《第3話》ワインは料理とのマリアージュで輝くのです。
──あれから半年経ったが、まだ作り方を教えてくれない。
自分のもそう大差ないように感じるが、彼女の方がデミグラスソースの味が深い。
自分のはワインの味が強く感じる。
何が違うのだろう──
連藤は半年の間に全てのメニューに口をつけたと言っていいだろう。
だが結局戻ってくるのはビーフシチューだ。
ほぼ毎日のように通っているが、彼女のビーフシチューは、本当に美味い。
だが美味しい、という言葉より、ウマいという言葉がしっくりくると思う。
彼女のこのビーフシチューのウマさは衝撃なのだ。
ワインに似ているところもあると思う。
ワインを飲む前には、多分こんな味でこんな香りのワインかななんて想像するだろう。
だが予想外ならどうだろう。
想像していた味と全く違う味、香り、舌触り、酸味、すべてが違うと投げつけられたとき、思わず口からこぼれる音は端的で的確だ。
美味いか、不味いか、それだけなのである。
暗くも淡い闇の中で一人思い描いていると、そっと肩に手がかかる。
小さく冷たい手───
「今日は仕事あがりですか? いつものでいいです?
今日はいい羊入ったんですよ。
それにフランスの南の方のワインも入ったから、よければ合わせてみないですか?」
今日はビーフシチューの舌で来たのに、そんな申し出があったら悩んでしまう。
だが明日は休みだ。
「オーナーもつきあってくれるのか?」
「ごちそうしてくれるなら」弾む声が聞こえる。
彼女も飲みたい気分のようだ。
「そしたら、その羊で」
「楽しみにしててください」
彼女は今にも飛び上がりそうな勢いでカウンターへ戻っていく。
足取りが軽い。
飛び跳ねる足音を聞きながら、今日のことを思い返していた。
——連藤は今日、独り残業をしていたのだ。
月に何度かあるのだが、今日はいつになく手間がかかってしまった。
最近は後輩の二人も頼れる戦力になってきたが、やはり最後の確認は自分となることが多い。
もちろん三井もその担当であるのだが、彼は行動派だ。
動き方は彼から学んだ方がいい。自分は机上のことを教えていければいい。
と思いつつも、そのフォローに時間がかかることもある。
目が見えないメリットもあれば、デメリットもあるのだ。
その両方をどう折り合いをつけていくか、考えていくのが、今後の課題でもある——
「先にワイン開けておきますね。あとチーズの盛り合わせもどうぞ。
チーズは4種類。長方形の皿です。
左から、カマンベール、ブルーチーズクラッカー付き、ウォッシュチーズ、ゴーダチーズになります」
彼女は皿がどこから始まるか、手を取って教えてくれる。
これは最近になってしてくれることだが、一度皿の大きさがつかめず、グラスを倒してしまったのだ。
それから彼女は自分の右手を取り、どこにあるのか、どの程度の大きさなのか、教えてくれるようになった。
やはり独りで来るデメリットがこれだろう。
フォローがないので不便な時もあるのだ。
が、独りの食事の時間を楽しむのもこれは大事なこと。
味わうという時間は、人がいると共有しなければならない。だが独りであれば、独りで満足できる。誰かから『そうは思わない』なんて批判を聞かなくて済む。
連藤はゆっくりワインの注がれたグラスを持ち上げた。
持ち上げただけで、枯葉の香り、石灰のようなミネラルの香りがする。
鼻を近づけるとダークベリーの香りもするが、奥の方からそっと湧き出ているようだ。
たまらず一口含んでみる。
思わず、言葉にならない声がもれる。
香りのイメージは年老いた男性だった。
だが飲み口はどうだろう。
まだまだ若い。若いとは言っても10代のようなフレッシュさではない。
強いて言えば、何事にも落ち着き、深みのある演技ができる俳優といったところか。
時に初老を演じ、時に若々しい青年を演じられるような、そんなギャップがある。
「あと15分ほどで焼きあがるんだけど、
どう、このワイン?」
彼女がはしゃぎながら現れた。
感想を待ちきれないといった感じだ。
「もっと時間が経つとイメージも変わるかもしれないけど、すごくいい。
香りの落ち着きと、味の若さのギャップがたまらない」
思わず饒舌になった連藤だが、彼女はその言葉に満足なのか、
「そうでしょ?」
彼女もワインを一口含み、カラカラと笑う。
「やっぱり美味しい料理と美味しいお酒は必需品だよね」
するりと伸びた手は、わからないと思ったのか、チーズを一切れ盗んでいく。
彼の眉毛の角度で気づかれたと知ると、
「ホントに千里眼だねぇ」言いつつも彼女は口に放り込んだ。
「今、サラダ作ってきてあげる。
そのスタイル崩れたら、後輩くんに笑われちゃうもんね」
今の時刻は11時を回っている。
そんな時間でも彼女はお客の自分に気を配り、料理を出してくれる。
これは他のお客にもそうだ。
自分が特別ではない。
女性にはいつも小さなデザートを振る舞うし、話好きのお爺さんにはなるだけ付き合ってあげている。
そう、自分はなにも特別ではない。
そんなことないだろ、いつもお前のこと待っててくれてるだろ?
三井はそういうが、待っているのではなくて、単に遅い時間でも彼女がいた、それだけだ。
それだけだ——
「羊、焼けたよー
今日は骨つきなので、手掴みでどーぞ」
いつもどおり、自分の右手を取り、人差し指で皿をなぞってくれる。
冷たい手。
自分は彼女を人間だと思っているが、本当はロボットなのではないだろうか。
自分は、何か騙されているのではないのか。
「どうかした?」
「いいや。いただきます」
口に獣臭さが広がった。
羊独特の臭みだ。
そこへ素早くワインを流し込むと、ワインの香りに深みが増すではないか。
鼻から抜けるベリーの香りが一段と濃く感じ、肉に甘みが増した気がする。
なんて素敵なマリアージュだろう!!
恍惚とした表情を浮かべる連藤に、
「口にあったようで良かったです。
ゆっくり召し上がれ」
彼女はグラス片手に再びカウンターへと戻っていった。
ここにはとどまらない。
自分の近くには居続けないのだ。
ただ、そう、
もし、
もしも、特別と思ってくれているのなら、
ビーフシチューのレシピ、教えてくれるはずじゃないかっ!
……やはり俺は、目が見えないしな。
───何かのせいにしたくなるときもある。
自分に魅力がないのはそのせいだと思い込みたいときもある。
しかし今日の羊とワインは格別だ。
「オーナー、今日のワイン、すごく高いんじゃないのか?」
「やっぱりわかっちゃう?」
何か炒めているようだ。
油の弾く音がする。
「今日さ、ちょっと特別な日で、独りで高いの飲むのなんて、なんかアレじゃないですか。
今日連藤さん来てくれたし、これは良いチャンスと思って。
あ、これのお代は結構なので」
彼女の焦った声が返ってくる。
「誕生日……なのか…?」
連藤はグラスを持って、カウンターに移動した。
店内が薄暗く感じる。
どうも、もうクローズを出したようだ。
「そんなんじゃないけど」
声が濁る。お祝いとかではないようだ。
「ね、ね、羊どうでした?」
「とても美味しい。特にハーブの香りがいい」
「さすがですねぇ。今日はハーブはフレッシュで作ってみたんです。
いっつもドライなので、フレッシュのほうがやっぱり、臭みとかうまく消しますよね」
彼女は手を休めることなく話を進める。
「何を作っているんだ?」
「これはカレーの仕込みです。玉ねぎ炒めるのめっちゃ時間かかるでしょ?
こういうときは残業になるんですよ。
あ、チーズ、追加します?」
彼女は手元を見たままだ。 声が下から聞こえるのだ。
その雰囲気を感じながら、彼は彼女がいる方へ顔を向けた。
「……あの、今度、ワインを飲みにいかないか?」
すんなりと出てきた言葉に自分が驚く。
「連藤さん、エスコートしてくれるんですよね?」
「それはもちろん」
答えながらも何故か動揺している。
自分で言ったにも関わらず、動揺するとは情けない。
「したら来週の水曜日、早めに店を閉めようと思ってたんで、どうですか?」
「構わない」
「じゃ、よろしくお願いします」
彼女のはにかんだ声が聞こえる。
連藤も同じようにはにかんで笑ってしまった気がする。
だが少し余裕のある男に見せたくて、唇を結んでみた。
ワインは今回はフランスのローヌ地方の赤ワインをイメージ。





