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 とある平日の昼、人行き交う雑踏の中、僕はとあるビルを見上げていた。手元の地図と照らし合わせても間違いあるまい。母が誰からか聞いて来た、評判の良い「メンタルヘルス」がビルの一角にあるらしいのだが、うん、どうにも普通のビルにしか見えない。とても医療機関併設のビルとは思えない。普通に普通のオフィスビルだ。

 

「……入るか」


 そろそろビルを見上げるのも道行く人々の邪魔になってきた。僕は恐る恐るでは無いが、少なくとも堂々とは言えぬ程度の歩みでビルの中に踏み入る。手押しのドアを潜ればエントランスホールと言える様な広さの空間も無く、手前横にエレベーターと少し奥に階段があるだけだった。電気も点いていないので、外から入って来る太陽光しか光源が無い。薄暗さが不安を駆り立てる。


「鈴美原メンタルヘルス……と」


 階段手前にあった、メタルチックな階層毎の紹介パネルから目当ての名前を探す。このビルが廃ビルや怪しいビルで無い事の証明として、とりあえず、ビルを昇るより先には心の保険として見つけておきたい。


「これ、か」


 四階、鈴美原メンタルヘルス。

 このビルで最古参なのか、他の階の表記よりも擦れているが、それでも確かにその名前は刻まれていた。僕はもう一度地図に書かれた名称と照らし合わせ、確認を終えてからエレベーターに向かい、呼び出しボタンを押す。しかし、確かに押したにも拘らず、ボタンが点灯しない。不審に思い、何度かボタンを押しながら辺りを確認すると、エレベーターの横の方に、擬態色みたいになっている小さな張り紙を見つけた。

 

「エレベーター故障中。お手数ですが階段をご利用ください」

 

 僕は溜息一つ、階段を昇る事にした。

 



 四階まで昇るとなると流石に疲れたが、大した時間も掛からず、四階に辿り着く事が出来た。少し進むと無人の受付が。横にぽつんと銀色の呼び出し鈴が置かれている。


「こういうのに限らず、静かな空間で音を出すのって憚られるんだよな……」


 僕は数度辺りを窺った後、呼び出し鈴を鳴らした。他の音に埋もれない、独特の周波数の音が響く。


「はいはーい。ちょっと待ってー」


 女性――と言うよりは女の子の声が奥からした。不審に思いながらも待っていると、受付内の扉から、スリッパをぱたぱたと鳴らして、緑色のエプロンを着けている女の子が駈け足で出て来た。長い髪を後ろで一纏めにしている。

 明るさを携えた、でも目の下に濃い隈を持つ女の子だった。二つの相反する要素が、余りにもミスマッチ過ぎて、彼女に不思議な印象を抱かせる。

 

「お待たせしましたー。……ってあれ? 中宮君?」


 女の子はまだ名乗っていない僕の名前を、既知の如く口に出す。僕はそれを怪訝に思いながらも頷いた。彼女は僕の頷きに手を打ってはにかむ。


「だよねー。ほら、私。鈴美原弥美。一年の時同じクラスだった」

「……ああ、そうだったね」


 そんな風に言葉を返しながらも、僕は目の前の女の子と一年の頃の鈴美原さんとが結び付かない。

 僕が持つ記憶の中の鈴美原さんは、真面目で落ち着きのある、それでいて人と波風立てる事も無い、中心では無くとも輪から外される事も無いような人だった。成績は優秀で、学校内のヒエラルキーでも上位に位置していたし、彼女元来の性格なのか、気質なのか、他人に劣等感を抱かせない事に秀でており、成績上位陣の中では比較的接しやすい部類に入る人だった様に記憶している。


 でも、今。目の前に居る彼女は。どうにも僕の記憶の中の彼女と一致しない。彼女はこんなに笑わなかったし、人に自分から踏み込む様な事はしなかった。今目の前にある笑顔は、劣等感こそ抱かないが、憐情を抱かせるような笑顔だ。彼女の笑顔は――底冷えしてしまう笑顔だ。

 そして何より、最大の疑問になるのだが、彼女は不登校(・・・)では無かったか。その割には――濃い隈こそあるが――元気そうに見える。


「そうそう。で、中宮君。今日は何の御用? 診察ならちょっと待っててね。すぐ終わると思うから」

「え、ああ、うん」


 鈴美原さんの言葉に僕の思考は散り散りになった。僕はとりあえず、受付の傍に置かれているパイプ椅子に腰かける。僕の重みを受けて、金属同士の摩擦音が鳴った。

 タイミング同じくして、受付から出て来た鈴美原さんの手より、一枚の紙と一本のボールペンが渡される。見るに問診票の様だ。僕は膝の上でそれらを埋めて行く。

 項目は普通の医療機関の物と大差ない。名前や生年月日、自覚症状、悩み事の自由記述、そして――。


「あなたが今一番嫌い、又は憎い相手?」


 どんな医療機関の問診票にも記載無いであろう項目がそこにあった。

 こんなの、書ける訳ない。

 僕は件の欄だけを空欄にして、傍で待ってくれていた鈴美原さんに問診票とボールペンを返す。


「ありがとう」

「はい、どうもー」


 鈴美原さんはそれらを受け取って受付内の扉に消えて行く。久しぶりでは無いけど、まあ、兎に角僕だけの時間が出来た。僕は窓から見える青空を眺めつつ、鈴美原さんの変貌ぶりを考えて時間を潰した。



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