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日常とは退屈である。
代わり映えのしない日々の繰り返し。其れこそが何よりも幸福だと言う者は居るだろうが、少なくとも凌はそんな高尚な考えに至れる程成熟してはいなかった。そもそも其の“繰り返される日々”に不満たらたらとはいかずとも、満足していないのだ。そうした考えに至れる筈も無い。
何をする気にもなれないのは、断じて凌が怠惰な人間であるからではない。傍目には怠惰で、やる気や努力という言葉から最も遠い人間に思われていようと、凌本人としては其れを否定したい所存である。……否、怠惰云々については否定したいし、否定も出来るが、努力から縁遠いという点についてはあまり声高に否定も出来なかった。
凌は努力という物をした事がない。正確に言えば、本人の主張を優先すれば、“殆ど”した事がない、ではあるが。
其れは断じて凌が怠惰で1日を過ごし、何から何まで、1から10まで放棄しきっているからではない。諦めが早いワケでもない。
凌には努力が必要ないのである。
何をやらせてもさらりと行えてしまう人間というのが何処かには存在しているらしいが、凌はその、“何処かに存在している人間”の1人である。勉強も、スポーツも、絵画も、料理も、裁縫も。其れこそ何から何まで、1から10まで、全てに至って。
凌が取得に要した時間は数分。でありながら、取得具合は高校生の域を幾重にも逸脱したもの。所謂玄人裸足の腕前、といったところだ。
労せず其れだけの成果を収める凌を、クラスメイトは羨望と嫉妬の眼差しで見つめる。大人は称賛しつつも凌を怖がり、それとなく避けるか、明らかに媚を売る。
そうした1日1日に凌は飽き飽きしていたし、労せず事を極められる此の、一種の体質ではないかと思える程の実力を、凌自身は邪魔だとさえ思っていた。無論其れが持つ者の傲慢だと揶揄される事は承知であるので、誰かに胸の内を明かしたりはしない。
仮に凌が持たざる者の立場で、必死に努力している誰かであったなら。凌の様な人間を、凌も羨望の眼差しで見つめ、嫉妬を抱き、心の何処かで失敗さえ望んでいたかも、しれない。
それでも其れは、“もしも”の話。現実では凌は持つ者であり、其れ故凌は己が持つ物を嫌う。
努力し、何かを得る不特定多数が“何処かに居る”凌の様な人間を羨むのであれば、凌の様な人間は努力の結果何かを得られる事を羨む。無い物強請りである。
分かってはいても、凌は思うのだ。如何しようもない事に努力して、努力して、漸く得られた喜びというのを味わってみたい、と。
現実では努力が実らぬ事が多い為、挫折による涙や、自暴自棄の行いが後を絶たないのだろうが。それでも、というヤツである。
だから凌は努力した。
何かを“努力する事に努力”した。結果、無駄だった。努力せずとも凌には全て手に入ってしまう。頭脳にしても学年トップというレベルではない。全国模試のレベルで、だ。
何だろう、真面目に勉強している人や、真面目に練習に取り組んでいる人に申し訳なくなってしまう。
彼等には目的がある。しかし凌には目的がない。そんな凌に此れ程の才能があるなんて、神様というのはいい加減なのか、残酷なのか。
……別段、凌は本気で神を信じているワケでも、本格的に無神論者であるワケでもないけれど。
はあああ。
1人、大きく深い溜息を吐く。溜息を吐けば幸せが逃げるだとか、1日に何回以上溜息を吐くのは良くないとか。そんな話も交わされているが、別段“溜息を吐く自由”は誰しもに与えられていると思う。
しかし凌には其れが無い。いや、無いワケではないのだろう。溜息を漏らした際の、お前それだけ恵まれているクセに何溜息なんて吐いてるんだ、的な視線を無視すれば良いだけである。そしてその視線を無視するのも面倒と言うか、余計に頭痛のタネならぬ溜息のタネが増えそうであったので、今はこうして誰もいない道なり、自室に籠ってなり、兎に角人を徹底的に排除して溜息を漏らすのだ。
何だろう、思い返してみれば自分がとても暗い人間である様に思えてきた。
一応輝ける未来が控えた、若い、健全で健康な高校生である筈なのに。自室に籠って成す事が溜息の大量生産。どうしよう。如何しようもなく、暗いではないか。
「アンタ等はコレが本気で羨ましいのかよー、っだ!!」
本人の前では言えないだろう文句を、独り言として叫ぶ。誰も居ない道に僅か響いて、しかし直ぐに消えていった。先程よりも却って静寂が際立つ。
……ヤバイ。完全に寂しい人だ。そう思っても、誰にも明かせない不満というのは蓄積しており、誰にも明かせない分、己の中で鬱屈と渦巻いていくもので。
はあ。
溜息をもう1つ。これで幸せは幾つ逃げただろう。2つ?それとも先程の大きく深い溜息で、5つ6つ逃しただろうか。そもそも溜息を吐いていないのに幸せが抜け落ちてる気もする。
凌は夢想する。考えるのはタダだ。
こんな日常。何でも出来てしまって、だから溜息の1つも許されないような。無条件で、反射的に、恵まれていると思い込まれて、一方的な羨望と嫉妬を受けるだけな。そんな日常に終わりが来ないかと。
別段死にたいワケではない。幸か不幸か、凌はそこまで追い詰められてはいない。それでも今の日常を終わらせて欲しいとは思うのだ。さもなくば、自分でも如何にも出来ない様な大事が転がり込んできてほしい。
自分の手に余る様な。
それで、努力しようと思えて、“努力出来る”ような事。
「何か!何か変化はないんすかぁぁぁ!!!」
誰も居ないのは確認している。
近所迷惑にならない範囲で凌は、肺の中の空気も全て使う勢いで、吐き出した。
絶叫、だった。
それは溜息や文句同様、僅かに響いて消える。後には静寂だけが残って、余計に虚しくなるだけ。
応える物なんて何もない。応える者なんて誰も居ない。
今迄もそうであったし、これからもそうである。だから今も、“そうである”筈だった。
凌の耳が僅かな音を拾う。ひゅー、という小さな風を切る様な音は頭上から。落下音だろうか。何かが落ちてきている。
そう判断すると同時、上空を見上げ。咄嗟に顔の前に手を出した。庇う様に。受け止める様に。
果たして、手には多少鈍重な衝撃と、やわらかな感触。おそらく顔面キャッチを試みていたら歯の数本は持っていかれただろうし、其の儘頭上を落下点にされていたら最悪頭蓋骨陥没。
……。
繰り返す。日々に疲れ、日常の崩壊を望んでいる凌だが、死にたいワケではない。その、あまりに現実的な想像は考えるだけでゾッとするに足るものだった。
まあ実際問題、こうして無事両の手で受け止められ、少し掌が痛む程度の結果に終えられたので問題は無いが。
さて、果たして何が降ってきたのだろう。
見た所周囲に高い建物はなく、屋上ないしベランダから誰かが誤って落とした可能性は低い。そもそも人通りの有無を十分に確認している。屋上やベランダとは言え、人間が外に出ているのにあんな体たらく、凌は見せない。
プライド云々と言うか、後々買う反感的に見せられないのだ。
なら空から降ってきた?まさか、御伽噺や有名なアニメーション映画でもあるまいし。自身の考えを否定したいが、此の環境はそう思った方が自然である。多少の矛盾は無視。
正体が知れない為多少警戒しつつ、凌は顔の前に掲げた手を下ろす。ついでに上空を見上げた顔も平時の高さに。
果たして、凌の手の中には。
受け止めた其れが、もぞっと、ゆっくり“動く”。居心地悪そうに。決まり悪そうに。こそこそと“逃げ出そう”としている。
つまりは生き物。
こげ茶の三角形の耳。ふさふさとした同色の尻尾。凌の知識にもある生き物だ。狐。
その尻尾が1本ではなく3本ある事や、その耳尻尾以外は“人間の子供”の形をしている事は……如何理解したら良い?
あれかな、妖狐、ってヤツかな。
そんな風に漠然と考えながら、凌は手の中の妖狐(暫定)を見つめる。凌に気付かれないと思っていて、且つ、気付かれない内に逃走しようと思っていたのだろう。あからさまな凌の視線を感じたか、一瞬動きが止まる。しかし何事も無かったかの様に逃げ出そうとする妖狐を抱きかかえる形に手を内側へ引き寄せ、日本語と言うかそもそも人語が伝わるのか分からないながらに声を掛けてみる。
「えーっと、オレに気付かれない内に逃げようとしてた?それならごめんね、オレ、とっくに気付いてる」
妖狐(暫定)が空から降ってきた。
明らかに日常は崩壊の兆しを見せた。ちょっと嬉しい。
因みに創作の世界の登場人物たる妖狐が現実世界に居て、それも空から降ってきたという事は、凌の中でツッコむべき事案ではなくなっていた。
人間、驚きが一定量を越すと逆に冷静になって、割ととんでもない事でも受け入れてしまう。
それは脅威的な能力でもって、何事も即座に身に付ける凌であっても同じだったようだ。