四
所々に生徒の荒々しい使い方によって生まれた傷を抱えながら、それでも懸命に教室を隔てるスライド式の扉を開けて中に入る。廊下の寒さから多少の隔絶を見せる教室は、室内ストーブの効果も相まってか、登校中に冷え切った身体には丁度心地よい「ぬくもり」があった。功労賞物の活躍をしているストーブを見てみると、数人の生徒が手を翳して暖を取っている。良く見る風景だ。僕はそれを横目に、教室の中央という何とも反応し辛い場所にある自分の席に向かう。
「おはよう、中宮」
「おはよう」
僕が鞄を席に掛けるのとほぼほぼ同タイミングで声を掛けられた。殊勝にも珍しく、山下は僕より早くに登校し終えていたらしい。僕は山下を視界の端に捉えつつ、一時間目の教材を取り出す。
「二日も休んでたけど大丈夫なのか?」
「ああ、うん。ノロウイルスだったみたい。流行ってるし気を付けてはいたんだけど」
自分がノイローゼであると言う訳にもいかないが、三日前に教室で嘔吐してしまったのも消せない事実だ。僕は口から出まかせにそれっぽい理由を述べておいた。
僕が自分の異変に気が付いたのはつい三日前、つまり授業中に突然の吐き気に見舞われた時だった。その時は純粋に病気の類と思っていたが、保健室で休むと共に吐き気が弱まり、家に帰った途端に完全快復となった事で、これが病気では無く心因性の物であると思い至った。それも当初は勘違いと断じていたけど、自室で机に向かった瞬間にまたしても吐き気に襲われたとなれば、確信する他無かった。
いざそう言った物を自覚してしまうと――これは人によって変わるだろうけど――僕の場合は良い方向には行かなかった。自分の不調への言い訳が出来てしまう事もあるが、自分が無様な姿を晒している事が、当たり前が出来ないと言う事が、何よりも嫌だった。そしてそんな嫌気を感じ更に自分が嫌いになってしまう。
自己嫌悪のスパイラル。
自己侮蔑の坩堝。
終わりが見えない暗闇。
僕は僕である事が、嫌になって来る。
「ノロかー……、大丈夫か? 移すなよ?」
「心配してるのは僕なのか自分なのかどっちだよ……。もう治ってるし、薬も持って来てるし大丈夫だよ」
端から患っていないのだから、治るも治らないも無いのだが、ノロをノイローゼの略語として見た場合には、残念ながら治っていない。ノイローゼ、更に言うなら精神疾患においての完全なる治療は、まあ、夢物語、幻想みたいな所があるけど、治って無い事は確かだろう。
と言う訳で、とりあえずの表面的な対処、目に見える不調である嘔吐を始めとした症状を防ぐ為、僕の鞄には大量の吐き気止めなどの薬が入っている。薬を持ってきているのは嘘では無いのだ。もっとも、薬学的アプローチがどれほど精神性の不調に効くかは分からない。今日、何度飲む事になるかは分からないのに、効果の程を願うしかないのが辛い所ではあった。
「でもまあ、気をつけろよ? 期末も近いんだしさー。そんな不調だと俺なんかに下剋上されるかもしれないぜー」
山下は僕の胸辺りを小突くようにしてふざける。僕は彼の言葉に心臓が跳ねるのを感じつつも、鞄に忍ばせた薬の瓶を撫でる事で落ち着かせる。
大丈夫。
これ位ならまだ、大丈夫。
「そうだな。精々コンディションの管理に努めるよ」
「そうしろ、そうしろ」
山下は今までより少し強く僕を小突くと、話は終わったとばかりに自分の席の方に行った。僕が山下から視線を外し、時計を見るのとチャイムが鳴るのは同時だった。どうやらこれを見越しての切り上げか。中々どうして、実に話の構成が上手い奴だ。
先生がチャイムの余韻と共に教室に入って来る。一時間目は国語。話し振りが最上級の睡眠導入ソフトになっていると話題の教師である。おっとりとした顔はそれを冗長させるのかもしれない。
「あー、先日は形式段落二の途中で終わったな。それでは続きから。p113を開いて――」
ありふれた時間が始まった。
――前言撤回。駄目だ。これは不味い。不味過ぎる。
いや、別に口内に充満する胃酸の味が不味いと言っているのではない。胃酸の味を感じる状態こそが不味いのだ。胃酸の味が口内に充満しているのに一向に吐き気自体は収まっている現状、延々と嬲られているかのような辛さだ。吐きたいとは思わないけど、吐けないのが辛いと感じるとは思わなかった。飽くまで薬が対処療法にしか過ぎないのは理解してるけど、してたつもりだったけど、精神面へのアプローチこそが抜本からの改善であるのは理解してたけど、それでも体調面は市販薬のレベルで対処できると思っていたのに、信じていたのに。裏切られた気分だ。
「ABCD包囲網の国名、咲山、答えてみろ」
「Aがアフガニスタン、Bがバングラディッシュ、Cがカナダ、Dがドイツです、かね?」
「Aがアメリカ、Bがイギリス、Cが中華民国、Dがオランダだ。咲山、せめてもう少しかすらせろ」
自己完結の裏切りにあっている僕を余所に、四時間目の授業である日本史は滞りなく進んでいる。教室内に湧き上がる茶番染みた応答にも何のリアクションも取れない。
机に突っ伏すように呻きながら、視線をおどけたように笑う彼女の方に向ける。
このクラスに限らず、この学校の風潮としてどうにも堅苦しい、愛想笑いも浮かべない様なタイプの生徒が多い様に思える。酷い生徒、もしくはある種の理想的な生徒なんかになると、先生の冗談に真顔で異を唱える時なんかもある。概ね、この学校において授業とは疲れに疲れるものなのだ。教師としても、生徒としても。
そんな中、咲山――咲山凛みたいな生徒は絶滅危惧種並に珍しい。彼女の存在に何人の温和な教師が救われた事か。
――もっとも、咲山と教師の会話に笑みを浮かべる生徒すらも数少ないのは何とも、報われないと言うか何と言うか。
僕は咲山の無理矢理はにかんだような横顔から時計へと目を移す。どうやら四時間目が終わるまで後二十分はあるらしい。更に恐ろしいのは、午後の部がまだ控えているという事だ。
僕は自分の軽率さと事態の深刻さを思い知った。