三
カウンセリングに類する行為は、相手が初見であればある程にプロファイリングや情報収集に当てられる時間が多くなるのは当然で、だからこそ、一回目の診察で全てが解決すると思ってはいけないと、受診者は肝に銘じなくてはならない。しかし、真に窮している人の中にはカウンセラーなどを神か何かと勘違いして、彼、彼女の一声で自分の人生を変えて貰おうとすら考えている場合がある。
これが誤りであるのは考えてみれば当然の事で、プロでなくともアマチュア、つまり一般の平々凡々のコミュニケーションにおいても、相手を知る事から始めるのは重要なのは自明の理だろう。優れたビジネスマンは話が途絶えないとさえ言われるのもつまりはそう言う事で、話を繋げる内に相手の趣味趣向、対人関係の傾向と規模、性格と過去、そして今の願望を知らぬ内に盗み見る事に他ならない。それをされた側は自覚症状に乏しいので相手への信用が高まる事に繋がるのだが、どれ程優れたビジネスマンでも、この時間、つまり相手への理解を深める時間を失くす事は出来ない。知らない相手にアドバイスは出来ないのだ。
つまり、長々と、だらだらと、冗長なくだりを経て何が言いたいかと言うと、あれから、つまり先生が僕の問題に関する一旦の結論を述べた後に続いた、世間話に似た雑談がどれくらい続いたかと言う事だけど、その割合はそれ以前の会話時間より長かった事は恐らく確かで、それ故に僕がビルを出た時には外は夕暮れ時、カラスもお家に帰る時間になっていた。
僕の家は門限に厳しくは無いけど、甘くも無い。遅くに帰ればそれなりに怒られる。今日は行き先を告げているから多少は多めに見て貰えるだろうけど、それでも早く帰るに越した事は無かった。僕はビルを背にして、家へと足を向ける。長話の間に滞った血流をほぐすと考えれば、僕の家は疲れ過ぎず、短すぎずの丁度良い位の距離にある。僕はちらほらと見え始めるスーツ姿の帰り人に混じりながら、帰路をただゆったりと歩いた。途中、鈴美原さんや先生、そして取り留めのない会話を思い出したり、考えたりしていたけど、それは特に取り上げる様な物でも無い、何もしないに等しい思考だった。
その思考が途絶えたのは自分の家のガレージにある、一台の黒い車を見たからである。見慣れない、見覚えのある車だった。真っ黒な車で、細長いフォルムの車。車種なんかは知らないけど、街中で時々見かける程度の少なさで、その割にはドラマなんかで良く出てくる感じの――僕の父の車。
僕の父親は殆ど家にいない。
別に夫婦の不仲だとかではなく、ただ単純に出張や出先での宿泊が多いからという有りがちな理由だ。ただ、親達が不仲でなくとも、親子が不仲で無いとは限らないと言うのが、世のままならぬ所だろうか。
――いや、違うか。別に不仲では無い。僕は親に対する嫌悪感も侮蔑の精神も無い。ただ、僕は父親に対して劣等感を持っているだけに過ぎないのだ。
「ただいま」
とりあえず、僕は動揺しつつ、しかしながら家の外で立ち呆けている訳にもいかず、たどたどしい足取りではあったが家に入る事にした。リビングから夕方のニュースと思われるテレビの音が聞こえる。母は朝のニュースと昼間のワイドショーこそ見れど、夕方のニュースは見ない。玄関に鞄を置いてリビングに入ると、やはり予想通り母はテレビを見ておらず、父が湯気立つほうじ茶をすすりながらテレビを見ていた。
「ただいま」
「ああ、おかえり。どうだった、『どうにもならなかっただろう』」
「……」
父は特にこちらを見る事無く応える。それがあまりにもいつも通り過ぎて、僕にはそれが辛い。僕は踵を返し玄関に戻り、鞄を掴んで二階に上がる。
二階には僕の部屋がある。
僕は逃げるように自分の部屋に入って、扉を閉めた。意図せず荒々しくなってしまい、扉の閉まる音に自分で驚く。
「はぁ……」
鞄をそこら辺に投げ捨て、ベッドに寝転がって天井を見上げる。何も無い真っ白な天井だ。もっとも、目を凝らせば白い天井の中に潜むシミなんかが現れる。それは意識すればするほど目に着く存在で、彼らの侵食する姿に何だかシンパシーを感じずにはいられない。
父は間違った事を言わない。父は基本無口な人間であるが、それは何も話さないのではない。父が放つ僅かな言葉。それはどれもが間違いでは無く、それ故にその言葉通りの行動に移るのがベターなのだが、如何せん、思春期特有の反骨精神と、父の言葉以上の正しさを有する道への期待感から、僕は一向に父の言に従えずにいる。
父の言葉は間違いではない。それは確かだ、と思う。ただ、正しいかと問われれば、僕は否と答えるか、少なくとも悩むだろう。父の言葉は間違っていない。それは確信に近い感覚を持ってして答える事が出来るけど、それ以上の正しさがどこかにある気がするのもまた、僕の心が訴える言葉なのだ。
つまり、僕のこの葛藤は、父や自分が見る現状からの未来予想を選ぶべき物と考えておきながら、それ以外の道を探さずにはいられない浮気性な精神が生んだ軟弱な痛み、と言う事だろう。
「はっ……」
そこまで考えて、ついつい誰も居ない一室で吹き出してしまった。馬鹿馬鹿しい。そんな、自分の未来への悲観と、輝かしい未来を得ようとする願望なんて、誰もが持っているに決まっているだろうに。僕の矮小さが身に沁みて分かると言う物だ。
「ああ、嫌になるなぁ」
天井から視線を外してベッドにうつ伏せに倒れ込む。シーツに顔がめり込んで息苦しいけど、僕はこの行為を止める気にはなれなかった。