《第2話》得意料理はビーフシチュー
小柄な女店主がひとりでやりくりしているカフェは、彼女の名前の頭文字が付いている──
そう楽しげに話していたのは、連藤と同じ部署の後輩、瑞樹と巧である。
2人の話から、オフィスから近いカフェだから行ってみないかと連藤に声がかかったのが先週。
それから日にちを合わせて、一週間後の今日に出かけることになった。
「いやぁ、マジで巧と見つけたとき感動したんだよねー」
そう話すのは瑞樹だ。
「絶対、連藤さん、気に入ると思うんだよね、
ね、巧」
「絶対そう。マジやばい」
巧と瑞樹は同期で、プライベートでも仲がいい。大学が同じだったこともあるようだが、何かと気が合うようで、ここに勤め始めてから2人はひとつ目標を立てていた。
それは、『このオフィス街のランチを制覇する』というものだ。
そのためか、よく昼休みは一緒に出かけていたのだが、その制覇を中断せずにはいられなかったという。
それが巧が言った「マジやばい」に通ずるようだ。
「何がやばいのか全然ワカンねぇけど、やばいんだな」
そうこぼすのは、連藤と同期の三井だ。彼も気になり付いてきたクチである。
「しかし、俺が行っても大丈夫なのか?」
連藤が尋ねてみるが、後輩の2人は何も感じていないようだ。
「別に平気っしょ」
巧はいつもの調子で、さくさく歩き進めている。
三井は軽く肩をすくめて見せるが、連藤も小さくため息をつくだけにして、ただ2人の後ろをついていく。
風が頬をなで、土の湿る感覚が足裏をくすぐってどのぐらいだろうか。
確かにオフィスビルからはそう遠くはなかった。
正面の公園を過ぎて、並木道沿いにそこはあった。
だが今まで気づかなかったのがおかしいぐらいに近いそこは、きっと幾度となく目にしていた建物のひとつであるのは間違いない。
だが気にとめなければ気付けないのだ。
アルファベットでRとしか書かれていない───
カフェであると目を凝らせばわからなくもないが、パッと見は雑貨屋のような、おしゃれな家であるような、本当に何気ない雰囲気でそこに佇んでいた。
ドアベルががらりとなり、接客をしていたのか、白シャツに黒エプロンの女性が振り返った。
「あ、いらっしゃい」
入ってきた4人に、彼女は軽く手を上げ、挨拶してくる。
「ちゃんと席、取っておいたから安心して」
店内はすでに2人席と、カウンターが半分埋まっていた。さらに奥に4名掛けのテーブルがふたつあるが、そのどちらにも予約のカードが置かれている。
「先輩がごっついっていうから、広く席取っておいたんだけど、どっちも背が高いだけでごつくないじゃん」
彼女は水のグラスを置きながら後輩ふたりにそう声をかけるが、訂正することもなく、
「この浅黒くて大きいのが三井で、白くてひょろ長いのが連藤」
軽く指差し巧が紹介した。先輩であるはずの三井と連藤は軽く頭を下げて、「いつもお世話になってるようで」なんて彼女に言ってくる。
彼女が耳に挟んだ、巧がどっかの社長のひとり息子というのは嘘じゃないらしい。
「こちらこそ、いつも来ていただいてて。で、今日は何にします?」
瑞樹がすかさずメニュー表を取り上げ、
「ここのオススメはランチセットなんだよ。特にビーフシチューがオススメ!」
付け足すように彼女が続ける。
「サラダとドリンクも付いてます。
ドリンクはコーヒーまたはオレンジジュース、ウーロン茶から選んでください」
「ブレンドコーヒーってのは?」メニューを見た三井が尋ねると、
「ごめんなさい。それは15時以降となっております」
「では、私はビーフシチューにするかな」連藤が言うと、じゃ俺もと三井が続いた。
「おれは今日はねー、パスタ!
パスタセットにして」
「はぁーい、今日のパスタはミートソースです」
「したらオレもそれで」巧も合わせてきた。
「したらご注文は、ビーフシチューセット2つと、パスタセット2つね。
ドリンクはどうします?」
「おれオレンジ」瑞樹が言うと、
「オレはウーロン茶」巧が重ね、
「コーヒー」「私も」三井に続いて連藤も答えた。
さらに彼女が「いつお持ちします?」尋ねると、
「おれは今飲みたいなぁ」瑞樹が言い、
「オレ、ご飯と一緒」巧が答え、
「食後で」「お願いします」三井と連藤が文を作る。
「かしこまりました。
ではドリンクはそれぞれお持ちしますね。
少々お待ち下さいねー」
軽やかにカウンターへと向かっていった。
すぐさま4人分のおしぼりと使用するであろう種類のカトラリー、瑞樹のジュースを置くと、また素早く戻っていく。
「せわしねぇな」三井が呟くが、
「ひとりで切り盛りされているんだろう。
無駄のない動きだ」
関心したように連藤は微笑んだ。
「そういうところが千里眼風でなんか嫌なんだよなあ。仕事でもそうだろ?」
三井は嫌みたらしくいうが、
「俺のサポートのお陰で、ミスのない仕事ができてるんだから感謝してもらいたい」
「本当、連藤さんってキッチリしてるよねー」
「お前はダラダラだもんな」
「巧に言われたくない」
そんなことを喋っているうちに、
「こちらランチセットのサラダとパンです。
パンはテーブル中央にカゴで置いておきますね。
こちらはパスタセットのスープ。ウーロン茶もどーぞ」
先ほどとは打って変わってテキパキと運び、説明していく。
先にパスタが届いた。
「はい、どーぞ。粉チーズはお好きに。タバスコも置いときます」
「先に食べて構わない」連藤が言うと、待ってましたとばかりにふたりはフォークを摘み上げた。
「いただきまーす」揃った声の次にはもぐもぐと頬張る音が聞こえる。まだ熱いのだろう。冷ます息も鳴っている。
「はい、おふたりもお待ちどうさま。
ビーフシチューです」
三井の前に置き、そして連藤の前にもゆっくりと置いた。
香りの蒸気が鼻をかすめ、思わず喉が鳴る。
「連藤さん、えっと、正面にビーフシチューね。
2時に水、10時にサラダ、12時に取り分けたパンを置いてます。
右手側にスプーンとフォークあるから。
ゆっくり召し上がってくださいね」
肩にそっと手が触れ、彼女は離れていく。
思わず連藤は正面を向くと、
「な、大丈夫だっただろ?」
巧の弾んだ声が聞こえた。
───そう、連藤は目が見えないのだ。
かすかな光を感じる程度で、あとは暗闇だ。
色入りの眼鏡もかけ、ステッキも持ち歩いているので、目が見えないのは分かりきっているだろうが、これほどスマートにサポートされることは少ないのである。
「正直、驚いた」呟く連藤をよそに、三井は「うまいぞ、これ!」別の感嘆の声をあげていた。
その声につられるように連藤もスプーンを取り上げ、一口ゆっくりと頬張る。
切れ長の目が、カッと開く。
「なんだこれは」
息を飲むのも無理はない。
───味の深みが半端ないのだ!
肉はじっくりと煮込まれ、ほろほろと崩れるのは当然ながら、パサつきがない。
野菜はすべてスープに溶け出されているため、デミグラスの味でありながらも甘みと苦味が交互に流れてくる。肉以外に形のあるものがないからか、ブロッコリーとポテト、彩りに焼きプチトマトが添えられ、その野菜と一緒に口に含むと、野菜の青臭さがアクセントになり、香りがふくよかに感じる。特にトマトの酸味が味の変化を出して、爽やかになるのが魅力的だ。
さらにパンにつけて食べてみようと一口ちぎったとき、香ばしい小麦の香りが立ち上がった。
甘みと香ばしさのバランスがいい。
濃い味のビーフシチューにほんのり甘い香ばしいパン。食感もさることながら、パンの香ばしさがビーフシチューの味の濃さを際立たせてくれる。
口直しにとサラダを頬張ってみたら、ドレッシングのまろやかな酸味と野菜の鮮度の良さといったら!
ここにワインの一杯でもあったらどうだろう。
はるかにマッチし、この口の中での世界がまた広く深く繋がっていくはずだ───
「連藤、めっちゃ震えてる」巧が瑞樹を肘で叩く。
ほぼ完食に近い三井も頷き、
「しょうがねぇだろう、連藤の得意料理もビーフシチューだし、だいたいどこぞのレストランより美味いんじゃないか?」
「そんな大層なこと言われたら、恐縮し続けていなくなりますよ、私」
そういいながら、彼女は食後のコーヒーを運んできた。
「ようやくひと段落したので、カフェタイムのコーヒー淹れてきました。ゆっくりしてってくださいね」
最後のひと雫すらパンで拭っていた二人の皿を彼女は引き上げ、手を伸ばす。
後輩二人、三井の皿をトレイに乗せ、連藤の皿に手をかけたとき、唐突に彼女の手首が掴まれた。
「はっ?」
彼女が変な声を上げたことで、連藤も反射で手を離すが、何か小さな戸惑いが見える。
「な、なにかありました?」怯えながらも尋ねると、
「い、いや、料理がすごく美味しくて……その」
「それならよかったです。目の前にコーヒー置きましたからね」
「ああ、ありがとう。
その、これ、作り方とか……」
彼女は、ああ、と小さく返事をし、
「よく聞かれるんですけど、とにかく、炒めて炒めて、煮るだけなんですよ。
本当に家庭料理の延長なので」
簡単なんですよ? そう言いながら戻っていった。
絶対、簡単じゃない……!
連藤以外も、そう頭の中で呟いたのは間違いない。
目覚ましに程よく冷めただろうコーヒーを啜ってみたが、苦味にコクがあり、酸味は穏やかで、油分が強いせいか甘みがあるようにすら感じる。
ひと息つきながら、
「よくこんなところ見つけたな」
連藤がふたりに言うと、
「いやマジ奇跡だと思うね、おれ」
鼻高々に瑞樹が返した。
「でもいつでも満席になってもいいぐらいの店だぞ?」三井は言うが、
「多分みんな隠れ家的な雰囲気を壊したくないのと、あの人も無理しないんだよね」
巧が視線を飛ばした先には、学生だろうか、4人連れがいる。
彼女は笑顔で何か伝え、店に入れさせる気がないようだ。半ば押し出すように追い返している。大きくお辞儀をしてたが、肩をすくめてカウンターへ戻っていった。
「今みたいにタバコを吸いながら入ってくる客とか、人数的に難しいときは断っちゃうんだ。
ここではあの人が神だと思う」
そうふたりは笑うが、
「神でも仏でもいい。
俺はビーフシチューの作り方が知りたい」
連藤はまたコーヒーをゆっくりと啜りながら、レシピを聞き出すために通うことを決めた。
だいいちに他の料理も楽しみたい!
そう決めた彼だが、それからの時間が少し険しく、そして、ビーフシチューのレシピになかなか手が届かないことを彼は予想できていなかった———





