《第202話》玉葱地獄編 豚の玉葱煮
北海道に住む祖母からの電話で、
『莉子ちゃん、玉葱おくろっか』
「いいの? 助かるー」
『今週には届くから』
「ありがと。待ってるね」
そんな、些細な連絡だったのだが……
「なにこれ、業者?」
20キロの玉葱が3つ、届いたのだ。
確かに、毎日の仕込みで使わなくはない玉葱だが、これほどの処理はかなり厳しい。
なにより、春の玉葱・シンタマも箱で買ったばかりなのだ。
「これ、もう、目が死ぬんじゃないかな……」
未来の自分が玉葱をむき、スライスしている姿が見えるが、大泣きだ。
目が痛いよぉ痛いよぉと呟きながら処理をしている姿が見える。
それでも今日から使っていかないことには処理は進まない。
予定を見ると、今日は連藤と三井が夕食に来ることになっている。
少し暖かくなってきたこともあり、さっぱりしたロゼのスパークリングワインを所望している。
「あれ、やりますかな」
莉子はランチを乗り切った勢いで、玉葱を処理することにした。
今回、二人に出そうと思っているメイン料理は、豚の玉葱煮。
もう、そのままのタイトルなのだが、放っておけばいいという、とっても楽ちんな煮込み料理だ。
豚は、チャーシューで使う豚モモの塊肉。少し脂身が多いものを選ぶと、筋もしっかり柔らかく煮込まれ、コラーゲンたっぷりなスープと一緒に食べられる一品だ。
豚はフォークでさして、肉の量の1%の塩をもみ込んでおく。
常温になるように30分ほど放置している間に、玉葱の処理だ。
丸まま半分に切り、使う方法もあるが、莉子はオニオンスープもいっしょに楽しみたいため、スライスしていく。
多少厚くなってもとろとろになるため、それほど問題はない。
とはいえ、薄い方がよりとろとろになるため、手際よく、手を気をつけつつ、スライスしていく。
大きめの蓋付きの鍋を用意。見たところ、玉葱は6玉は入れられそうだ。
玉葱をスライスするとき、頭に何かのせながらとか、何か加えながらとか、ガムを噛めばとか、いろいろ対処法は存在する。
だが、莉子のやり方は少しちがう。
ガンガン換気扇を回しながら、体を横に向けて、玉葱の飛沫を少しでも避けて急いでスライスをする、という方法だ。
3回に1回は成功していると思う。
ちなみに今回は、
「……いだい……しみる……いだい……」
失敗である。
玉葱自体の温度や、玉葱の機嫌もあるのだと、莉子は勝手に思っている。
今回はあまり切られたくないタイミングだったようだ。
「人間は勝手だからね……申し訳ない……」
一度手をしっかり洗い、顔も洗い、目を腫らした莉子だが、そのまま料理へ進んでいく。
オリーブオイルを鍋の中で熱し、キッチンペーパーでドリップを拭いた豚肉を投入。
ニンニクも入れて、肉の表面を焼いていく。
全体にいい色がついたらニンニクといっしょに一度とりだし、次に玉葱だ。
予想よりも玉葱の入り方が多い。
大ぶりの玉葱だったせいもありそうだ。
7割が玉葱となった鍋底から油を回すように炒めていく。
少しカサが減ってきたあたりで、肉汁ごと豚肉を戻し、そこへ白ワインだがあいにく中途半端なワインがない。
「料理酒でいいか」
日本酒と表示のあるパック酒を100ccほど注ぎ入れ、ここで粒胡椒も数粒いれるが、手元にないため、省くことに決める。
少し煮立ったのを確認し、とろ火にすると、このまま1時間放置だ。
タイマーをセットし、あとは諸々の準備である。
ここのところ、ランチの入りがいいため、夜は飲み物がメイン。
食事はなしのため、乾物やショーケースにあるケーキの提供のみだ。
ディナーは予約制としているため、夜の営業はのんびりできる。
彼氏との食事までの時間潰しにちょうどいいらしく、コーヒー1杯で出ていく方はもちろん、駆けつけ一杯とばかりにビールを飲み干し、出ていく男性もいる。
今日の食事のお供はスパークリングワインとなる。
華やかなロゼだが、味はドライのものを選んである。
メインは豚の玉葱煮なので、あとはランチで余ったカリカリベーコン入りポテトサラダ、バゲットと数種類のチーズ、春らしくタラの芽とホタテの天ぷらを出す準備を整えておく。
「ただいま」
言いながら入ってきたのは連藤だ。
「おつおつ。まず、ビールな」
続けてきたのは三井だ。
「おかえりなさい、おふたりとも。今日は泡って聞いてたんですけど、ビールですか?」
「なんか暑かったんだよ。小さいグラスで少しでいいから」
「はいはい」
ビールの準備をしていると、「俺もお願いできるかな」連藤も続いてくる。
「わかりましたよー」
小ぶりのグラスにビールを注ぎ、カウンターに置くと、もちろん莉子の手にもビールがある。
「「「かんぱーい」」」
普通の日の、普通の平日だが、こういう息抜きもいいものだ。
一気に飲み干し、3人で、ぷはぁと息をつく。
莉子は前菜用の皿を出し、スパークリングも注いでいく。
細長いチューリップ型のワイングラスが薄紅色に染まる。
「ロゼの泡なので、可愛いからこれに注ぎました。ちょっと香りとか飛ぶと思いますが、ドライだから、たぶん大丈夫だと思います。どーぞ」
連藤はグラスを受け取ると、そっと指でグラスをなぞる。
小さく頷き、そっとグラスを口元に運ぶと、香りをかいでいる。
三井はざっとグラスを見て、速攻半分飲み込み、
「意外と辛いな」
「……言ったじゃん」
「これほどって思わねーし」
ぱくりとチーズをひとかけつまみ、飲み切るとグラスが滑りでる。
莉子はダラダラと注いでいくと、連藤がくすりと笑う。
「見た目が柔らかな色合いなんだろうな」
「桜色より、梅ぐらいか?」
三井はグラスをぐるりと傾け、色を確認している。
「確かに濃いめの色かもしれないですね」
莉子もひと口含む。
華やかな葡萄の香りはすぐに消え、強めの泡が舌を叩く。
そのせいか喉越しはよく、鼻から抜ける香りはベリーの雰囲気があり、少し甘みも感じるが、余韻は短い。
これは春というより、初夏の雰囲気を感じる、元気なスパークリングだ。
「んー……ちょっと選択を誤りましたかー……」
唸る莉子に、連藤は2杯目をねだる。
「これはこれで、陽気な雰囲気でいいと思う」
「今日、暑かったしなぁ」
よっぽど三井は暑かったようだ。
連藤の2杯目を注ぎ終えたとき、タイマーが切れる音がする。
「……お、メインができたみたいです」
莉子は厨房へ小走りで向かう。
焦がさないように、焦げていないかも確認しつつの1時間。
蓋を開けると、蒸気の塊と一緒に甘い玉葱の香りもする。
塊肉をトングで取り出し、まな板に乗せるが、しっとりとやわらかいのがわかる。
もう、切る前からわかる柔らかさだ。
「うわー……厚さ、どうしよ……」
少し厚めと思いつつ、5㎜幅ぐらいに切り分けていく。
鉢にたっぷりの玉葱とスープを注ぎ、そこへ切った豚肉を並べ、黒胡椒と粉チーズ、パセリをふりかければ、完成だ。
「できましたー。豚の玉葱煮」
莉子が二人の前に置くが、具沢山スープのように見えなくもない。
しかしながら、香りがいい。
上がる湯気は甘く、しつこくない。少し焦げた玉葱の香りが奥深さを感じさせ、ぐっと食欲をわかせてくる。
「じゃ、いただこうかな」
ナイフとスプーンを取った連藤に「どーぞ」と声をかけると、連藤はスプーンで肉とスープの感覚をつかむと、ナイフでひと口台に切り、スープと溶けかけた玉葱をいっしょにすくい、口に含んだ。
三井もそれにならうように、大きめに切り取ると、大胆に頬張っていく。
「……これは、おいしい」
「おー……じんわり、うめぇ」
莉子もおなじようにひと口。
肉は本当にやわらかい。かみごたえはあるが、硬いわけじゃないのがまたいい。
玉葱はオニオンスープかのような旨味がある。
きっと豚肉の肉汁と合わさってコクが出たのかもしれない。
少し焦げた玉葱のキャラメル感があとから鼻に抜けてくる。
「……なにこれ、一石二鳥じゃーん」
豚の煮物とオニオンスープを一緒に食べれているのが、お得感があるようだ。
味変として、和芥子、粒マスタード、岩塩フレークを出してみるが、ふたりは自然の味がいいようだ。
「ほっこりあったまる」
「だな」
連藤のしみじみした言い方が、よけいにほっこりするが、しっかりとスパークリングとも合って、おいしい時間になったのは間違いない。
「あとは、たらの芽の天ぷらとかもできるので、言ってくださいね」
莉子はぐびりとひと口飲んで、チーズを頬張った。
連藤と三井は、豚の玉葱煮が気に入ったのか、のんびりとスープを啜る。
だんだんと春が濃くなり、忙しさが増す新年度だが、今晩はゆっくりと時間が流れていく。





