《第117話》初心者ですが…… 前編
風の強い金曜日。
春の嵐が吹き荒れた今日、来店するのは連藤の後輩である九重と、その彼女の真穂だ。
1週間前から予約を入れてくれており、ディナー予約の内容は『初心者でもわかるワインと料理で』———
「ひどく抽象的で、ひどく迷うわぁ」
莉子がぼやいたのは3日前の夜になる。
クローズを出した店内でカウンターに腰かけた莉子が、ため息交じりにぼやいた。
少しぬるくなったコーヒーを飲み込み、考え込んでいる。
連藤は莉子のその様子を雰囲気で眺めながら、淹れたてのコーヒーをすすった。
「莉子さんの得意なところじゃないのか?」
ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外した連藤の姿は何度見てもいつ見ても、本当に見飽きない。
薄い体でありながらも適度な筋肉がシャツ越しに見え、さらにぐにゃりとまがる莉子の姿勢とは正反対に、いつも定規を背中に挿しているかの如く、背筋が綺麗に伸びている。
そんな彼が襟元を緩め、崩れた髪をかきあげながらコーヒーをすすっているのだ。
見惚れるのは仕方がないと思う。
「……莉子さん、聞いていたか?」
莉子は今目覚めたかのように体を持ち上げ、なんとか連藤の言葉を思い出した。
何度も反芻し、少しの時間考え込むが、莉子からパチンと手が鳴った。
「なるほど。わかりました! いやぁ、さすがです!
連藤さんはそうやって後輩を育ててるんですね」
感心しながら連藤の肩を叩いた。
あんた、すごいよ! という気持ちをスキンシップで伝えるためだ。
肩を叩く莉子の手を連藤は優しく掴み、「それはどうだろう?」上目遣いで莉子を見つめた。
その言葉の意味よりも、その視線の艶やかさに、莉子は思わず手を引き抜くと、
「デザートのケーキ持ってきますっ」
耳をさすって温度を下げながら、莉子はカウンターの中へと潜っていった———
さて、連藤からの助言もあり、九重カップルを出迎える準備は整った。
決戦の時刻は19時。
電車が時間通りに動けば、間違いなく来られるだろう。特に追加連絡もないため、時間の大きな遅れはなさそうだ。
他の接客をこなしながら時計を見ると、すでに19時を回っている。
15分となるところで、ドアベルが鳴った。
「莉子さん、すいません」
頭を下げて入って来たのは九重だ。
さらに深々と綺麗なお辞儀をしているのは真穂である。
「ふたりとも寒かったでしょ?
ささ、奥のカウンター、あったかいからそこでお食事出させてください」
莉子はふたりのコートを預かりながらカウンターの席に手をかざした。
予約席と札が乗っているのですぐわかり、ふたりは腰を下ろすと手をさする。
「外、寒かったでしょ?」
莉子はあたたかいお手拭きを渡し、さらに小さめのグラスにホットワインを差し出した。
「食前酒は甘くてアルコールが高めのものが多いけど、今日は寒いのでホットワインにしてみました。
少し温まってから食事にしましょうか」
「莉子さん、遅れて来たのにすみません」
お手拭きタオルを丁寧に丸め直しながら真穂が言う。このしぐさをみるだけで几帳面であると告げられているようだ。一方の九重は適当にたたみ、セッティングしてあるカトラリーの横に添えると、すぐさまホットワインに手を伸ばした。
「いい香り! ……わぁ、莉子さんのホットワイン、美味しい!
他んとこの、なんか薬臭いとこあって好きじゃなかったんだぁ」
まじまじとカップを抱えながら九重が言うので、莉子は思わず吹き出した。
「薬臭いって面白いね! 多分、香辛料が合わなかったんだろうね」
「今日はふたりで本当に楽しみに来たんです」
そう切り出したのは真穂だ。
目がキラキラと輝いているのがわかる。
「本当に真穂は予約入れてからずぅーっとだったよねぇ」
九重は、感心しているのか呆れているのかわからない口調だ。
それに真穂は口を尖らせると、
「だって莉子さんのお料理、あれから食べに来れてなかったから」
拗ねたように言い返した。
確かに九重は会社の近くだからか、あれからランチタイムに度々顔を出していたが、彼女の方は全く来ていなかった。
そうだったと九重は理解したのか、真穂に小さくごめんと返した。
すぐに莉子に向き直ると、体が前のめりになる。
「莉子さん、聞いてよ。マジ、瑞樹がうるさいんだよ。お前もワイン飲めるようになれって。
僕はそんなに飲めないからっていうんだけど、ホントに美味しいからって」
「ね、瑞樹くん、すごい力説してたよね」
「なら瑞樹くんがレクチャーすればいいんじゃない?」
「「それは無理」」
ふたりの声がハモる。
それに驚きながらも、そう言わざるを得ない状況を、莉子はイメージしていた。
巧であれば、「マジうまい」しか言わない。続いても「飲みやすい。うまい」ぐらいだろうか。
瑞樹なら、「すっごいこれ美味しいよ、飲んで見なよ?」と勧めるばかりで、美味しさの興奮が勝って説明ができないのだろう。
莉子は想像する巧と瑞樹の洗礼を浴びた九重カップルに謝りたい気持ちになりながら、
「……さ、始めますか」
莉子はにっこりと微笑んだ。
さっそく運んできたのは細長い皿だ。
横長く置かれた皿には、クリームチーズが添えられたカナッペと、タコのマリネ、生ハム、オリーブ炒めがバランスよく盛り付けられている。
カナッペのクリームチーズは粗挽き胡椒とオリーブオイルがトッピングされ、このまったりとしたチーズがワインに合う。
タコマリネはセロリと一緒に和えてあり、歯ごたえも楽しめるよう工夫されている。
生ハムにはシロップ漬けの白桃が巻かれ、甘しょっぱいおつまみがこれで完成する。フルーティな味のワインにはもってこいのおつまみ。
最後のオリーブ炒めは種無しで作られており、玉ねぎとニンニクで炒めてある。オリーブの塩気とニンニクの風味はワインによく合う。
「これに合わせますのは、乾杯用のスパークリングワイン、カヴァになります。
カヴァはスペインのワインで、シャンパーニュ式製法をとっているスパークリングワイン。
というわけで、手軽にシャンパン風なのが飲めるので、これにしました」
莉子は言いながらシャンパングラスに注いでいく。
薄く黄金色に染まっている。泡も細かく喉越しは良さそうだ。
「莉子さんも乾杯してくれるんでしょ?」
九重がいうと、「もちろん!」言いながら莉子も同じグラスに注いでいる。
一度香りを嗅ぎ、小さくうなづくと、
「では、今日のディナーに乾杯!」
莉子がグラスを掲げた。ふたりもそれにならって掲げ莉子のグラスに重ねたあと、ふたり同士でもグラスを鳴らす。
恐る恐るという言葉が合う気がする。
ふたりは同時にカヴァを流し込んだ。ゆっくりと飲み込み、小さく驚いた表情が浮かぶ。
「どう? 意外と飲みやすいでしょ」
莉子も口に含んだ。
透明なガラス越しに見えていた通り、細かいの泡が舌を流れていく。
香りはマスカットとほのかに花の香りもする。果実味よりも、すっきりとした味わいが特徴のカヴァのようだ。
「莉子さん、なんでカヴァはシャンパンじゃないんですか?」
真穂の質問に得意げに鼻を鳴らし、「いい質問です」莉子はカヴァのボトルを掲げて話し出した。
「シャンパン式製法なんだからシャンパンだろ? 確かにそうなんです。
なんですが、シャンパンって呼んでいいワインはフランスのシャンパーニュってところで造られたワインだけなんです。なので造り方が同じでも、シャンパンって呼んじゃダメなんだって」
「ワインって結構細かいんですねぇ」
九重のグラスは半分になり、さらに前菜はほぼ食べ終わったようだ。
真穂を見やると、もう少し時間がかかりそうである。
一旦ふたりの元から離れ、他の接客に当たりながらふたりの様子を伺うと、グラスを傾けてみたり、料理を指差しながら会話を楽しんでいるようだ。
真穂は料理が得意。きっと九重がこれを家でも作れないかと聞いているのだろう。
ちょうどグラスが空いてほどよいところで、莉子はふたりの元へと向かう。
莉子の手には本日のメイン、赤ワインが握られている。
「……では、今回おふたりに試していただきたいワインとして、
じゃじゃーん! ボルドーワインを選んでみました!」
おお、と小さくふたりから声がこぼれるが、それは莉子の勢いに押されたのであって、理解しているからではない。
莉子はその反応に納得しながら、それをグラスに注ぐのだった。





