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喫茶レリーフ ~ハーブの香りに包まれて~

作者: 戸津 秋太

――00――


「お母さんの、バカ……ッ!」


 商店街の連なる通りをそれた人気のない道を、沙希さきは憤慨しながら歩いていた。

 事の発端は数分前。

 高校二年生、十六歳の沙希が六歳の頃から続けてきたピアノ。

 十年も通い続けているピアノ塾からの帰り道、母が唐突にこう口にしたのだ。


『最近、テストの成績が悪いわね。ピアノ塾をやめて、学習塾に行ったらどう?』と。


 頭に来た。

 確かに勉強が疎かになってきていることは確かだ。テストの成績も平均点をきろうとしている。

 でも! でも、だ!

 十年間続けてきたピアノを、あんなに簡単にやめろと言われて、どうして冷静でいれるのか!


 あまりにも頭にきてしまった沙希は、母親を置いて走った。

 そして、今に至るという訳だ。


「はぁ……」


 冷静になってみれば、自分は何て大人げないのだろうと、そう思えてきた。

 だがしかし、今更ひょっこり戻って母に謝るなんて、そんなのは絶対に嫌だ。思春期特有の無駄なプライドがそれを妨げるのもさることながら、事もなげにあんなことを言った母が悪いのだ。自分に非はない。


 家に戻ることも出来ず、あてもなしに歩いていると、沙希の鼻孔を何かいい匂いがくすぐり、唐突に足を止めた。


「これ、なんの匂い……?」


 清涼感のある、それでいて少しクセのある香り。

 普段はかがない、でもどこかでかいだことのあるような、そんな匂い。

 くんくんと、鼻をひくつかせて匂いの元を辿る。

 ふらふらと道を進むと、一軒の屋敷のような喫茶店に辿り着いた。


「ここからだ。えーっと、ハーブ喫茶『レリーフ』? ハーブ?」


 この匂いの正体はハーブかと納得しながら、沙希は看板から店の外見へと目を移した。

 住宅街から離れたところにあるこの店は、広い。

 白く塗られた木材で出来た門。

 その先には広めの庭があり、そこには色とりどりの草花が植えられていた。

 そして更に奥。ようやくそこに建物があった。

 その建物の一階はガラス張りで、少し遠くはあるが店内が窺える。


「こんな店があったなんて、初めて知った……」


 普段はこない場所に来て、沙希は胸が躍った。

 ふと、ポケットに手を突っ込み、財布を取り出す。

 千円札が二枚。きちんと入っていた。

 迷いはない。

 財布から視線を上げて、沙希はもう一度建物を見る。

 レンガ造りの、見ているとどこか落ち着く建造物。

 周りの植物と共存している。

 気付けば、沙希は門をくぐっていた。


◆◆


「しっ、失礼しまーす……」


 恐る恐る、沙希は店の扉を開け、中に入る。

 カランカランと扉に吊るしてあったドアベルが小気味のいい音を奏でた。


「いらっしゃいませ」


 爽やかな声で一言。

 深みのある、けれど若々しいと感じさせる声が店内に響く。

 その声の主は、店の奥のカウンターにいた。


 白いシャツに、黒色のソムリエエプロンを纏った男性。

 歳は恐らく、まだ二十代。でもそれよりももっと大人っぽく感じさせる落ち着いた雰囲気が彼にはあった。


「カウンターで、よろしいですか?」

「ひゃ、ひゃい!」


 男性の言葉に沙希は噛みながらも返す。

 バカバカバカ……と、沙希は自分の間抜けな声を恥じながら男性が促した席に腰掛けた。


「どうぞ。ご注文がお決まりになられましたら、お声かけ下さい」


 メニューを手渡し、柔らかな笑みを浮かべながら男性は囁く。

 その所作に見惚れながらも、恐らくは少し赤くなってしまったであろう頬を隠すために沙希はメニューを開き、顔を寄せた。


 ちらりと、沙希は男性を盗み見る。

 キュッキュッと音を立てながら、男性は白い布でコップを拭いていた。

 身長は180cmくらいか。スラッとしている。


(……っと、いけないいけない)


 我に返り、すぐさま沙希は視線をメニューに戻す。

 直後、そこに書かれているメニューを見て顔を顰めた。

 ハーブ、ハーブ、ハーブ。

 飲み物も、クッキーも、何もかもがハーブなのだ。

 いや、ハーブ喫茶と銘打っていることから大体の予想はついていたが、沙希自身ハーブ料理というものを口にしたことがない。

 どれにしたらよいものかと悩んでいると、そんな沙希の様子を見ていた男性が声をかける。


「どうか、されましたか?」

「あ……っ、えっと」


 一瞬肩をビクッと震わせる。

 どうしたものか。男性はきっとハーブをこよなく愛しているのだろう。

 そんなことは店の雰囲気から分かる。……今は沙希以外に客はいないが。

 ともかく、そんな人に、自分は今までハーブに全く興味がなかったのですが、たまたまこの店が目についてふらっと立ち寄りました。なんていうのは失礼ではなかろうか。

 少し逡巡してから、いや……と、沙希は腹を決める。

 グチグチ悩んでいても仕方がない。正直に言おう。


「その、たまたまこのお店の近くを通りかかったら、いい匂いがして、そのままここにきてしまったといいますか……。私、ハーブ料理を口にしたことがなくて、どれがいいのか分からないんです!」


 ありのままを説明する。

 それから、沙希は恐る恐る男性の表情を窺う。

 彼は、沙希の予想とは真逆の反応を示した。


「興味を抱いていただき、ありがとうございます」


 柔らかく微笑みながら、彼は軽く頭を下げながらそう言った。


「ふぇ?」


 驚きのあまり気の抜けた声が漏れる。


「お、怒っていないんですか?」

「……? 何を怒るのですか? あなたのように、この店にはハーブ料理なんてめったに口にしたことのない方はよくお越しになられますよ。私はハーブの魅力を、まだ知らない方に知ってほしくてこの店をやっていますからね。むしろ大歓迎です」


 ほっ……と息を吐く。

 安堵したところで、ん? と沙希は頭上に疑問符を浮かべた。


「この店をやっているって、まさか……」

「はい。私はこの店、喫茶レリーフのマスターをしています。マスターと言っても、従業員は私だけですが」


 苦笑しながら彼はそう口にした。

 清涼感漂う彼の佇まいに、沙希は思わず見惚れる。

 それを見て、マスターはどうかされましたか? と声をかける。


「あっ、その、マ、マスター?」

「はい?」

「何か、おすすめの料理はありますか?」


 あぁ……と、マスターは頷く。


「申し訳ありません。そういうお話でしたね。えぇ、よろしければ私が何かお選びいたします。どのようなものがいいですか?」

「そうですね……」


 言われて沙希は、んーっと人差し指を唇に添え、考える。

 元々、お腹が空いて立ち寄ったわけではない。

 ただ、あまりにも自分の鼻孔をくすぐったハーブの香りが心地よかったから、ふらりと、まるで花の蜜に群がる蝶たちのようにこの店にきてしまっただけだ。


「飲み物を。強いて言えばあまり癖の強くないものを。初めてなので……」


 沙希の答えに、マスターは嬉しそうに微笑む。


「かしこまりました。そうですね、ではレモニーミントティーはいかがでしょう」


 いかがでしょうと言われても、沙希にはよく分からない。

 とはいえ、このマスターはことハーブに関しては精通しているだろう。

 ならば、今選択に間違いはないに決まっている。

 それにミントだ、ミント。大丈夫。聞いたことがある。


「では、それでお願いします」

「かしこまりました」


 マスターは手元からごそごそと二種類の葉っぱの付いた枝を取り出した。

 どうやら、ここで作るらしい。

 沙希は、葉をジーッと見つめる。

 すると、その視線に気付いたマスターが沙希の顔にそれを近づけながら言った。


「これが、ミントの葉です。こちらがレモンバーム。この二つの葉を使ってお茶を淹れるのです」


 そう説明されて、なるほどと沙希は頷く。

 だが、ミントは分かるがレモンバームが何なのかは分からない。

 レモンなのだろうか。


「レモンバームは、レモンのような香りがするのです。この葉はシトラールも含んでいて、リラックス効果などがあるとされています」


 葉を洗いながら、マスターはそう付け加えた。

 何だか、考えていたことをよまれたような何とも言えない気恥ずかしさを沙希は抱いた。


「アイスとホット、どちらになさいますか?」


 ポットに先ほどの二種類の葉を入れながら、マスターが聞いてきた。

 基本的に沙希は猫舌……とまではいかないが、冬でもない限りホットは飲まない。

 桜が散ったばかりの春ならば、なおさらだ。


「アイスで」


 一言、簡潔に答えるとマスターは微笑みながら頷く。

 脇で沸騰させていた熱湯をポットに注ぎ、それからふたをした。

 そのまま、マスターは再び白い布でコップを拭きはじめた。

 それを、沙希は無言で見つめる。


 キュッキュッと、コップを拭く音が店内で静かに響く。

 無言。

 でも、その無言は心地のいいものだ。


 そうしてボーッとしていると、不意にマスターが動きを止めた。

 どうやら、時間が経ったらしい。

 後ろにある食器棚からコップを取り出し、そこにポットの中の液体を注ぐ。


「ん?」


 それを見て、沙希は眉を寄せた。

 素人目でもわかるくらいに、注がれた液体は濃かった。

 だが、すぐにその答えが出る。

 ポトポトと、一個ずつ慎重にマスターが氷を入れていく。


 それなら、最初から氷を入れておけばいいのに。

 沙希がそう思ったのが分かったのか、マスターは照れたような笑みを浮かべる。


「よく言われるんですよ、お客様に。最初から氷を入れておけば、はねずにすむのにと。でも私はこうしたいんです。こうして、ハーブから抽出された色を見たい」

「は、はぁ……」


 何を言っているのかいまいち理解できないが、どうやらこのマスターは余程ハーブが好きらしい。

 それもそうか。

 この店を一人でやるくらいのだから。


「どうぞ。レモニーミントティーです」


 沙希の目の前に、布で出来たコースターを敷いてから、コップを置く。

 葉の色から、もうすこし緑っぽい色を想像していたが、実際はレモンに近い色をしている。


「ありがとうございます……」


 おずおずと、置かれたコップを手に取り、さしてあったストローを口元に運ぶ。

 そして、そのまま……


「!」


 沙希は、目を見開いた。

 初めに、ミントのすっきりとした、そしてそれを追ってレモンに似た香りがふんわりと口の中で広がる。


「ふわぁ~」


 一口飲んで、盛大に息をつく。

 マスターが言っていたからではないが、何だか落ち着く。

 嫌いじゃない。

 それが、沙希の第一印象であった。


「お気に召したようで何よりです。ハーブは人を選びますから、一口目で美味しくないと思う方も多いのですよ」

「え、そうなんですか? こんなにおいしいのに……」


 意外だ、と。

 正直、普段飲んでいるコーヒーよりも断然こちらの方が好みだ。

 すると、マスターは柔和な笑顔を浮かべる。


「よかった。念のため蜂蜜も用意したのですが、大丈夫なようですね」

「え、蜂蜜?」

「ええ。これを入れると甘くなって、ハーブの癖も弱くなるので苦手な方でも飲みやすくなるのです」

「へー」

「あぁ、でもこれはホットの方が美味しいと思うので、その状態でお飲みになれるのでしたら入れないほうがいいかもしれませんね」


 そう言われれば入れるわけにはいかない。

 そのまま、沙希はゆっくりと爽やかな風味を楽しみながらレモニーミントティーに舌鼓を打った。


◆◆


「御馳走様でした!」


 お金を支払いながら、沙希は満面の笑みを浮かべる。

 この店に来る前に、母と喧嘩したことは既に忘れてしまっていた。


「いえいえ。これを機にハーブをもっと楽しんでいただければ私は嬉しいです」


 微笑みながら、おつりを沙希の手に渡す。

 と、その手を通じて硬貨とは明らかに違う感触を覚えた。


「あの、これは……?」


 ひねりタイプに包装された飴玉が、おつりに紛れて一つ、沙希の手にのっていた。


「おまけです。ハーブで出来たキャンディーになっています」

「あ、ありがとうございます!」


 頭を下げてそれを受け取り、沙希は懐にしまう。

 そして、再度頭を下げて、喫茶レリーフを後にした。


 帰り道、折角だからと沙希は包装をはがして飴を口に入れる。

 コロコロと舌の上で転がす。

 先ほど飲んだレモニーミントティーと似たような清涼感が口いっぱいにふんわりと広がっていく。


 沙希は、そのまま上機嫌で家に帰る。

 また、あのハーブの香りに包まれた喫茶レリーフに行こうと、そう心に決めて。

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[一言] 心がほっこりとして優しくなれました
[良い点] マスターとの会話のやり取りはスムーズに進み、分かりやすかったです。また、行く経緯も違和感もありませんでした。 [気になる点] 料理小説なのに、料理に対する描写がほぼないので、そこを増やすと…
[良い点] 描写が丁寧で、雰囲気がよく伝わりました。ディティールへのこだわりを感じ、マスターの考え方や姿勢にリアリティを感じました。 [気になる点] 結局、主人公が冒頭に抱えた不満は一時的な忘却にあっ…
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