましょう」
「え?」
たずねたのは三枝だ。
三枝もとっさに分からなかった。
紗川はわずかに目を細めただけでさっさとリビングを出て行こうとする。
「先生」
「警察だ。この辺りは民家ばかりだからな。国道を折れたところからサイレンは切っていたんだろうーー窓の外を見ろ。赤いランプの光が反射しているのが見える」
言われてみると定期的に赤い光がほのかに見えた。
遺体を前に遺族の話を聞きながらも、窓の外にも気を配っていたのかと、内心で舌を巻いた。
「やれやれ。通報から三十五分か……思ったよりも早かったな」
低く呟いた声は、岸には届かなかっただろう。酷く不機嫌そうだった。