五
これではいかんと。
一刻も早く、早急に、可及的速やかに事態の改善を図るべきだと。
そう結論付けた僕は、苦行にも近い学校時間を終えるや否や、出来る限りの最速での移動を持ってして鈴美原メンタルヘルスにやって来た。目的地に辿り着くと、胸を抑えて一度深呼吸を挟んでから中に入る。
吐き気は無い。今のところだけど。やはり精神的な物で間違いないらしく、根源たる学校から遠ざかるにつれて吐き気は面白いように引いて行った。これには嬉しい反面、正直厳しいと言わざるを得ない。山下じゃないけど、期末も近い今、学校を休み続ける訳にもいかないのだ。かと言って今日のようなのが毎日では、校門を潜っただけで吐く事になるかもしれない。そのトラウマものの惨状はとても近い未来に思えた。
階段を昇り終え(相も変わらずエレベーターは故障中)、先日に見た受付が視界に入り込む。鈴美原さんがカウンター内に居るのは先日と違う。
「ん? ああ、中宮君。いらっしゃい。今日予約あったけ?」
「いや、予約してない。けど、出来ればと思って……」
鈴美原さんの言葉に返事をしながら、僕は事前に連絡位入れておくべきだったかと悔む。流石に自分都合の身勝手な行動過ぎた。
「まあ、いいけどね。今日はだーれも予約入ってないし。お父さんも裏で週刊誌を読むのにご執心と来れば、ねぇ」
鈴美原さんはそう言い残してカウンター奥の扉に消えて行った。僅かに漏れ聞こえる声から察するに鈴美原さんの父親――先生に事情を伝えているのだろう。僕は取りあえず受付近くに備え付けられている、青色のソファに腰掛けた。光を鈍く反射する青色の合皮が、僕が腰掛けると共にギチィと音を立てた。それが奥から聞こえる声を妨げた様な気がして、僕は何となく申し訳なくなる。
ほどなくして、僕の立てた音が原因ではないだろうけど、奥から聞こえる声も無くなり、僕は面談室に通された。扉を開けると、先日と同じ風景がそこにはあった。ただ、先生が既に中に居たのは、鈴美原さんと同じ、先日と違う点だ。
「いやはや、お疲れ。どうだい? 調子は」
「概ね絶不調ですね」
「そうかい、なるほどね」
先生は挨拶と共に僕へと座るように促す。僕はそれに従って前と同じ場所に座った。テーブルには既に紅茶が用意されている。今回はマロウブルーでは無いらしい。
「不調を感じる事。それ自体は存外『良い事』と言えるかもしれない。自分から自分への危険信号が滞りなく受信されているって事だからね。ただし、不調の自覚・自認はそれだけでそれだけに辛く厳しい。精神的問題を抱えている人が意識的にしろ、無意識にしろ自分の『痛み』を覆い隠し、忘れてしまうのはそれがあまりにも辛いからだ。誰でも辛く無い方が良い」
「でも……いつまでも不調では困ります」
「そうだね。実に、実にその通りだ」
先生はそう言ってティーカップに口をつける。ゆったりとのんびりとした仕草で紅茶を口に含み、たっぷりと時間をかけて飲み下した。先生のその一連の行動が、この部屋の空気や時間をゆったりとした物に変えてしまう。
当然、僕も。幾らか焦っていた気持ちが軽くなった気がする。
「あまり君を不安がらせたくないけど、まあ正直に言おう。精神から生じる問題、これらに完治は存在しない。人は生きるだけで不安や驚き、つまりストレスを背負う事になる。夜の闇、ガスの元栓、人間関係、背後で突如鳴り響くクラクション。どんな些細な事でも、人はストレスを感じる。分かるかい? 精神から生じる問題の完治はストレスの根絶に他ならない。そんな事は誰にも、無論僕にも、決して不可能だ」
「まあ、それは分かりますけど」
理解できる。
そもそも人はそういった、そう作られた存在だろう。人の生はストレスと同等に近しい。そういう風に出来ている。
ただ、先生との面談も二回目で何を言うかと言った感じになるけど、先生らしからぬ、有り体に言えばきつい言い方に思えた。
僕のそんな心情が顔に出ていたのだろうか。先生は僕の顔色を見ると、おどけるように肩を竦めて言葉を継ぎ足した。
「ただ、そうは言ってもだ。背負わなくても良い物だってある。誰でも重い荷物を背負っていたら疲れてしまう。それがたくさんなら尚更、ね。だからそんな時は休む事が必要だ。荷物を地面に下ろして、いらない荷物は捨てて、元気になったら歩けばいい。何せ人生だ。先は長い。幸か不幸か、人生は死ぬまで終わらない。死が本当のゴールかすら分からないけどね。生まれ変わって続くのかも知れないし」
死すらゴールでは無いかもしれない。
その言葉は僕に少なからず衝撃をもたらした。それは何とも――。
「うんざりしますね」
つい、口を衝いて出てしまった。もっとも訂正する程本心から外れてはないけど。
だって、そうじゃないか。ゴール不明のウェイト付き持久走。脱落者が山の様に生まれそうだ。
「そう、うんざりしてしまうよね。だからこそ、楽に生きられる所は楽に生きないと」
先生はテーブルの端から一枚の紙をこちらに手繰り寄せた。見るにそれは前回僕が記入した問診票の様だ。
「ストレスにはストレッサー、つまりストレスの原因がセットで存在する。そしてそのストレッサーが実に厄介なんだ。人の精神は複雑だ。そしてストレッサーも。君の思う、今の君のストレッサーは何かな?」
「……学校、じゃないですかね」
「ふむ、学校。何故そう思うんだい?」
「前にも言いましたけど……、成績による比較、勉強に対する息苦しさ。それらが原因――ストレッサーにあたるのではないかと思います」
「ふむ、じゃあ聞くけどね? 中宮君、君の学校にはクラブに入っている子は居ないのかい? 彼女・彼氏仲の子は? 休日に遊びに出かける子は? 放課後に教室に残って談笑に華を咲かせる子は? それらは皆、居ないのかい?」
先生の言葉が上手く脳に行き届かない。言葉を言葉としてしか理解できず、文として意味合いを掴みきれない。
クラブ? 彼女・彼氏? 休日の遊び? 談笑? そんなの――。
「います」
いるに、決まっている。ただ、僕がそれのどれもしていないだけで。
「だよね。君の語る、騙る学校は成績『だけ』の世界だった。でも、本当はそうじゃない。では、何故君はそこまで成績に執着する? その本当の原因は?」
「本当の、原因」
先生はテーブルの上にある問診票を指差す。そこはただ一つ、僕が記入していない項目だった。
「君は、本当に学校や成績なんて、曖昧な物で苦しんでいるのかい? 君が辛く感じるのには、別の何かがあるんじゃあないのかい?」
僕は問診票の空白をじっと見つめる。睨むと言った方が良いまでに見つめる。そこには書き込んでもいないのに、父の名前が刻まれていた。
「……嫌いでは無いです、憎んでも無いです。ただ、嫌で憎らしい父ならいます」
「嫌で、憎らしい」
「父の言う言葉は、百パーセント正しいとは思いませんけど、九十九パーセント間違っているとも思いません。『学校では目立つよりも、先立つよりも、仲立ちする方が上手くいく』とか、『社会に生きるなら人に好かれるよりも、嫌われない方が楽に生きられる』とか。何より――『成績はある分に損は無い。成績が無い分に楽は無い』とか」
僕は口に出して、自分で自分の言葉を聞いて、それで初めて僕の成績に対する考えは父に発端を為す物だと理解した。反骨精神を抱いているつもりで、父の言葉に反る態度を示していたつもりで、結局父の言う通りに動いていたのだと、理解した。
「なるほどね。面白い事を言うお父さんだ。確かに、成績は高い方が良いってのはまあ、間違っていると言い切れはしないだろうね。子供の将来の安定を願う親にしてみれば、正しくそう思うに違いない。でもね、飽くまでそれは親のエゴだ。それを子に求めるのは親の気持ちって物だけど、それを受ける、受けないは子の自由だよ」
「受けない?」
「親は子に期待をする。それは一見素晴らしい信頼関係に見えるけど、ともすればただの盲信に過ぎない事もある。子はね、親の期待を裏切る物さ。良くも悪くも」
「じゃあ、どうすれば? 僕は親の、父の期待をどうすればいいんですか?」
「それは君が考えるべき事さ。僕が口を挟む事では無いし、挟むべきでも無い。ただ一つ、かつて子であり、今は親である僕から一言」
先生は僕を指差して言い放つ。先生の人差し指が、僕には魔法使いの杖にすら見えた。先生がおまじないを唱える。
「子がそれで良いと思えるなら、それで良いと思えるのが親って生き物さ」