二
「いや、待たせたね」
数分程度だったと思う。さして待つ事も無く、僕は先生――鈴美原颯太に診断部屋へと招かれた。
ソファ二つと間にテーブルがある、会話を想定した一室だ。テーブルには少しのお茶受けとシュガー等が刺さった、手の平より少し大きい位の木で編まれたボウルみたいなのが置いてある。
ふと、扉をくぐる際に少し甘い香りが鼻腔を通り抜けた。見ると香木が部屋の隅に置いてあった。リラックスの促進効果があるのだろうか。
僕は促されるままに座り、ノートを引き出しから取り出す先生をぼうっと目で追う。テキパキと言うよりはのっそりとした動きに、差し詰めナマケモノの様な印象を受けた。背の高さと腕足の長さが印象を助長させているのかもしれない。
「そう言えば聞いたよ? 弥美と同級生なんだって?」
「ええ、そうですね」
先生は湯気昇る二つのガラス製ティーカップをテーブルに置きながら座った。中には青色の液体が満ちている。匂いも独特で、恐らくはハーブティーの類だろう。
「となるとあれだね。中学二年生と言う訳だ。」
「ですね。と言っても三年に片足突っ込んでる気もしますけど」
「そうかな? まだ一月だよ? 中学の終わりを感じるのは早いんじゃないかい?」
「世間的には三年生予備軍でしょう。あちらこちらに貼ってある『ポスター』なんかが良い証拠じゃないですか」
「はー、今時の子は大変だ。僕達の頃だったら、この季節はバレンタインのチョコを貰えるかに興味津々だったよ」
そう言いながら、先生はテーブル脇の木製ボウルから何やら透明な液の入った小瓶を取り出す。香水なんかが入ってそうな見た目だが、お茶受け等と一緒に置かれている以上は食用なのだろう。
「見ててごらん。一見の価値アリだよ」
先生は小瓶を開けると、数滴、カップの中に垂らした。途端、カップを満たしていた青が紫色に変わっていく。更に先生は小瓶を振る。また何滴かが紫に吸い込まれ、今度はピンクに変わってしまった。まるで魔法みたいだ。
「このハーブティーは『マロウブルー』さ。美しい青にレモン汁なんかを垂らすとあら不思議、まずは紫、それを越えるとピンクに……ってね。中々オシャレだろう?」
「ええ、初めて見ました」
「ほら、君もやってみるといいよ」という先生の勧めに習って、僕は自分のティーカップに小瓶の中身を垂らす。青は瞬く間にピンクへと変わって行く。
「これを知ったのは奇しくも中学二年の頃でね。当時は正しく最先端。だれも知らない特ダネさ。女の子を口説く為に得た知識の一つだったんだけど、終ぞ使う機会は無かったね」
「何でですか?」
「家に誘う技術が無かったから。……家に母が居たからってのも大きかったけどね」
先生は自分のティーカップに差しこんだマドラーをゆっくりと回しながら項垂れている。回るピンクの水面に遠い、悲しい過去を見たのかもしれない。その姿に、僕は申し訳ないと感じながらも失笑してしまった。
僕の漏れ出る笑い声に先生の視線がこちらを向いた。僕は首の辺りがきゅっと引き締まる様な感覚の中、先生に謝る。
「すみません、笑ってしまって……」
「はは、笑い話になるなら、これ幸いさ。苦い思い出も美味しい思い出になる。マロウブルーの様にね。青も紫もピンクも、全ては同じ物。違うのは外身だけだ」
先生の手が一枚の紙に伸びる。それは、先程僕が書いた問診票だった。僕は緩んだ心が、無意識の内に縮こまるのを感じた。
「君の悩みは勉強、ね。その悩みとはどんな物だい?」
「どんな物」
「言い換えるなら、そうだね。中宮君にとって勉強はどう言った物だい? 何の為に勉強をする?」
「何の為……」
僕は先生の言葉を受けて考える。
勉強。僕にとって勉強とは何だろうか。そう考えた時、僕の中にある言葉が不意に浮かんだ。
「義務、でしょうか」
「ほう、義務。なるほど、どうして義務なんだい?」
「学生ですから。勉強は義務でしょう」
「勉強は義務。と言う事は、君にとって勉強は強いられている物なのかな?」
「いえ、それはちょっと違うかもしれません。勉強は、権利を行使する為の義務だと思います」
先生は僕の言葉に頷きながら、膝を台にしてノートにメモを取る。角度の問題で、何て書いてあるかは読めない。それに気を取られながらも僕は言葉を続ける。
「こんなのは言うまでも無い事かもしれませんけど、僕の通う中学校は公立です。でも、公立の割には勉学に力を入れていると思います」
「そうだね。それはとても、親としても感じている所だ」
「で、今位になると、塾なんかの宣伝が正門辺りでやってるんですよね。ちょっとうるさい位」
「それは面倒臭いね。ポケットティッシュじゃあるまいし。それで?」
「ええ、まあちょっと面倒臭い――いや、かなり面倒臭いんですよね。僕、もう塾行ってますから、他からの勧誘は無意味ですし」
「ふむ。となるとあれだ。スル―して帰る感じで」
「はい。そうなります。で、帰ったら塾に、って感じで。まあ、僕に限らずクラスの大半がこんな感じですけど」
「大半と言うと?」
先生の問いに僕はクラスの面々を思い出す。女子の事情には少し疎いから、それだけに塾に通っているか否かの情報を脳内にリストアップするのに随分と時間がかかる。
先生はその間、ただ待ち続けてくれていた。
僕はそれに少しばかりの罪悪感を覚えて、マロウブルーと共にそれを飲み込んだ。
「そうですね……多分八割は塾やそれに類する所に通ってると思います」
「八割! 多いねえ」
「少なくは無いと思います。女子が少しおぼろげですけど」
「良いよ。大体でも大丈夫。でも、そうか。君の周りは勉学が当然の物、日常の大部分になっている訳だね?」
「そう、ですね。そうだと思います。それこそ呼吸するかの様に」
「呼吸」
「ええ、呼吸しなくちゃ死ぬじゃないですか。それと同じです」
先生はそこで「ふむ」と呟き、ノートに何かを書いて、顎に手を当てて考え込んだ。と言ってもそれは先程の僕よりは遥かに短くて、お茶受けの籠の中から手に取った、一口大のチョコが口の中で溶け切るより前に、先生は口を開いた。
「勉強は権利を行使する為の義務って言ってたね?」
「はい」
「ならその権利ってのは――生きる事なのかい?」
僕の目の底を、脳の奥を、心の暗闇を。全てを覗く様な目で先生は言った。僕は何も悪い事はしていない筈なのに、罪を告白する様な気持ちになってしまう。
――いや、罪人には違いないのかもしれない。それも大罪人だ。
「生きるってのは大袈裟でも、まあ概ねは。成績が高ければある程度の事は許されるし、成績が低ければそれを引き合いに持ち出して責められるし。何と言うか……勉強は当然の義務で、成績が低いのは罪、みたいな。端的に言ってしまえばヒエラルキーに所属する為の大前提と言うか……。すみません、分かりにくくて」
「いや、分かるよ。勉強はして当たり前、成績が悪いのは勉強をしてないからだと追及される訳だね。なるほど。さながら、確かに呼吸だ。生きる上での必須タスクだ」
先生はそこでノートを閉じてテーブルの上に置いた。間にペンを挟んだまま閉じているから、少しだけ隙間が出来ているけど、到底そこから文字は読み取れない。
「中宮君。じゃあ、最初の質問に戻ってみよう。君はどうして勉強をするんだい?」
「それは義務だから。さながら呼吸の様な、至極当然の義務だから」
「でもね……現実問題。勉強をしなくても――ここで言う勉強は学校のテストなんかを指すけど――とりあえずは生きていける。呼吸をしないと窒息するけど、勉強をしなくても窒息はしないんだ」
「でも……」
「でも、呼吸みたいに感じるんだよね? 息苦しくなるんだよね? じゃあそれは何故だい?」
「それは……皆がしてるから。皆が当たり前みたいにするから」
「じゃあ皆も勉強の事を呼吸の様に感じているのかな?」
「それは」
その後の言葉が続かない。それこそ肺から酸素が全て出尽くしたみたいに、僕の口はパクパク動くだけだ。先生はそんな僕を見て、諭すように言う。
「酸素ってのは目に見えない。授業で習わなきゃ存在を知る事も無いかも知れない。でも呼吸の仕組みを、酸素の役割を。一度でも知ったら、誰もが息苦しさを酸素が足りない事と考えるようになる。高山で住まう人は低濃度の酸素が普通だけど、平地で住まう人からすればそこは魔境だ。大事なのはどう考えるかさ。君が感じる『息苦しさ』は、平地から高山へ移住させられた時に感じる感覚に近しい。ならば、順応する事を覚えないと。時には下山も有りだ。自分の居場所と周囲の環境と、そして目的を知るんだ」
「居場所と環境と目的……」
「例えば、君や僕が飲む、このマロウブルー。勉学的物言いをすれば、これはBTB溶液なんかと同じ、指示薬の一つさ。色が変わる種も何て事は無い。レモン汁に成分が反応しただけ。紫キャベツと同じだね。でも、それを授業や教科書じゃなくて、君は僕から女の子を口説くテクニックとして聞いた。どっちも知識の内容は同じ、僕の口でも教科書でもね。でも、どちらの方が目的がはっきりしているかは明瞭だ。生きるのに必要なのは呼吸じゃない。生きる目的さ。目的さえあれば呼吸なんて無意識にしてる」
先生はマロウブルーを一口含む。さっきまで苦々しい顔でかき混ぜていたマロウブルーを飲み込む。それは後悔に囚われない、目的を知る人の所作だった。
僕もそれに習ってマロウブルーを一口飲む。口に広がる味をどう捉えるか。指示薬か、美味しいハーブティーか。言うまでも無く、僕はハーブティーとして喉を通す。
「勉強は大事かもしれない。でもね、中宮君。勉強は手段だ。君は今、勉強の目的を探さなくてはならない」
先生の言葉がハーブティーと一緒に身体の底へと流れ込んで行った。