1-18 一夜明けて
目を覚ますと、目の前にクーの顔があった……のだが、その唇がゆっくりと近づいてきているのはどういうことだろう。いや、きっと寝ぼけているのだろうな。
「クー、起きろ」
唇が重なる前に、私はクーの体を揺らして目を覚まさせる。
「あ、ええ……あの、おはようございます」
目を開けたクーは視線を右往左往させた後、布団に顔を埋めた。
「うむ、おはよう。体は大丈夫か?」
「はい。おかげさまで、寝ている最中に攣ることもなく、今もちょっと硬い感じはしますけど、痛みはほとんどないですね」
「それは良かった。隅々まで解した甲斐があったというものだ」
クーのしっとりとした肌は、触っていても楽しかったからな。
「今は……八の鐘か」
もう一つあるベッドを見ると、トアが上半身だけ起こして目をこすっている。そちらにもおはようと声をかけ、ベッドから立ち上がった。
大きく伸びをしてから、体の調子を確かめる。
違和感もなく、いたって好調だ。
八の鐘というと、いつもよりゆっくり起きたことになるのか。いつもは五の鐘で起きて朝の運動をしていたからな。ただ、寝たのが一の鐘を超えたあたりだったし、睡眠時間としてはいつもとあまり変わらないかもしれない。
「二人とも朝食はどうする?」
「行きます」
「私も」
「では行こうか」
一階の食堂で朝食を取り、私たちは予定通り午前中をのんびりと過ごす。
と言っても、私は日課の準備運動は忘れない。軽いランニングと筋トレを行い、濡れタオルで体を拭いてからベッドに横になった。
室内に一つだけあるテーブルでは、トアがルレアからもらった勉強道具で書き取りを行っていた。それをクーが楽しそうに眺めている。
「クーは読み書きは一通りできるのか?」
「はい、ギルドに入る際に勉強しました。ギルドでは加入時に最低限の知識を得るための勉強会もあるんです。希望すれば、そこで勉強することもできるんですよ」
「そうだったのか」
「ミラはやっぱり家庭教師ですか?」
貴族ならば学校に通うこともあるが、大半は家庭教師が教えているからな。学校に通うとしても、家庭教師で勉強したことを復習し、どちらかと言えば貴族どうしの顔つなぎの印象が強いからな。私には全くと言っていいほど興味がなかった。
「うむ。メイドの一人が家庭教師としていろいろと教えてくれた」
「メイドさんが家庭教師の代わりですか。凄い頭のいい人だったんですね」
「そうだな。美人で秀才で器量の良い人だ。怒ると怖かったがね」
教育係も務めたそのメイドは、私が家出する直前まで私の専属メイドとして仕えていてくれた。今はどうしているだろうか? 彼女のことだし、きっと父さまか兄さまあたりの専属になっているかもしれないな。彼女の優秀さは家族の全員が認めていたし。
「好きなんですね」
「うむ。憧れでもあったがね。さて、そろそろギルドへ行こうか」
朝食も済ませ、人休憩してトレーニングを終え身だしなみを整えれば、十一の鐘に近づいている。
ギルドからは近いが、昼になればルレア達も昼食に出てしまうかもしれないからな。少し早めに移動するとしよう。
「そうですね。トアちゃん」
「うん」
勉強道具を片付け、カバンに纏めて肩からかける。
私たちも準備を整え、三人そろってギルドへと向かった。
ギルドは昼前ということもあって、人がほとんどいない。いても、喫茶スペースで少人数がお茶を飲んでいる程度だ。
大半の傭兵はすでに依頼を受けて外に出ているのだろう。
そしてルレアとヒューエの二人も、奥のデスクで何やら書類仕事をしているようだ。
私たちは真っ直ぐに窓口へと向かい、ルレアを呼ぶ。
「ミラベル、クーネルエさんにトアちゃん。おはようございます」
「うむ、おはよう」「おはようございます」「おはよう……ございます」
「トアちゃんは扉から入ってきてね」
「はい」
トアが受付の一番横にある扉から事務所側へと回り込みルレアの隣に座る。
「さて、とりあえずやることは依頼報酬の確認ですね。先日の緊急依頼の追加報酬が確定しましたので、明細をお渡しします。確認してください」
渡された用紙には、かなり大雑把に追加報酬の内容が書かれていた。
基礎報酬五十万エルナ。これはすでに支払い済みとなっており、緊急依頼特別報酬が三百五十万エルナとなっている。風見鶏の時のような細かい明細は一切ない。まあ、報酬をもらうだけだし当然か。
「緊急依頼の基礎と特別、合わせて四百万エルナがお二人にはそれぞれ支払われます。口座振り込みで大丈夫でしたか?」
「うむ。私はそれで大丈夫だ」
「私も同じくです」
「承りました。では明日までにギルドから口座へと振り込みを完了させます。緊急依頼に関するもろもろはこれで全て終了となります。お疲れさまでした」
「最初の依頼で四百万か。これは史上初ではないか?」
新人の依頼料としては破格だろう。これは噂になってもおかしくはないはず。
「残念ですが、最高金額ではありませんね。今の最高は、ヴァルガスさんの七百五十万エルナですから」
「七百五十万……」
その金額に、クーは目を丸くしていた。
「そんな依頼を最初に受けたものがいるのか。ギルドが良く許したな」
「偶然だったみたいです。町を襲った魔物に対して、ギルドが無差別に依頼を発行したみたいで。それぐらい危険な魔物で、緊急性もあったみたいですが」
「なるほど。そのヴァルガスというものは今もギルドに?」
「ええ、現役の制限解放者のお一人ですよ。今は別の国で活動しているみたいですが」
「そうか、惜しいな」
クローヴィスにヴァルガス、制限解放者が二人揃えば立ち合いを頼み刃を交えることもできただろうに。
「まあ、ギルドとしてはそんな無茶はない方がいいんですよ。新人の方にはしっかりと経験を積んで強くなっていただきたいんですから」
「それもそうだな」
無茶なんてしない方がいいに決まっている。特に、それで生計を立てようとしているのなら、むやみに命を危険にさらさないのが一番だ。
「さて、緊急依頼の処理が終わったところでミラベルに朗報です」
「ん?」
ルレアがちょいちょいと手招きをして、私に顔を近づけるように言ってくる。それに従い、ルレアの口元に耳を近づけると、小声で内容を告げる。
「ミラベルの代わりになってくれる人をギリギリですが見つけました。とある非戦闘部署の女性なのですが、所属傭兵団の移動に合わせて町を移るそうです。それに合わせて、こちらから依頼を出し、偽装して逃げてくれる手はずになってます」
「そうか。出発は何時だ?」
明日にはソーマも一通りの処理を終えて宿に押しかけてくるだろうし、場合によっては何か煙に巻く方法を考えておかなければならない。
「明日の朝ですよ」
「本当にギリギリで見つけたのだな。だがそれはちょうど良い、他の準備は?」
「拠点購入用のギルドからの推薦状はすでにできています。拠点になりそうな家もいくつかヒューエさんが見繕ってくれましたので、囮が出発したらすぐに確認してどれかに決めてください」
「分かった。準備しておこう。明日は忙しくなりそうだな」
「そうですね。明日中に済ませないと、いろいろ面倒になりそうなので頑張ってください」
「うむ」
私たちは、明日やるべきことを一つ一つ確認していく。
まず必ずやらなければならないことは拠点の確保だ。
町で家を買うというのは大きな意味を持つ。それは、その町の領主に税金を払うということだ。これを行うことで、その町の住民として正式に認められ町の公共施設も市民用の値段で利用できるようになる。
同時に、誰かが勝手に他の町へ住民を移動させられなくなるということだ。
税金を払っているのだから、領主としては住民を手放したくない。だから、勝手に住民を連れていかれれば、連れていかれた町の領主とトラブルになるわけだ。
騎士と言えど国の兵士がそんなトラブルを起こしていいわけがない。つまり、領主間での許可を得ない限りは私を勝手に移動できなくなるということだ。
正式に私が移動を断る理由にもなる。
「家の購入とその届を提出すればいいわけだな」
「はい。それでミラベルが正式にトエラに所属したことになります。その後は家具や日用品の購入ですね。これはそこまで急がなくてもいいですが、必需品などもあると思いますし」
「クー、私はそのあたりの必要品というものに疎いのだが、気になることはあるか?」
貴族の暮らしだと、必用なものはメイドたちが勝手に用意してくれていたからな。自分で何が足りないなどはあまり気にしたことが無かった。
ふと思いなおしてみても、自分の部屋に何があったのかなどがいまいちしっかりと思い出せない。あることが当たり前すぎているのだ。
ならば、庶民の生活を知っているクーに任せるのが一番だろう。
「ベッドとかタンスはどうなってますか?」
「一応ヒューエ先輩が見つけたのは、最低限の家具はそろっているところです。ただ、ベッドはあっても布団はないなどがあると思いますので、そっちの購入は必要かと」
まあそれぐらいならば、その日に購入することもできるだろう。さすがにベッドがないと言われると、注文からしなくてはいけないので時間がかかってしまうが、そういうことなら問題なさそうだ。
「なら大丈夫そうですね。他は……」
クーがいくつかの質問を投げ、ルレアが資料を見ながら答えていく。そしてお互いが納得してうなずき合った。
「これぐらいですかね」
「そうですね、大丈夫そうです。後は一緒に暮らす人たちで、必用な約束事なんかを決めるぐらいでいいと思いますよ」
「分かった」「分かりました」
「ミラベルはこの後トレーニングルームですよね? 今なら空いてますから、けっこう自由に動けると思いますよ」
「そうか、助かるな。クーはどうする?」
「私は少し買い物に。消滅したものの補充も必要ですから」
ここ数日で服に下着、サンダルと大量に消滅させていたからな。そろそろ必要になるのか。
「そうか」
「お昼過ぎに戻ってきますので、皆でどこか食べに行きませんか?」
「ルレア、どうだ?」
「いいですね。ヒューエ先輩も誘って五人で行きましょう」
「うむ。ではまた後でな。トアも頑張れよ」
「はい」「うん」
私は二人と別れ、一人ギルドの奥へと向かった。
実技テストを受けたトレーニングルームの扉を開けると、中には三人の男がいた。
一人は案山子相手に弓を放ち、もう一人はその隣で弓の指導をしている。
残りの一人は、少し離れた位置で槍を振るっていた。
三人の視線が一瞬こちらに向かうが、すぐに離れる。
私は三人からちょうど三角形を描く位置に移動し、剣を抜く。
さて、久しぶりに瞑想から始めよう。
構えたまま目を閉じ、意識を集中させる。
体内を回る覇気の感覚。指先まで筋肉の繊維一本一本までしっかりと意識しながら、ゆっくりと剣を振るった。
頬を撫でる風の感覚。それは剣によって生み出されたもの。そよ風にも似た空気の流れに、自分の身を浸す。
「フッ」
小さく息を吐き、今度は剣を鋭く振るう。
構えに乱れはない。空気を切り裂く鋭い一閃は、先ほどのように風を生み出すこともなく静かにその場を斬る。
良い調子だ。
自分でも納得できる素振りに満足していると、拍手が聞こえた。
目を開けると、入り口にクローヴィスの姿があった。
他の傭兵たちも、クローヴィスの姿を見て動きが止まっている。
「やっぱいい動きするな。ギエラスを殺すだけのことはあるわ」
「数少ない制限解放者にそういってもらえると自信がつく」
「ハハハ、ならそんな制限解放者様が訓練を手伝ってやろう」
「ん? 私闘は禁止なのでは?」
「新人の訓練も大切だろ?」
「なるほど、では胸を借りよう」
「おう、こい!」
私は覇衣を纏い、躊躇なく刃走を放つ。
巻き上げられる砂埃と共に、刃走がクローヴィスへと迫り、その拳によって粉砕された。
覇衣は使っていない。あれは、魔法だな。よく見れば、薄っすらと包帯が光を帯びている。
魔法であの包帯の強度を上げているのか、それとも何かしらの固有魔法か。
「いい技だ。次はこっちから行くぜ!」
踏み込みと共にクローヴィスの姿が一瞬視界から消えた。
直後、私の目の前にクローヴィスが現れる。
とっさに剣を構えるが、剣の横っ面叩かれ、無防備になった腹に掌底を叩きこまれた。
一瞬の浮遊感の後、背中を壁に叩きつけられる。
「ぐふっ」
肺から空気が漏れ、呼吸ができない。
苦しいが、視線はそらさない。クローヴィスの動きは普通に目で追っても追いきれないほどだ。一瞬でも視線を逸らせば、ヤられる。
「いいね、今ので気絶しねぇのか」
「せっかくの機会を、そんな簡単に終わらせるものか」
目で追いきれないのならば、気配を追おう。
目はあくまでも補助に。自分へと向けられる相手の意識に集中する。
「そっちから来ないなら、こっちから」
クローヴィスが動き、再び見失う。だが場所は分かる!
「ここだ!」
「おっと!」
振りぬいた剣は、クローヴィスの腕によって受け止められていた。
「やはりその包帯か」
「ハハハ、勝負がつく前にそれに気づくか。やっぱすげぇよお前。名前なんつったっけ?」
「ミラベルだ!」
「覚えた! ミラベル、褒美にいいもん見せてやる。俺の技だ。食らってみな!」
剣を弾き上げ、クローヴィスの包帯がまるで生き物のように解けて宙を舞う。そして、当然のように私の足と腕に絡みついてきた。
振りほどこうと剣を振るうが、包帯が硬くて切断できない。ならば!
「魔拳、捕縛連弾!」
「剣殺術、覇斬!」
クローヴィスの技が放たれると同時に、私は覇斬を目の前の相手目掛けて全力で放った。
「ぐおっ!?」
「ぐふぅ……」
叩き込まれた大量の拳に、私は意識を飛ばしそうになりながら壁へと激突し盛大に破壊する。
だがタダではやられない。至近距離で放った覇斬は、クローヴィスの包帯を切り裂き、彼自身をもトレーニングルームの入り口の扉へと叩きつけ破壊し、ギルドのロビーへと転がした。
「ぬぅ、動けん」
「痛っつっつ……今のやべぇだろ」
お互いに痛みで動けない状態の中、騒ぎに駆け付けたギルドの職員たちが呆然とその惨状を眺め、その中に目元を引くつかせたルレアの姿を見つけると同時に、私は意識を失うのだった。
tips
この世界の時計の針は、一と十一の位置で午前午後を示すもの、一周十二分割で時間を示すものの二本だけ。細かい分や秒は分からず、時間針の傾きで大まかに判断する。




